世界が色付くまで

篠原 皐月

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第2話 過去~恭子の場合

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 柏木邸に戻って来た清人は、すれ違う使用人達と十年来の知り合いの様に気安く帰宅の挨拶を交わしつつ、二階へと上がって自分達夫婦にあてがわれている一角へと足を進めた。そして夫婦用のリビングとして使用している部屋のドアを軽くノックし、応答を待たずにドアを押し開けながら声をかける。

「真澄、今戻った」
「お帰りなさい、清人」
 壁に掛けられたテレビで何やら見ていた真澄は、リモコンで映像を止めてから応接セットのソファーから立ち上がり、笑顔で清人に歩み寄って抱き付いた。対する清人も顔を緩め、真澄を軽く抱き締め返しながら、謝罪の言葉を口にする。

「悪かったな。ここに移ってから初めての週末だったのに、一人で留守番をさせてしまって」
「そんな事は良いのよ。小笠原社長は週末しか家にいないでしょうし。それで? 由紀子さんは気を悪くしたりしなかった?」
 今日、清人が恭子を同伴して小笠原邸を尋ねる理由を聞かされていた真澄は、心持ち心配そうに首尾を尋ねたが、清人は小さく溜め息を吐いた。

「悪くするどころか……。『浮気なんかしないでしょう?』と、無意識にのろけていたぞ」
「あら、直に見たかったわ。うんざりする清人の顔」
「あのな」
 どこか疲れた様な表情を浮かべた清人に、真澄がつい茶化す様に応じてから話を変えた。

「ところで、恭子さんは元気? 最近バタバタして連絡もろくに取り合っていなかったから、せっかくだから家に連れて来てくれれば良かったのに」
 笑いながらそんな事を言った真澄を誘導して二人掛けのソファーに座らせ、自分も隣に座って身体を斜めにしながら、清人は話を切り出した。

「それなんだがな……。実は今度、川島さんに俺のマンションに住んで貰う事にした」
「どうして? 仕事場としてこのまま使うんじゃなかったの?」
「それは後から説明するが……、真澄」
「何?」
 急に怖い位真剣に自分の顔を見つめてきた清人に、真澄も身体を斜めにして清人に真顔で問い返した。すると清人が問いを重ねてくる。

「お前は彼女の過去を、どの程度知っている?」
 探る様な視線を向けられても、真澄は微塵も臆する事無く小首を傾げた。

「どの程度って……。知り合った直後に一通り聞いた程度だけど? 借金苦で一家心中を図ったけど彼女だけ生き残って、その後売春を強要させられていて、それからある人に愛人として引き取られて、その傍らクラブ勤めをしていたって事位よ。それが何?」
 すこぶる冷静に、友人のとんでもない過去を言ってのけた妻の姿に、清人は思わず呆れと感心が入り混じった溜め息を吐いた。

「『それが何?』とサラッと言えるお前も凄いが、殆ど初対面のお前にそこまで明け透けに語る彼女も相当だな。どうしてそこまで意気投合できたのやら。本当に真澄は男は落とさないが、女はあちこちで誑し込んでいる様だな」
 その論評を聞いた真澄は、流石に声を荒げた。

「ちょっと! 人を女誑し呼ばわりしないでくれる!?」
「厳然たる事実だろう。社内では同期にも年下にも熱烈に好かれているくせに、何を今更」
「私が口説いたわけじゃないわよ!!」
「分かった分かった。そう興奮するな。腹の子が驚く」
「全くもう……、清人のせいでしょうが」
 苦笑した清人に宥められた真澄は、ブツブツ言いながら何とか怒りを抑えたが、ふと恭子との話で思い出した事を口にした。

「ああ、そう言えば……。彼女、そのお屋敷を出て清人の下で働く事になった経緯が、良く分かっていないって言ってたわね。清人に聞いても教えて貰えなかったって。一体どういう事?」
「……聞きたいのか?」
 何故か清人が再び真顔になり、確認を入れてきたが、真澄は小さく肩を竦めて素っ気なく答えた。

「別に、私が聞く必要が無いなら聞かないわ。ただ、恭子さんが今でも知りたがっているなら、教えてあげれば?」
「そうだよな、真澄……。お前は本当に大した女だ」
「どうしてそこで笑い出すわけ?」
 急に口元を押さえて、くつくつと笑い出した清人に真澄が怪訝な顔をすると、清人が笑いを収めて真剣な口調で話を進めた。

「いや、すまん。この際お前に洗いざらい話しておく。全面的にお前の協力が必要になってきたしな」
「協力って何の事?」
「それは後から話す。まず……、さっきの彼女に関する話は、概ね正しい。俺が引き取る前、彼女を囲ってたのは加積康二郎だ。そいつについて、彼女から何か聞いているか?」
「いいえ。『不用意に口に出すのも憚られるから』と恭子さんに言われたから、それ以上踏み込んで聞かなかったわ。どんな人?」
 軽く首を振ってから多少好奇心を露わにして真澄が問い掛けると、清人は顔を顰め、苦々しい口調で端的に告げた。

「一言で言えば、得体の知れない妖怪じじぃだ」
「妖怪って……、あのね、清人」
 流石に真澄が窘めようとしたが、清人は説明を止めなかった。

「長年、政財界を陰で牛耳ってた、後ろ暗い噂てんこ盛りの人物だ。『陰の総理』とか『最後のフィクサー』とかの二つ名が色々あるが、あらゆる意味でヤバ過ぎて、真っ当な人間が関わり合う類の人間じゃない。彼女がお前に名前すら教えなかったのは当然だ」
 そこまで聞いた真澄の頭の片隅で、何かが引っかかった。

「ちょっと待って……。確か『加積』って、そんな名前が、今度の披露宴の新郎側列席者の名簿に無かったかしら?」
「あるぞ。夫婦で招待したからな」
「どうして!? 人には関わり合いになるなと言っておきながら、自分の披露宴に出席して貰うのは構わないわけ? 第一、お父様やお祖父様達は流石にその人の事を知っているのよね? 招待する事について、何か言われなかったの?」
 あまりにも平然と答えた清人に真澄は思わず詰め寄ったが、清人が事も無げに状況を説明する。

「色々あって試しに招待状を送ってみたら、出席で返事が来てしまったんだ。返送してくる位だから向こうは支障は無いだろうし、名簿を見たお義父さんは流石に固まって絶句してたが、お義祖父さんは『変わった人物と知り合いじゃの』の一言で済んだから、こちらも一応問題は無い」
 それを聞いて真澄は軽い頭痛を覚えたものの、何とか気を取り直して話を続ける事にした。

「それなら良いけど……。じゃあ恭子さんは、その人の愛人だったわけね」
「ああ。彼女は加積老の四号で、奥方に結構気に入られていたらしいな。それで」
「清人、何? その四号って?」
 聞き慣れない単語を耳にして、思わず清人の話の腰を折ってしまった真澄だったが、清人は懇切丁寧に解説を加えた。

「俗に、正妻以外の女の事を何て言う?」
「それは……、愛人とか妾とか、二号とか?」
「そうだ。だから加積老の一番目の愛人が二号で、二番目の愛人が三号で、彼女は三番目の愛人だったから四号なわけだ」
「……三番目?」
 思わずヒクッと片頬を引き攣らせた真澄に、清人が更に彼女にとって理解に苦しむ台詞を吐き出す。

「ああ。屋敷に引き取られた時、細君の他に既に他の愛人が二人住んでいたそうで」
「ちょっと待って。それじゃあまるで、同じ屋敷の中に正妻に加えて愛人が三人同居してた様に聞こえるんだけど?」
 些か慌て気味に確認を入れた真澄だったが、清人はあっさりと頷いてそれを肯定した。

「勿論そうだ。因みに東の棟に住んでた正妻の名前が『桜』で、偶々そこの庭が春の樹木で整えた仕様の庭だったから、それに合わせて屋敷内では南側の夏仕様の庭がある棟に住む二号を『蓮』、秋仕様の庭がある西棟に住む三号は『楓』、冬仕様の北の棟に住んでた彼女は『椿』と呼ばれてたそうだ」
 それを聞いた真澄は、憮然としながら呟く。

「……あまり、良い趣味とは言えないわね」
「妻妾同居が? それとも庭に合わせて呼び名を付ける事がか?」
「両方。理解の範疇を越えてるわ」
 もはやはっきりと顔を顰めてみせた真澄に、清人が困った様に肩を竦める。

「あの屋敷には二度出向いたが、少なくとも庭の趣味は良かったがな」
「清人?」
 ここで愛妻からはっきりとした怒りの表情を向けられた清人は、早々に話題を変える事にした。

「そう怒らないでくれ。それで、そもそも彼女がそこに引き取られた経緯だが、彼女が十八の時、客を取ってる最中に警察の手入れがあって、証拠隠滅を図った元締めの男に、五階の窓から突き落とされたそうなんだ」
「五階……って、冗談でしょう!?」
 瞬時に顔色を変えた真澄に、清人は一瞬話し出した事を後悔したが、なるべく穏便な表現を心掛けつつ話を続けた。

「本当だ。しかし悪運が強いと言うか何と言うか……。偶々倉庫みたいな建物の屋根に落ちて、肩の骨や肋骨を何本も折ったが、頭や内蔵は奇跡的に損傷せずに済んだらしい。そして警察病院に担ぎ込まれて入院していた時、偶々誰かの見舞いに来ていた加積の細君の目に留まったみたいだな」
「どこが、どんな風に?」
「それは細君に聞いてみないと何とも分からん。しかし普通なら売春容疑で逮捕拘禁、書類送検だけで済んでも従来通り客を取らされて金を搾り取られるだけだったところを、加積が事件を揉み消した末、金を払って彼女の身柄を引き取ったわけだ」
「正直、もう想像不可能なんだけど……」
 本気で額を押さえて呻いた真澄を、清人が溜め息を吐いて宥める。

「お前はそんな事は分からなくて良い。それで加積の屋敷に引き取られてから、彼女は愛人業務の傍ら、まず通信教育を受けさせられたそうだ」
「は? 何の?」
 いきなり脈絡の無さそうな言葉が耳に飛び込んできた為、真澄は思わず顔を上げて不思議そうに清人を見やった。そんな彼女に清人が冷静に説明を続ける。

「高校卒業資格を取る為の奴だ。彼女、高校二年の途中で退学扱いになってたからな。他にも正妻からは茶道と華道と三弦をみっちり仕込まれ、二号は派閥抗争に嫌気が差して各種人間の観察に適したそこの屋敷に転がり込んだ学者崩れだったから、精神分析学と社会生物学を心ゆくまで講義され、三号は現役の高級クラブのオーナーだったから、接客のイロハをとことん叩き込まれたそうだ」
「……本当に、愛人だったの?」
 もの凄く疑わしそうに尋ねた真澄に、清人は困った様に話を続ける。

「相手にしないといけない回数は格段に減ったらしいが、れっきとした愛人扱いだったらしいぞ? 偶にだが、他に貸し出されたりもしてたそうだし」
「もうわけが分からないわ」
 本気で項垂れた真澄を見下ろし清人は苦笑したが、すぐに顔付きを改めた。

「屋敷中から可愛がられていたんだ、彼女は。普通とは違った、愛情表現ばかりだったがな。実は彼女が俺の下で働き始めた後少し調べてみたら、彼女が加積の屋敷に引き取られて以降、彼女の地元で次々に不可解な事件が起こっていた」
「どういう事?」
「彼女の父親が借金をした理由だが、従業員が会社の金を使い込んで資金繰りが悪化した所に、連帯保証人を引き受けた友人が父親に借金を押し付けて失踪した挙句、工場の技術を持ち出して他社に売り込込んだ従業員が出たりして忽ち経営が傾いてな。タチの悪い高利貸しに借金したのがきっかけだ」
「それは聞いてるわ」
「その彼女の父親を裏切ったり陥れた連中、家族全員悉く浮いたり沈んだり固められたり埋められたりしてた。彼女の経歴を調べて、加積夫妻が腹に据えかねたんだろうな」
「どういう意味?」
 清人が最後に言った言葉の意味が半分以上分からず、真澄は真顔で首を捻ったが、対する清人は途端に渋面になった。

「悪い、つい喋り過ぎた。詳しく聞かない方が良いぞ? 何日か飯が食えなくなる可能性がある。妊娠中にそれは拙いだろう」
「……止めておきます」
「そうしてくれ」
 互いに真顔でのやり取りの後、清人は話を進めた。

「それで彼女が高卒の資格を取った二十歳の時、三号が切り盛りしてる銀座の高級クラブで、週四日働き出したんだ」
 それを聞いた途端、真澄は激高した。

「はぁ!? さっきから黙って聞いてれば、何を考えてるのよその加積ってじじぃとばばぁは!?」
「おい、真澄! じじぃとばばぁって!」
「だってじじぃとばばぁでしょう? 愛人として囲った挙げ句に訳分からない事をさせた上、外で働かせて搾り取ろうってどれだけ強欲なのよ!?」
「それは違う。彼女に稼がせるのが目的じゃなくて、じじぃなりに彼女の買い手を探してたんだ」
「は? 買い手って、何?」
 焦って弁解じみた声を出した清人に真澄が怪訝な顔をすると、清人は疲れた様な表情と声音で言葉を継いだ。

「だから……、大事に屋敷の奥にしまい込んでいたら、誰の目にも留まらないだろうが。あのクラブは一見は入れない高級クラブで、当然客層もそれなりだ。彼女の以前の経歴はある程度隠す事はできるが無かった事にはできないし、そうなればいっその事、下手に隠さなくても丸ごと彼女を受け入れて任せられる男が出て来ないかと、加積老は期待していたんだ」
「自分の愛人にしたまま?」
「それでも引っ張ろうとする位の気構えがないと、駄目って事だろうな。現に店に出ていた時、結構ちょっかいを出してきた男がいたらしいが、少し調べれば加積の女だってすぐ分かるから、悉くあっさり手を引いてたらしい」
「じゃあ愛人扱いなんか止めて、養女にでもすれば良いじゃないの」
 物凄く疑わしげな表情で指摘した真澄だったが、清人が真顔で正論らしきものを繰り出す。

「それでも『愛人では?』とか、勘ぐる奴はいるだろう。それなられっきとした愛人として扱っておいた方が、下手な雑魚が近寄らなくて良いって判断だったらしい」
「一理有るような無いような……、微妙過ぎる判断だわ」
 思わず真澄が唸った横で、ここで清人が急に口調を苦々しい物に変えながら言い出した。
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