世界が色付くまで

篠原 皐月

文字の大きさ
66 / 104

第62話 陰でのやり取り 

しおりを挟む
 重い溜め息を吐いてから、浩一は偶々帰宅した住人と一緒にエントランスの自動ドアを通り、部屋へと戻ったが、ここで鍵を持たずに出た事に気付いてオートロックで無かった事と、先程他の住人が居合わせた事に感謝した。本来であれば自動ドアの前で恭子を呼び出して、中からロックを外して貰えば良いのだが、なんとなく応答してくれなさそうな気がしたからである。
 案の定リビングに、恭子の姿と桜が持参した箱は無く、彼女の部屋に向かってみた浩一はドアをノックしようとして躊躇い、次に軽くドアノブを回してみて内側から施錠されている事を確認してから、無言のままリビングに戻った。
 色々有り過ぎて、とてもこのまま食事を続行する気分になれなかった浩一は、脱いでおいた上着のポケットからスマホを取り出し、ソファーに向かった。そして乱暴に腰を下ろしてから、迷わず親友兼義兄の携帯番号を選択する。するといつも通りの、皮肉げな声が返ってきた。

「浩一、どうかしたのか?」
「今、平気か?」
「ああ、構わないが」
「さっき加積夫人が来た。昨年暮れに加積老が亡くなったそうで、彼女に形見分けにな」
 いきなり用件を切り出した浩一に、清人は一瞬絶句してから、しみじみとした口調で感想を述べた。

「そうか……、あのじいさん、くたばってたか。百を過ぎても死なない感じがしてたんだがな」
「……清人」
「何だ?」
「俺は今、好き放題に生きた挙げ句、あっさりくたばった年寄りに、もの凄く嫉妬してる」
「どうしてだ?」
 静かに尋ねてきた清人に、浩一はスマホを耳に当てたまま、中空にぼんやりとした視線を向けながら答えた。

「俺が死んでも、彼女はあんな風に泣いてくれないと思う。精々『良い人だったのに残念ね』程度の事を言ってお終いじゃないかと」
「てめぇ、ふざけんなよ?」
「自虐的過ぎるか?」
 いきなり地を這う様な声音で自分の台詞を遮ってきた清人に、浩一は自嘲的に笑ったが、そんな彼に清人の本気の怒声が浴びせられた。

「違う! あいつを一人で残して、ぽっくり早死にする気かお前は!? そんな気構えしか無いなら、荷物を纏めて今すぐそこを出ろ!!」
 その鋭い口調の叱責に、浩一は目を見開いて固まった。そしてすぐに目を伏せて、自分の不見識について詫びる。

「……悪い。口が滑った」
「二度と言うな。不愉快だ」
「ああ」
 それから少しの間沈黙が漂ったが、再び浩一が口を開いた。

「清人」
「何だ?」
「夫人から、十年契約の事も聞いた」
「それは……」
 それを聞いて、今度は清人が何か言いかけて口を噤んでから、控え目に尋ねてきた。
「……怒ったか?」
 それに浩一が苦笑で返す。

「夫人にも同じ事を聞かれたが、俺に怒る権利があると? お前には感謝してる。どうしてここまで手助けしてくれるのか、正直分からないな」
「お前の事は、真澄と清香の次に好きなんだよ。お前が男で、俺がその気の無いノーマルな男で良かったな」
「いきなり何を言い出すんだ、お前?」
 唐突に清人が言い出した内容に浩一は呆気に取られたが、清人は更に斜め上の発想を口にした。

「そうじゃなかったら、真澄が正妻でお前が愛人で、姉妹か姉弟の泥沼の骨肉相食む昼ドラばりの展開だった」
 そう清人が言い放った瞬間、思わず素直にその情景を想像しかけた浩一は無言で固まった。そして目を閉じてがっくりと項垂れながら、電話の相手の清人に謝罪する。

「…………悪い。今言われた内容、俺の想像力の限界を越えた」
「そこから更に一歩進んで、想像の翼を広げられるか否かが、作家になれるか否かの別れ道だな」
「俺は作家になる気は皆無だから、一歩たりとも踏み出すつもりはない」
「そうか。それは残念だ」
 そうしてどちらからともなく忍び笑いが漏れ、両者でくつくつと笑ってから、浩一はいつもの調子を取り戻し、相手に謝罪した。

「つまらない愚痴を聞かせて悪かった。あと、夫人から姉さんにお礼を言ってくれと言付かった」
「真澄に?」
「『彼女が仲良くして貰っているから』だそうだ。『頼まれた件は承りました』とも言ってた」
「分かった、俺から伝えておく。それじゃあな」
 そこで通話を終わらせた浩一は、気を取り直して残したままの食事に再び手を付け始めたが、その一方で、清人は自室で携帯電話を手にしたままひとりごちた。

「さて……、それじゃあもう少し、あいつの尻を叩いてやるとするか」
 そして直ちにアドレス帳から該当の番号を探し出し、電話をかけ始める。

「清人ですが、葛西先輩ですか?」
「ああ、どうした? 珍しいな、こんな時間に。嫁と仲良くしなくて良いのか? それとも子供ができたら、種馬はもう用無しか?」
 挨拶もそこそこに皮肉をぶつけてきた相手に(相変わらずだな……)と苦笑しつつ、清人は顔を引き締めて単刀直入に切り出した。

「先輩との会話が済んだら、すぐに仲良くしますよ。ところで、悪者になるつもりはありませんか?」
「誰に対しての悪者かによるな」
「浩一に対しての、です」
 そう清人が口にした途端、電話の向こうから嬉々とした声が返ってきた。

「遅いぞ! この悪党が、これまで散々じらしやがって! 俺はどんな事に一枚噛めば良いんだ?」
「今からご説明します」
 完全にやる気満々の葛西に向かって事の次第を説明しながら、清人は(今度こそ完全に、あいつを怒らせる事になるかもしれないがな)と密かに覚悟を決めていた。
 そして大して長くも無い話を終わらせ、詳しい日時は後から相談と言う事にして葛西との通話を終わらせると、タイミング良く授乳後に子供達を寝かしつけた真澄が、寝室から出て来た。

「真澄、ちょうど良かった。さっき浩一から電話が有った」
「あら、何か用事が有ったの?」
 何気なく尋ねてきた真澄に、清人が端的に告げる。
「加積夫人が暮れに旦那が死んだ事を伝えに来て、川島さんに形見分けして行ったそうだ」
 それを聞いた真澄は驚いた様に目を見張ったが、次の瞬間神妙に頷いたのみだった。

「……そう。亡くなったの」
「それから夫人からお前に伝言だ。何だかは分からんが、頼まれた件は応じてくれるそうだぞ?」
「それは良かったわ」
 真澄が加積サイドに頼んだ内容に関して薄々察してはいたものの、清人はそれには触れずに携帯をテーブルに置いて椅子から立ち上がった。

「じゃあ俺は、風呂に入ってくる」
「ええ」
 そして清人が部屋を出て行くのを見送ってから、真澄は自分のスマホを取り上げた。しかし逡巡する素振りを見せてから、思い切った様に番号を選択して電話をかける。そして応答があると、如何にも申し訳無さそうにお伺いを立てた。

「もしもし、柏木ですが。鶴田先輩、今お時間は大丈夫ですか?」
 その問いかけに、真澄が営業三課時代の先輩であり、現在は浩一の下で係長の役職に就いている鶴田が、怪訝な声で応じた。

「ああ、平気だが……、一体どうしたんだ? 直接電話を貰うのは、三課時代以来だよな?」
「その……、鶴田先輩に、折り入ってお願いがありまして……」
「それは構わないが……、何か仕事上の事か? この事を旦那は知ってるのか?」
 益々困惑した様に返してきた鶴田に、真澄は思い切った様に口を開いた。

「これは一人の課長としての依頼ではなくて、柏木浩一の姉としてのお願いなんです。公私混同だと言う事は重々承知していますが、これは主人に頼んでも、どうにもならない問題だと思いますので……」
 そこで真澄は言葉を濁したが、逆に鶴田は腹を据えた様に力強く請け負う。

「分かった。何でも言ってみろ。昔から無駄な事とどうしても不可能な事は、一度も口にした事がなかったお前だ。どんなに無茶な事を言っても、何でも言う通りにしてやろうじゃないか」
「ありがとうございます、鶴田先輩」
 心から安堵した声を出した真澄は、それから電話越しに手短に事情を説明し、依頼した内容を暫くの間口外しない事を念押しした上で、彼にやって欲しい事について、ひたすら恐縮しながら語った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

フローライト

藤谷 郁
恋愛
彩子(さいこ)は恋愛経験のない24歳。 ある日、友人の婚約話をきっかけに自分の未来を考えるようになる。 結婚するのか、それとも独身で過ごすのか? 「……そもそも私に、恋愛なんてできるのかな」 そんな時、伯母が見合い話を持ってきた。 写真を見れば、スーツを着た青年が、穏やかに微笑んでいる。 「趣味はこうぶつ?」 釣書を見ながら迷う彩子だが、不思議と、その青年には会いたいと思うのだった… ※他サイトにも掲載

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

魅了持ちの執事と侯爵令嬢

tii
恋愛
あらすじ ――その執事は、完璧にして美しき存在。 だが、彼が仕えるのは、”魅了の魔”に抗う血を継ぐ、高貴なる侯爵令嬢だった。 舞踏会、陰謀、政略の渦巻く宮廷で、誰もが心を奪われる彼の「美」は、決して無害なものではない。 その美貌に隠された秘密が、ひとりの少女を、ひとりの弟を、そして侯爵家、はたまた国家の運命さえも狂わせていく。 愛とは何か。忠誠とは、自由とは―― これは、決して交わることを許されぬ者たちが、禁忌に触れながらも惹かれ合う、宮廷幻想譚。

27歳女子が婚活してみたけど何か質問ある?

藍沢咲良
恋愛
一色唯(Ishiki Yui )、最近ちょっと苛々しがちの27歳。 結婚適齢期だなんて言葉、誰が作った?彼氏がいなきゃ寂しい女確定なの? もう、みんな、うるさい! 私は私。好きに生きさせてよね。 この世のしがらみというものは、20代後半女子であっても放っておいてはくれないものだ。 彼氏なんていなくても。結婚なんてしてなくても。楽しければいいじゃない。仕事が楽しくて趣味も充実してればそれで私の人生は満足だった。 私の人生に彩りをくれる、その人。 その人に、私はどうやら巡り合わないといけないらしい。 ⭐︎素敵な表紙は仲良しの漫画家さんに描いて頂きました。著作権保護の為、無断転載はご遠慮ください。 ⭐︎この作品はエブリスタでも投稿しています。

処理中です...