いらっしゃいませ、久遠様

篠原皐月

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(7)新たな来訪者

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 賃貸契約を済ませると喫茶店の開店準備はトントン拍子に進み、郁も胸を撫で下ろしていた。

「どうぞ召し上がってください」
 近くに出向いたついでに店舗を覗いた郁は、まずは一杯どうぞと勧められて断りきれず、カウンター席に座った。そして目の前にカップが置かれると同時に頭を下げる。

「すみません。ちょっと様子を見に立ち寄っただけなのに、却って申し訳なかったです」
「いえ、新見さんには、備品の購入について相談に乗って貰ったり、色々なお店を紹介していただいて助かりました」
「そう言って貰えると、こちらも嬉しいです。準備も順調に進んで、開店までもう少しですね」
「ありがとうございます。椅子やテーブルはそのまま使えますし、初期投資が少なくて助かりました」
「あとは、どれくらいお客が来てくれるかどうかですね。ここならそれなりにお客は入るかと思いますが」
 カップを手にした郁が、考え込みつつ口にする。それに三好も真顔で応じた。

「それに関してですが、短時間のパートかアルバイトを入れようかと考えています」
「ドアに貼ってあった、あの張り紙ですね? 確かに三好さん一人では、手が回らなくなる時が出てくるかもしれませんね」
「そうは言っても、現時点で幾ら出せるかわからないので、時給はかなり低く設定してあるのですが。お客が増えてきたら増額する感じで、話をしようと思っています」
「そうですね。それでお互いに納得できれば、最初はそれで進めてみても良いのではないでしょうか」
 二人きりの店内でそんな世間話をしていると、郁の背後で声が生じる。

「ほう? 以前より、随分と整ってきた感じがするの」
 それを耳にした途端、三好は笑顔で頭を下げ、郁は心底嫌そうに椅子に座ったまま振り返った。

「久遠様、いらっしゃいませ」
「また出てきた……。得体の知れない狐が」
 すると久遠は優雅に歩み寄り、郁の隣の椅子に座った。

「聞こえておるぞ。我の姿が見えるなら最低限の信心はあると思うのに、色々な意味で気の毒なやつじゃな」
「どうして私が気の毒なのよ?」
 ブツブツと郁が悪態を吐いたところで、ドアベルが音を立てた。三人が反射的に視線を向けると、一人の初老の女性が入って来たのを目にする。

「すみません、この張り紙を見たのですけど。ホール担当のパートやアルバイトを募集していると書いて……。え? 狐!? どうしてこんな所に!? ぬいぐるみじゃなくて、生きた狐ですよね!?」
 その女性はドアに貼ってあった募集の張り紙に言及した次の瞬間、久遠が座っている座席を見ながら驚愕の叫びを上げた。その反応に郁達も驚き、激しく動揺する。

(え? まさか久遠様が見えているのか?)
(見えている上に、どうやら狐の姿で見えているのよね? どういうこと?)
(おや? 油断したな。お前達と比べてもかなり信心があって、我の姿が見えているらしい。今から姿を消しても却って怪しまれるだろうし、適当に話を合わせておけば良かろう)
(というか、どうしてお互いが考えていることが分かるのよ!? それだけでも驚くのに、そんな悠長な事を言っている場合じゃないわよね!?)
(声を出しては余計に混乱させるかと思ったのだが。余計な気遣いだったか?)
(必要な配慮かもしれないけど、そういう事ができるならできると予め言って欲しいわね!)
(ええと……、それでは、どうすれば良いのでしょうか?)
(手っ取り早く、この人の記憶を消してしまえば良いんじゃない?)
(神が万能だと思うな。我にそんな力は無い)
(威張って言うこと? それに神様と言っても、やっぱり小物なのね)
(新見さん! 幾らなんでも、久遠様に失礼ですよ!)
 動揺しながら郁達が脳内で会話をしていると、黙り込んだ三人にしびれを切らしたのか、先程の女性が再び問いかけてきた。

「お尋ねしますが、この狐はこちらで飼われているんですか?」
「え、ええと……、そんなもの、でしょうか……」
 まさかこの都会のど真ん中に野生の狐が生息しているはずもなく、三好は口ごもりながら告げた。すると彼女は、急に期待に満ちた眼差しで懇願してくる。

「あの……、いきなり不躾なお願いなのですが、この狐さんを触ってみてもよろしいでしょうか? なんだか、この子だったら大丈夫な気がするもので」
 それでピンときた郁は、その女性に確認を入れた。

「『大丈夫』と言うのは……、もしかして動物アレルギーですか?」
「はい。子どもの頃からアレルギーで、触るどころか近寄るだけでも駄目でした。犬も、猫も、ハムスターも、インコも駄目だったんです。遠足で牧場に行った時の牛や馬、羊も駄目で。私はただ、モフモフの毛並みを触りたかっただけなのに……」
 そう言って涙ぐみ始めた女性をさすがに気の毒に思った三好が、思わず了承の返事をする。

「はあ、少しでしたら構いませんが……」
 それに郁が慌て、カウンターに僅かに身を乗り出しながら囁く。

「三好さん、良いんですか?」
「いや、久遠様も話を合わせろと言っていましたし」
「そうは言っても! 実際に触れるんですか? 見えるけど、触ってみたことなんかありませんけど?」
(まぁ、仕方があるまい)
 久遠から嘆息するような気配が伝わり、郁と三好は事の成り行きを固唾を飲んで見守った。するとその女性は恐る恐る久遠が座っている椅子に近寄り、慎重に手を伸ばす。

「ここまで近づいても、反応しない。本当に大丈夫かも……」
 怖いくらい真剣な眼差しで近づいた彼女は、前屈みになってゆっくりと右手を伸ばした。そして蹲って座面に座っている久遠の頭から背中にかけてを、ゆっくりと撫で始める。

「やっぱり触っても大丈夫……。本当に信じられない。夢にまで見た、このフワフワもふもふの手触りが最高……」
 そう呟きながら、女性はボロボロと涙を流し始めた。それを見てさすがに心配になった三好は、思わず声をかける。

「あの、大丈夫ですか? どこか具合が悪いわけでは……」
「大丈夫です。感激しているだけですから。だってこの私が、こんなモフモフさんに触って無事だなんて、とても信じられなくて……」
 感激しきっている女性に何も言えず、郁と三好は顔を寄せて囁き合う。

「私から見ると、久遠様の膝辺りをしきりに撫でている構図なんですけど」
「私も同様ですね。少々危ない女性に見えてしまって困るのですが」
 するとその女性が手の動きを止め、顔を上げて三好に尋ねた。


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