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十一月

10.困惑

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 真澄の進退を賭けた勝負に、二課が見事勝利した翌週。美幸は仕事を覚える為、瀬上に連れられて取引先回りをしていた。その最中、何気なく隣を歩く瀬上に、声をかける。

「瀬上さんは営業五課出身ですから、食料品やそれの原材料、農業・加工関係の仕事に詳しいんですよね?」
「ああ。だからこれから行く志野山食工も担当しているんだが。何だ、他の所が良かったか?」
「いえ、父の会社が食品会社で、そこと取引がある事は知ってますから、元々興味はありました」
「課長もそこはご存じだから、まず俺に付かせたんだろうな」
 そう言って笑った瀬上だが、そこで少し真面目な顔付きになった。

「各専門分野を固定している営業部より、企画推進部や海外事業部は仕事の幅が広いからな。例えば衣料品生活関連商品は営業三課出身の課長と係長が、工業用品・技術部品関連は村上さん、林さん、医薬品化学薬品関連は清瀬さん、金融商品やITB技術関連は枝野さん、川北さんが得意にしてるが、皆それだけを仕事にしているわけじゃない。俺も最近はエネルギー関連や工業用品の案件にも、関わってるし」
「そうですね。何人かで組んで進めている物の方が多いですよね」
「つまり、企画推進部で求められるのは《固定化してるスペシャリスト》よりも《自由なオールマイティー》という事だ。これから他の人間にも付く筈だし、まず自分の興味のある事を掘り下げてから、満遍なく仕事の仕方を覚えていけば良いだろう」
「はい、そうします」
 先輩らしく瀬上が説明し、それに美幸が素直に頷いたが、ここで彼が思い出した様に言い出した。

「課長と言えば……。先週の疲れが出たのか、昨日に引き続いて今日も休みだが、清川部長の方は、先週末から行方知れずらしいな」
「みたいですね。食堂で凄い噂になっていました。なんでも昨日部長の奥さんが『柏木課長に暴行を受けた上、脅迫された』と、弁護士同伴で会社に乗り込んで来たそうですね。大丈夫なんでしょうか?」
 美幸は些か心配そうに瀬上を見上げたが、対する瀬上はちょっと驚いた顔をした。

「何だ、知らないのか? 待ち構えていた会社の顧問弁護士に、あっけなく撃退されたそうだぞ?」
「本当ですか?」
「ああ。顧問弁護士は『偶々、柏木課長と清川部長が廊下で衝突して転倒した際、咄嗟に伸ばした手が部長の髪を掴んでしまい、その弾みで何本か抜けただけの不幸な事故だ』と主張したそうだ」
「……あれが『偶々』で、『何本か』ですか?」
 当事者の一人である美幸は物凄く疑わしげに問いかけたが、そんな美幸に同情する視線を向けながら、瀬上が説明を加えた。

「課長は包丁やナイフ、ハサミやカッターの類を部長に向けたわけじゃ無いから、傷害罪は問えないらしいな。加えて毛をむしり取られたと言っても、あの後びしょ濡れになった廊下をすぐに清掃して、毛髪なんか一本も残っていないから、当然証拠も無い」
「……好き好んで、取っておく人なんていませんしね」
「大量に抜かれたと言っても、各人の感覚の違いと言えばそれまでだし、肝心の被害者の部長が行方をくらましてるんじゃ、それ以前と比較もできない。その上『職場放棄して無断欠勤した場合の、職場に与える迷惑と損害について考えて、是非とも奥様に考えて頂きたいものですな』と顧問弁護士に凄まれて、奥さんが真っ青になって帰って行ったそうだ。勿論、課長達が部長を脅迫したなんて事を、立証出来なかっただろうし」
 そこまで聞いた美幸は、深々と溜め息を吐いた。 

「清川部長、喧嘩を売った相手が悪かったですね」
「同感だ。俺は、課長を含めたあの三人組を、今後絶対に本気で怒らせないと心に決めたぞ」
「社内で同じ事を考えた人が沢山いそうですね」
 そんな事を話しているうちにいつの間にか二人は訪問先のビル内に入っていたが、広々とした一階のエントランスを歩いていると戸惑い気味の声が伝わってきた。

「……美幸ちゃん?」
「え?」
 反射的に声のした方を振り返ると、美幸を認めた三十手前に見える優男が嬉しそうに声をかけながら、歩み寄って来る。

「やっぱり美幸ちゃんだ。奇遇だね~、こんな所で会えるなんて!」
「知り合いか?」
「去年までの義兄です」
「ああ、あの……」
 小声で瀬上が尋ねると、美幸は不愉快そうな表情で囁き返した。それで以前話に聞いた、浮気した末に美幸の姉と離婚した男である事が分かり、瀬上は無意識に顔を顰める。しかし二人ともすぐに表面上は通常の顔を取り繕い、対応する事にした。

「ここで会えたのも何かの縁。是非美幸ちゃんに、お願いしたい事があるんだ!」
 しかし挨拶もそこそこに嬉々として腕を掴んできた元義兄に、流石に美幸の顔が強張る。

「あの……、今、仕事中なんですが……」
「ああ、俺もここには商談で来ててね。明後日まで東京に居るんだよ。だから時間を取ってくれないか?」
「どうして私が」
 流石に憤然として文句を言いかけた美幸だったが、ここでいきなり相手が、美幸の足元で土下座した。

「頼む! あれは本当に誤解なんだ! ちゃんと話を聞いて貰えれば、美野やお義姉さん達も納得して貰える話だから!」
「ちょっと! こんな所で何をするんですか? 人目を考えて下さい!」
「何を考えているんですか」
 それなりに人の行き来する場所であり、何事かと周囲から視線を集めてしまった美幸達は腹を立てたが、相手は更に美幸の足首を掴んで懇願してくる。

「頼むよ。美野もお義父さんやお義兄さん達も耳を貸してくれなくて。電話も取り次いで貰えないし」
「おい、藤宮と以前姻戚関係だったかもしれんが、これ以上ふざけた真似をすると容赦しないぞ?」
「分かりました。分かりましたから、取り敢えず離して下さい!」
「本当かい、美幸ちゃん!?」
 瀬上が僅かに顔色を変えて屈み込み、美幸の足から男の手を引き剥がすのとほぼ同時に美幸が了承の返事をした為、相手が嬉しそうに立ち上がった。それに渋面になりながら、瀬上が美幸に囁く。

「おい、藤宮」
「商談先で変な騒ぎを起こすわけにいきませんよ」
「それはそうだが……」
 尚も不満そうに瀬上が警戒する視線を向けると、相手は悪びれずに名刺の裏にサラサラと携番らしき物を書いてから美幸に差し出した。

「ああ、仕事中だよね。悪いね邪魔をしちゃって。じゃあ後から都合の良い日時を教えて貰えるかな? 明後日の夜までは、東京に居るから」
「……分かりました。それでは失礼します」
「ああ、またね」
 嫌そうに名刺を受取った美幸に愛想を振りまきつつ男がビルを出て行くと、瀬上が困惑顔で美幸に確認を入れた。

「良かったのか? そんなのを受け取って。別れたお姉さんに未練があって間に立って欲しいって感じだが、お前、そんな事に首を突っ込みたく無いだろう?」
「当然ですよ。それなら最初から浮気なんかしなきゃ良いのに、何を考えているんだか。第一、別れた後実家がある大阪に戻って、一年以上経っているんですよ? 本気でよりを戻す気なら、今まで何をしてたんだか」
 そう憎々しげに吐き捨てた美幸に同意を示すように、瀬上が半ば呆れ気味に感想を漏らす。

「しかし商談先でいきなり土下座とは……。確かに見た目は良いが、何となく軽そうで、プライドも無さそうな男だな」
「姉との結婚が決まった時に、私も全く同じ事を思いました。あんなのにあっさり誑し込まれるなんて、本当に馬鹿なんだから……」
 そのまま言葉を濁した美幸だったが、すぐに気を取り直した様に瀬上を見上げた。

「取り敢えず話とやらを聞いてみて、よりを戻すのを助けろ云々の話なら、きっぱり断ってやります。今後、職場に乗り込まれたりしたら厄介ですし」
「それもそうだな。じゃあ行くぞ」
「はい、申し訳ありません。お騒がせしました」
 そうして美幸が頭を下げたのに頷いて歩き出した瀬上だったが、何となく先程の男の嫌なイメージと不吉な予感が、頭の中を離れなかった。

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