#帰れない人たち ~ 6人のメモリー

ぶるうす恩田

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第三幕

【3-F'】リサ・グリーン(外国人観光客)編 第三幕

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その夜、避難所となった体育館には、靴と布団の匂いが入り混じっていた。 
湿った毛布のにおい、消毒液のかすかなツンとした刺激、外から運び込まれた土埃。
照明は半分が落ち、残った蛍光灯がジジジ……と低く唸り続けていた。
床に横たわる人々の寝息と、遠くから響く子どもの泣き声。
リサは硬い床に腰を下ろし、膝を抱えながら、震える肩を自分で包んでいた。

――帰りたい
けれど、空港へ向かう手段はなく、街は暗闇に沈んだままだった。
彼女のスマホは沈黙し、地図アプリも翻訳アプリも、何ひとつ役に立たない。

その時だった。
「お水……だれか……」
かすれた声が耳に届いた。

振り向くと、痩せた老人が布団の上で喉を押さえていた。
隣にいた孫らしい少女は、泣きながら水を探している。
リサは思わず立ち上がった。

バッグを探ると、出てきたのは自分が持っていたペットボトルの残り。
躊躇した。
――これを渡したら、自分が明日飲む水はなくなる。
乾いた喉がゴクリと音を立てた。

でも、少女の顔を見た瞬間、迷いは消えた。
「Here…… please……どうぞ」
片言の日本語に、拙い英語を混ぜながら差し出すと、少女の瞳がぱっと輝いた。
老人は震える手でボトルを受け取り、一口飲んで「ありがとう」と声を絞り出した。

その言葉は、リサにとって救いのように響いた。
胸の奥がじんわりと熱くなり、涙がこみ上げた。

翌日。
体育館の入口で、リサは炊き出しの列に並んでいた。
湯気を立てる鍋から、味噌汁の匂いが広がっていく。
大きなお玉がチャプンとすくい上げる音。
どんぶりに注がれた汁の香りは、海のように深く、温かかった。

「Eat…… okay?」
ボランティアの女性が笑顔で差し出した。
リサは受け取りながら、必死に言葉を探した。
「おいしい… …smell…… very good…… thank you…」

伝わったのかどうかは分からない。
でも女性は「どういたしまして」と微笑み、リサの背中を軽く叩いてくれた。
その瞬間、言葉の壁がほんの少し崩れた気がした。

夜、掲示板に人々がメモを書き始めた。
「母を探しています」
「無事です」
「ここにいます」
震える手で鉛筆を走らせる音が「カリカリ」と響く。

リサも一枚の紙を受け取り、ためらいながら書いた。
――“I am Lisa. I want to help. Thank you.”

貼り付けた紙を見つめながら、胸が高鳴った。
自分の名前が、この見知らぬ土地に残ったのだ。
たとえ電波がなくても、ここにいる人には届く。

翌朝、掲示板を見上げてリサは息をのんだ。
自分の書いた紙の下に、小さな文字でこう記されていた。

「Lisa, Thank you」

その瞬間、胸が熱くなり、視界がにじんだ。
昨夜、老人に差し出した水。少女の安堵の涙。
その小さな行動が、確かに誰かに残ったのだ。

「……I’m not alone」
口の中でつぶやく声が、震えていた。

外に出ると、冬の空気が肌を刺した。
焼けた木材の匂い、崩れた家屋から舞い上がる粉塵。
空をカラスがカァ、カァと飛び交い、沈んだ街に声を響かせる。

けれどリサの胸の奥には、温かいものが宿っていた。
言葉は通じなくても、声をかけ合った夜は確かにここにある。
その記憶は、消えない。

リサはスマホを再び手に取った。
画面にはまだ≪No Service≫の表示。
けれど彼女は、そっと微笑んだ。

――記録は残らなくても、心に刻まれるものがある
――声は、確かに届いている

彼女の目に映る世界は、瓦礫に覆われていても、どこか光を宿していた。



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