境界の音

迷い人

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1章 潮

02.待遇改善

 いつの間にか「アレ」「それ」「いつもの」そんな曖昧な言葉で要求が理解できるようになった。頼まれる前に飲み物の準備が出来るようになっていた。部内全体を見回せる位置に、私のテーブルとイスが置かれた。

 通りすがりにかけられる声が優しくなっていた。

「よく、そんな仕事しているね。可哀そうに。折角ならもっと面白い仕事したくない?」

 そう言いながら、柑橘系の香りで胃に優しく温まる飲み物と曖昧な注文。

「ごめんね~。人の好みまで逐一覚えていられない。なんて言ったらさぁ~。退屈でしょ?」

 エスプレッソを使ったカフェラテ。

 カフェでのバイトで、お代わりを聞いて回っている状態と大きく違わないから気にならない――そう、気にしない。菓子は元のバイト先で、店長に注文をお願いしてきた。パティシエとして修業し今も店の菓子は店長が作っている。

 大学の授業で数日顔を出さずにいれば、ヒソヒソと非難めいた声が聞こえだす。

「あまり張り切られても困るんだけど。今日はジャスミン茶の気分なんだけど……その、大丈夫かな?」

 嫌味から始まった言葉は微笑みで終わった。
 そして、その日は外部の人の対応も任された。

「お客さんにお茶お願いできる?」

「どんな方ですか?」

「コーヒーの香りがしたから、コーヒー以外が良いと思うわ」

 そして私は、羊羹を切り、香ばしい香りのほうじ茶を入れた。

 その日の帰り際、折に触れて声をかけていた高木が、偶然とは思えない待ち構えた様子で改めて声をかけてきた。

「君のお陰で、契約が決まったよ」

 声が柔らかい。
 瞳が柔らかに笑みを作っている。

「お茶しか出していませんよ」

「あともう一押しに良いアシストだった……と言うことです。助かったよ。今度、お礼をしないとね。じゃぁ、また」

 単調な声なのに、口元だけで高木は笑みを浮かべ、通りすがりに肩をトンッと軽く、私達は背中合わせに歩き出す。

 秋風が波の音のような日だった。



 講義と講義の間、私は図書館に来ていた。
 快適に仕事を行うためのサポートを役割としているが、気遣いは必要だけれど、社員の人の好みを覚えるとともに自由な時間を作る事ができるようになっていたから。

「榊君」

 背後から低く落ち着いた、穏やかで柔らかい男性の声がかけられる。
 気が弱そうに見える愛想笑いを浮かべる男性は、私にインターン先を紹介した臨床心理学科教授 吉野 祥(よしの しょう)

「それで、インターン先はどうですか?」

「どう……とは?」

 私は戸惑い混じりで首をかしげてしまうから、吉野先生はあぁと呻くように言いながら、苦笑いを浮かべ溜息へと繋がる。

「やはり――難しいようですね。以前も何人かをインターンとして送り出したのですが、上手く折り合いがつかなかったんですよ」

「バイト経験が役立っています。ただ……」

 大学2年、インターンには早く、それがバイトとは違って経験を積むものだという印象しかもっておらず、自分の置かれた状況が理解できなかった。

 だから、インターンでの状況を説明した。

「それは面白くありませんね。その経験が貴方の役に立たなければインターンの意味がありません。お断りしますか?まだ2年生なのですから無理をする必要はありません。あなたが望む進路でもないでしょうし」

「そうですね」

「それは当然のことです。先方に連絡しておきます。何かあればすぐに連絡をしてください」

「ありがとうございます」

 しばらくあとにメッセージが来た。

 “バイト代を出して、仕事内容も見直してくれるそうです。今日は今までのまま向かって下さい。都合が悪いようなら、また私が話をしましょう”

 そう返してくれるが、何となく居心地悪さが残った。





 授業を終えてアルフライラに向かえば、高木さんが私を出迎えた。

「悪かったね」

「いえ」

「それで、こっちの部屋に来てくれるかな? 真樹さんの姿が見えては、お茶を催促してしまうだろうからね」

 また――シンジュって呼んだ……。

 相変わらず距離が近い。
 半歩大きく歩くが、気づけば背に手が添えられていた。

 連れていかれた部屋――。

「元倉庫で、部署の会議室として使う予定ではあるんだけれど」

 静かに響く空調の音。
 分厚い遮光カーテンは空調に微かに揺れ、光が漏れ入る。
 光は、水面のように天井にうつり揺れている。

 高木の長い手は器用だけど力強く動き、8人用のテーブルの上に重ねられていた荷物を避けて1人分の席が開けられ、高木は真新しいノートパソコンを置きセッティングをする。

 業務用として使うには、様々な作業がいるだろう事は大学で経験済だ。

「お茶の準備でもしましょうか?」

「大丈夫ですよ」

 物凄い速さのタイピングは、まるで爪で触れ叩くような硬質の音と共に作業が進む。リズムの狂った音楽を聴いたような違和感が不安を煽る。
 高木の黒目の多い瞳は一切動かず、ただ手だけが物凄い速さでキーを打っていた。

「準備は出来ましたよ真樹さんには今回映像のアーカイブ・キャプションの作成をしてもらいたいんだ」

「アーカイブ・キャプションですか?」

 初心者の私に懇切丁寧に説明がされた。悩む私に高木さんは言う。

「分からないことは遠慮なく聞いて下さい。とはいっても……あちらの部屋に顔を出せば、給仕役を自然と求められてしまいますから。私にこっそりと連絡してきてください。Lineやってますよね?」

「いえ、やっていません」

「そうですか。私が初めてのお相手ですね」

 言い方が強引すぎる――だけど、嫌な気分になりきることもできなかった。

「他の人に聞かれたら大変な奴ですね」

「えぇ、だから内緒にしておいてください」

 気づけば私のスマホは高木さんの手の中にあり、LINEのインストールが行われていた。 キーボードだけでなく、スマホの操作も一瞬だった。

「物凄く器用ですね。実は手が4本あるんじゃありませんか?」

 私が笑って言えば、高木さんは瞳を動かさず口元だけで笑っていた。

「手が4本もあったら打ち込みに邪魔になりますよ。2本が丁度いいです」

 私はまた笑った。

「面白い人ですね」

「リラックスしてもらえたなら、冗談を言った甲斐があります。何か気になることはありませんか?」

「仕事の方の説明を、もう少しゆっくりとしたペースでおねがいできますか? あとーー私の名前はマキで、シンジュではないですよ」

「そう」

 返されるスマホ。
 触れる指先と指先。

 やけに冷たい指先で、驚いて顔を見ると私の驚きに気付いていないように表情を変えずに笑っていた。

「他の人と同じように榊と呼んでください」

「しんじゅ……真珠。綺麗だけれど主張は激しくない。いいですよね。あなたに似合ってます。私だけの呼び方、ダメですか?」

「他の人が……」

 遠回しな拒絶のつもりだった。

 ノートパソコンの前に座る高木さんは私を見ていた。

 じっと……

 なぜか、拒絶できない気持ちになっていた。

「二人だけの時なら」

「ありがとうございます。さぁ、仕事の説明をしますよ。もっと画面が見える場所に近寄ってください」

 キーボードの音。
 そして、海の音――

 私はノートパソコンの画面へと視線を向けた。
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