2 / 16
1章 潮
02.待遇改善
しおりを挟む
いつの間にか「アレ」「それ」「いつもの」そんな曖昧な言葉で要求が理解できるようになった。頼まれる前に飲み物の準備が出来るようになっていた。部内全体を見回せる位置に、私のテーブルとイスが置かれた。
通りすがりにかけられる声が優しくなっていた。
「よく、そんな仕事しているね。可哀そうに。折角ならもっと面白い仕事したくない?」
そう言いながら、柑橘系の香りで胃に優しく温まる飲み物と曖昧な注文。
「ごめんね~。人の好みまで逐一覚えていられない。なんて言ったらさぁ~。退屈でしょ?」
エスプレッソを使ったカフェラテ。
カフェでのバイトで、お代わりを聞いて回っている状態と大きく違わないから気にならない――そう、気にしない。菓子は元のバイト先で、店長に注文をお願いしてきた。パティシエとして修業し今も店の菓子は店長が作っている。
大学の授業で数日顔を出さずにいれば、ヒソヒソと非難めいた声が聞こえだす。
「あまり張り切られても困るんだけど。今日はジャスミン茶の気分なんだけど……その、大丈夫かな?」
嫌味から始まった言葉は微笑みで終わった。
そして、その日は外部の人の対応も任された。
「お客さんにお茶お願いできる?」
「どんな方ですか?」
「コーヒーの香りがしたから、コーヒー以外が良いと思うわ」
そして私は、羊羹を切り、香ばしい香りのほうじ茶を入れた。
その日の帰り際、折に触れて声をかけていた高木が、偶然とは思えない待ち構えた様子で改めて声をかけてきた。
「君のお陰で、契約が決まったよ」
声が柔らかい。
瞳が柔らかに笑みを作っている。
「お茶しか出していませんよ」
「あともう一押しに良いアシストだった……と言うことです。助かったよ。今度、お礼をしないとね。じゃぁ、また」
単調な声なのに、口元だけで高木は笑みを浮かべ、通りすがりに肩をトンッと軽く、私達は背中合わせに歩き出す。
秋風が波の音のような日だった。
講義と講義の間、私は図書館に来ていた。
快適に仕事を行うためのサポートを役割としているが、気遣いは必要だけれど、社員の人の好みを覚えるとともに自由な時間を作る事ができるようになっていたから。
「榊君」
背後から低く落ち着いた、穏やかで柔らかい男性の声がかけられる。
気が弱そうに見える愛想笑いを浮かべる男性は、私にインターン先を紹介した臨床心理学科教授 吉野 祥(よしの しょう)
「それで、インターン先はどうですか?」
「どう……とは?」
私は戸惑い混じりで首をかしげてしまうから、吉野先生はあぁと呻くように言いながら、苦笑いを浮かべ溜息へと繋がる。
「やはり――難しいようですね。以前も何人かをインターンとして送り出したのですが、上手く折り合いがつかなかったんですよ」
「バイト経験が役立っています。ただ……」
大学2年、インターンには早く、それがバイトとは違って経験を積むものだという印象しかもっておらず、自分の置かれた状況が理解できなかった。
だから、インターンでの状況を説明した。
「それは面白くありませんね。その経験が貴方の役に立たなければインターンの意味がありません。お断りしますか?まだ2年生なのですから無理をする必要はありません。あなたが望む進路でもないでしょうし」
「そうですね」
「それは当然のことです。先方に連絡しておきます。何かあればすぐに連絡をしてください」
「ありがとうございます」
しばらくあとにメッセージが来た。
“バイト代を出して、仕事内容も見直してくれるそうです。今日は今までのまま向かって下さい。都合が悪いようなら、また私が話をしましょう”
そう返してくれるが、何となく居心地悪さが残った。
授業を終えてアルフライラに向かえば、高木さんが私を出迎えた。
「悪かったね」
「いえ」
「それで、こっちの部屋に来てくれるかな? 真樹さんの姿が見えては、お茶を催促してしまうだろうからね」
また――シンジュって呼んだ……。
相変わらず距離が近い。
半歩大きく歩くが、気づけば背に手が添えられていた。
連れていかれた部屋――。
「元倉庫で、部署の会議室として使う予定ではあるんだけれど」
静かに響く空調の音。
分厚い遮光カーテンは空調に微かに揺れ、光が漏れ入る。
光は、水面のように天井にうつり揺れている。
高木の長い手は器用だけど力強く動き、8人用のテーブルの上に重ねられていた荷物を避けて1人分の席が開けられ、高木は真新しいノートパソコンを置きセッティングをする。
業務用として使うには、様々な作業がいるだろう事は大学で経験済だ。
「お茶の準備でもしましょうか?」
「大丈夫ですよ」
物凄い速さのタイピングは、まるで爪で触れ叩くような硬質の音と共に作業が進む。リズムの狂った音楽を聴いたような違和感が不安を煽る。
高木の黒目の多い瞳は一切動かず、ただ手だけが物凄い速さでキーを打っていた。
「準備は出来ましたよ真樹さんには今回映像のアーカイブ・キャプションの作成をしてもらいたいんだ」
「アーカイブ・キャプションですか?」
初心者の私に懇切丁寧に説明がされた。悩む私に高木さんは言う。
「分からないことは遠慮なく聞いて下さい。とはいっても……あちらの部屋に顔を出せば、給仕役を自然と求められてしまいますから。私にこっそりと連絡してきてください。Lineやってますよね?」
「いえ、やっていません」
「そうですか。私が初めてのお相手ですね」
言い方が強引すぎる――だけど、嫌な気分になりきることもできなかった。
「他の人に聞かれたら大変な奴ですね」
「えぇ、だから内緒にしておいてください」
気づけば私のスマホは高木さんの手の中にあり、LINEのインストールが行われていた。 キーボードだけでなく、スマホの操作も一瞬だった。
「物凄く器用ですね。実は手が4本あるんじゃありませんか?」
私が笑って言えば、高木さんは瞳を動かさず口元だけで笑っていた。
「手が4本もあったら打ち込みに邪魔になりますよ。2本が丁度いいです」
私はまた笑った。
「面白い人ですね」
「リラックスしてもらえたなら、冗談を言った甲斐があります。何か気になることはありませんか?」
「仕事の方の説明を、もう少しゆっくりとしたペースでおねがいできますか? あとーー私の名前はマキで、シンジュではないですよ」
「そう」
返されるスマホ。
触れる指先と指先。
やけに冷たい指先で、驚いて顔を見ると私の驚きに気付いていないように表情を変えずに笑っていた。
「他の人と同じように榊と呼んでください」
「しんじゅ……真珠。綺麗だけれど主張は激しくない。いいですよね。あなたに似合ってます。私だけの呼び方、ダメですか?」
「他の人が……」
遠回しな拒絶のつもりだった。
ノートパソコンの前に座る高木さんは私を見ていた。
じっと……
なぜか、拒絶できない気持ちになっていた。
「二人だけの時なら」
「ありがとうございます。さぁ、仕事の説明をしますよ。もっと画面が見える場所に近寄ってください」
キーボードの音。
そして、海の音――
私はノートパソコンの画面を見た。
通りすがりにかけられる声が優しくなっていた。
「よく、そんな仕事しているね。可哀そうに。折角ならもっと面白い仕事したくない?」
そう言いながら、柑橘系の香りで胃に優しく温まる飲み物と曖昧な注文。
「ごめんね~。人の好みまで逐一覚えていられない。なんて言ったらさぁ~。退屈でしょ?」
エスプレッソを使ったカフェラテ。
カフェでのバイトで、お代わりを聞いて回っている状態と大きく違わないから気にならない――そう、気にしない。菓子は元のバイト先で、店長に注文をお願いしてきた。パティシエとして修業し今も店の菓子は店長が作っている。
大学の授業で数日顔を出さずにいれば、ヒソヒソと非難めいた声が聞こえだす。
「あまり張り切られても困るんだけど。今日はジャスミン茶の気分なんだけど……その、大丈夫かな?」
嫌味から始まった言葉は微笑みで終わった。
そして、その日は外部の人の対応も任された。
「お客さんにお茶お願いできる?」
「どんな方ですか?」
「コーヒーの香りがしたから、コーヒー以外が良いと思うわ」
そして私は、羊羹を切り、香ばしい香りのほうじ茶を入れた。
その日の帰り際、折に触れて声をかけていた高木が、偶然とは思えない待ち構えた様子で改めて声をかけてきた。
「君のお陰で、契約が決まったよ」
声が柔らかい。
瞳が柔らかに笑みを作っている。
「お茶しか出していませんよ」
「あともう一押しに良いアシストだった……と言うことです。助かったよ。今度、お礼をしないとね。じゃぁ、また」
単調な声なのに、口元だけで高木は笑みを浮かべ、通りすがりに肩をトンッと軽く、私達は背中合わせに歩き出す。
秋風が波の音のような日だった。
講義と講義の間、私は図書館に来ていた。
快適に仕事を行うためのサポートを役割としているが、気遣いは必要だけれど、社員の人の好みを覚えるとともに自由な時間を作る事ができるようになっていたから。
「榊君」
背後から低く落ち着いた、穏やかで柔らかい男性の声がかけられる。
気が弱そうに見える愛想笑いを浮かべる男性は、私にインターン先を紹介した臨床心理学科教授 吉野 祥(よしの しょう)
「それで、インターン先はどうですか?」
「どう……とは?」
私は戸惑い混じりで首をかしげてしまうから、吉野先生はあぁと呻くように言いながら、苦笑いを浮かべ溜息へと繋がる。
「やはり――難しいようですね。以前も何人かをインターンとして送り出したのですが、上手く折り合いがつかなかったんですよ」
「バイト経験が役立っています。ただ……」
大学2年、インターンには早く、それがバイトとは違って経験を積むものだという印象しかもっておらず、自分の置かれた状況が理解できなかった。
だから、インターンでの状況を説明した。
「それは面白くありませんね。その経験が貴方の役に立たなければインターンの意味がありません。お断りしますか?まだ2年生なのですから無理をする必要はありません。あなたが望む進路でもないでしょうし」
「そうですね」
「それは当然のことです。先方に連絡しておきます。何かあればすぐに連絡をしてください」
「ありがとうございます」
しばらくあとにメッセージが来た。
“バイト代を出して、仕事内容も見直してくれるそうです。今日は今までのまま向かって下さい。都合が悪いようなら、また私が話をしましょう”
そう返してくれるが、何となく居心地悪さが残った。
授業を終えてアルフライラに向かえば、高木さんが私を出迎えた。
「悪かったね」
「いえ」
「それで、こっちの部屋に来てくれるかな? 真樹さんの姿が見えては、お茶を催促してしまうだろうからね」
また――シンジュって呼んだ……。
相変わらず距離が近い。
半歩大きく歩くが、気づけば背に手が添えられていた。
連れていかれた部屋――。
「元倉庫で、部署の会議室として使う予定ではあるんだけれど」
静かに響く空調の音。
分厚い遮光カーテンは空調に微かに揺れ、光が漏れ入る。
光は、水面のように天井にうつり揺れている。
高木の長い手は器用だけど力強く動き、8人用のテーブルの上に重ねられていた荷物を避けて1人分の席が開けられ、高木は真新しいノートパソコンを置きセッティングをする。
業務用として使うには、様々な作業がいるだろう事は大学で経験済だ。
「お茶の準備でもしましょうか?」
「大丈夫ですよ」
物凄い速さのタイピングは、まるで爪で触れ叩くような硬質の音と共に作業が進む。リズムの狂った音楽を聴いたような違和感が不安を煽る。
高木の黒目の多い瞳は一切動かず、ただ手だけが物凄い速さでキーを打っていた。
「準備は出来ましたよ真樹さんには今回映像のアーカイブ・キャプションの作成をしてもらいたいんだ」
「アーカイブ・キャプションですか?」
初心者の私に懇切丁寧に説明がされた。悩む私に高木さんは言う。
「分からないことは遠慮なく聞いて下さい。とはいっても……あちらの部屋に顔を出せば、給仕役を自然と求められてしまいますから。私にこっそりと連絡してきてください。Lineやってますよね?」
「いえ、やっていません」
「そうですか。私が初めてのお相手ですね」
言い方が強引すぎる――だけど、嫌な気分になりきることもできなかった。
「他の人に聞かれたら大変な奴ですね」
「えぇ、だから内緒にしておいてください」
気づけば私のスマホは高木さんの手の中にあり、LINEのインストールが行われていた。 キーボードだけでなく、スマホの操作も一瞬だった。
「物凄く器用ですね。実は手が4本あるんじゃありませんか?」
私が笑って言えば、高木さんは瞳を動かさず口元だけで笑っていた。
「手が4本もあったら打ち込みに邪魔になりますよ。2本が丁度いいです」
私はまた笑った。
「面白い人ですね」
「リラックスしてもらえたなら、冗談を言った甲斐があります。何か気になることはありませんか?」
「仕事の方の説明を、もう少しゆっくりとしたペースでおねがいできますか? あとーー私の名前はマキで、シンジュではないですよ」
「そう」
返されるスマホ。
触れる指先と指先。
やけに冷たい指先で、驚いて顔を見ると私の驚きに気付いていないように表情を変えずに笑っていた。
「他の人と同じように榊と呼んでください」
「しんじゅ……真珠。綺麗だけれど主張は激しくない。いいですよね。あなたに似合ってます。私だけの呼び方、ダメですか?」
「他の人が……」
遠回しな拒絶のつもりだった。
ノートパソコンの前に座る高木さんは私を見ていた。
じっと……
なぜか、拒絶できない気持ちになっていた。
「二人だけの時なら」
「ありがとうございます。さぁ、仕事の説明をしますよ。もっと画面が見える場所に近寄ってください」
キーボードの音。
そして、海の音――
私はノートパソコンの画面を見た。
0
あなたにおすすめの小説
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。
石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。
自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。
そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。
好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。
この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
【3月中ーー完結!!】
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。
二十年の裏切りの果て、その事実だけを抱え、離縁状を置いて家を出た。
そこで待っていたのは、凍てつく絶望――。
けれど同時に、それは残酷な運命の扉がひらく瞬間でもあった。
夫は愛人と共に好きに生きればいい。
今さら「本当に愛していたのは君だ」と縋られても、
死の淵を彷徨った私には、裏切ったあなたを許す力など残っていない。
「でも、子供たちの心だけは、
必ず取り戻す」
妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。
過去を悔い、歪な愛でもいいと手を伸ばした彼女が辿り着いた先。
それは、「歪で、完全な幸福」か、それとも――。
これは、"石"に翻弄された者たちの、狂おしい物語。
【完結】ある二人の皇女
つくも茄子
ファンタジー
美しき姉妹の皇女がいた。
姉は物静か淑やかな美女、妹は勝気で闊達な美女。
成長した二人は同じ夫・皇太子に嫁ぐ。
最初に嫁いだ姉であったが、皇后になったのは妹。
何故か?
それは夫が皇帝に即位する前に姉が亡くなったからである。
皇后には息子が一人いた。
ライバルは亡き姉の忘れ形見の皇子。
不穏な空気が漂う中で謀反が起こる。
我が子に隠された秘密を皇后が知るのは全てが終わった時であった。
他のサイトにも公開中。
【完結】離縁されたので実家には戻らずに自由にさせて貰います!
山葵
恋愛
「キリア、俺と離縁してくれ。ライラの御腹には俺の子が居る。産まれてくる子を庶子としたくない。お前に子供が授からなかったのも悪いのだ。慰謝料は払うから、離婚届にサインをして出て行ってくれ!」
夫のカイロは、自分の横にライラさんを座らせ、向かいに座る私に離婚届を差し出した。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる