境界の音

迷い人

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1章 潮

03.食事

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 一人作業をする会議室に戻って来た。
 アーカイブ化という仕事をしながら、お茶くみも継続するようになった。一度上がった作業効率を下げるのはキツイらしく、折衷案として時間になったらお茶を入れることになったのだけど、皆が保温タンブラーを持ってくるようになってきていた。

 会議室の扉を閉めようとしたけれど、閉めきれずに振り返れば高木さんが扉を支えていた。

「今日は、定時に終われそうだから、食事に行こう」

「いえ……バイト料も出してもらえるようになりましたし」

 教授が話をつけてくれた。

「約束したよね? 待っていて迎えに来るから」

 反論は遮られ、高木さんは背を向け、長い脚で足音なく去っていく。



 銀座の路地奥。
「汐凪」の暖簾は湿った空気に重く垂れ下がる。

 店内は照明が極端に落とされ、卓上の小さな行灯だけが、造りの魚を青白く照らしていた。
 まるで海底の光のように。高木は慣れた手つきで箸を動かしアジの刺身をつまんだ。
 真樹は緊張で箸を持つ手が固く、ただ彼の動作を追うしかなかった。

「魚、好きなんだ。特に瀬戸内の……君も、好きだよね」

「そうですね」

 美味しい魚だった。

「君も魚が美味しい所の生まれだったよね」

 そう言いながら高木はブリの刺身を口に運ぶ。

 新しい料理を持って仲居がやってきた。

 コトッ

 静かに小鉢が置かれ、反射的に高木が仲居へと視線を向け――驚いたが、高木自身も驚いているかのように見える。

「あの、何か?」

 仲居が狼狽えていた。

「いえ、少し……驚いてしまいました」

 そう言いながら、カニの酢の物が入った小鉢がすっとテーブルの端へとよせられる。その瞬間、殻の表面に、まるで海水の雫のようなものが一瞬光った気がした。

「……カニ、苦手なんですか?」

「どうかな」

 高木の声は穏やかだが、どこか潮の匂いが混じっているようだった。

「俺の生まれは琴平。金刀比羅さんって、知ってる?」

 真樹の目がわずかに輝き、高木へと視線を向けた。
 民俗学に興味を持つ真樹にとって、それは心惹かれる単語。

「……金毘羅さんですか」

 言葉を口にしながら、わずかな高揚を覚えた。知識を口にしたいと、物語への郷愁を口にしたいと資料の片隅の挿絵が印象的だったと。

 民俗学への羨望。
 思いを口にした瞬間の友達の表情が――
 真樹は逃げるように小鉢に箸を伸ばした。

 高木の視線は柔らかく艶のある真樹の唇を追っていた。

 高木が息を飲む。

 わずかな間をおいて、小さく頷き、目を細める。

「そう。頂上で見た瀬戸内海は、青すぎて息が詰まるくらい綺麗だった。でも、昔の船乗りたちは、あの海を『祈りの海』って呼んでたんだよ。あれは生きて戻るための祈り」

 高木の視線が、真樹を見つめた。

「って言っても……興味はないかな?崇徳上皇ならどうかな?讃岐に流されて、夜な夜な海を越えて祈りを送っていたって……。今でも、その祈りが聞こえる……とかね」

 からかうような高木の言葉。
 真樹はその表情だけを見つめて言葉を挟まなかった。

 民俗学のゼミで、信仰と海の境界性がテーマになったとき、資料を読み漁った。

「……祈りが、海を媒介にして届くっていう話ですよね。瀬戸内って、そういう『境界の海』なんだよ。生と死、こちらとあちらが混じりやすい……懐かしいね」

 高木は静かに微笑み、その瞳の奥に、瀬戸内の深い青が揺れている気がした。

 視線が合う。
 私は視線を逸らす。

「興味があるようだね。じゃあ……」

 何かを待つような高木の間に視線を戻せば、高木は微かに笑って見せた。

「金刀比羅の石段を登って、海を見ながら、そんな話をしようか?」

 真樹はぎこちなく頷き、料理に箸を伸ばした。

 生まれる――間(ま)。

 民俗学に興味を持ち大学を選んだ真樹にとっては、魅力的な会話なのは事実。

 真樹の喉元が動く。

「何か不思議な体験でもしたんですか?そういう風に聞こえるんですけど?」

「どうだろうね。海と風、木々と砂、朝日と夕日……それを眺めるだけで、不思議な世界に自分はいるんじゃないかって思わせてくれるもんだよ。映像の仕事をしていて、そういう瞬間は?」

「綺麗だとは思うけど、そういう神秘的な気分にはなりませんね」

「そう、そうか、なら、見せてあげたいな。 シンジュちゃんに故郷の景色を」

 柔らかな語りは波の音のようにゆるやかに耳をくすぐり、瞼を閉ざす。

 ぇっ?

 テーブルの端のカニの小鉢は、誰も触れていないのに、殻が微かに、微かに震えているかのようにカタカタと音を立て、私は視線を向けた。

「シンジュちゃん?」

 呼ばれると同時に、空調の音が妙に大きく聞こえ、そして、あわただしく階段を降りて来る足音がする。



 そして、美味しい料理と、興味をそそられる会話は続いた。

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