境界の音

迷い人

文字の大きさ
3 / 67
1章 潮

03.食事

 一人作業をする会議室に戻って来た。
 アーカイブ化という仕事をしながら、お茶くみも継続するようになった。一度上がった作業効率を下げるのはキツイらしく、折衷案として時間になったらお茶を入れることになったのだけど、皆が保温タンブラーを持ってくるようになってきていた。

 会議室の扉を閉めようとしたけれど、閉めきれずに振り返れば高木さんが扉を支えていた。

「今日は、定時に終われそうだから、食事に行こう」

「いえ……バイト料も出してもらえるようになりましたし」

 教授が話をつけてくれた。

「約束したよね? 待っていて迎えに来るから」

 反論は遮られ、高木さんは背を向け、長い脚で足音なく去っていく。



 銀座の路地奥。
「汐凪」の暖簾は湿った空気に重く垂れ下がる。

 店内は照明が極端に落とされ、卓上の小さな行灯だけが、造りの魚を青白く照らしていた。
 まるで海底の光のように。高木は慣れた手つきで箸を動かしアジの刺身をつまんだ。
 真樹は緊張で箸を持つ手が固く、ただ彼の動作を追うしかなかった。

「魚、好きなんだ。特に瀬戸内の……君も、好きだよね」

「そうですね」

 美味しい魚だった。

「君も魚が美味しい所の生まれだったよね」

 そう言いながら高木はブリの刺身を口に運ぶ。

 新しい料理を持って仲居がやってきた。

 コトッ

 静かに小鉢が置かれ、反射的に高木が仲居へと視線を向け――驚いたが、高木自身も驚いているかのように見える。

「あの、何か?」

 仲居が狼狽えていた。

「いえ、少し……驚いてしまいました」

 そう言いながら、カニの酢の物が入った小鉢がすっとテーブルの端へとよせられる。その瞬間、殻の表面に、まるで海水の雫のようなものが一瞬光った気がした。

「……カニ、苦手なんですか?」

「どうかな」

 高木の声は穏やかだが、どこか潮の匂いが混じっているようだった。

「俺の生まれは琴平。金刀比羅さんって、知ってる?」

 真樹の目がわずかに輝き、高木へと視線を向けた。
 民俗学に興味を持つ真樹にとって、それは心惹かれる単語。

「……金毘羅さんですか」

 言葉を口にしながら、わずかな高揚を覚えた。知識を口にしたいと、物語への郷愁を口にしたいと資料の片隅の挿絵が印象的だったと。

 民俗学への羨望。
 思いを口にした瞬間の友達の表情が――
 真樹は逃げるように小鉢に箸を伸ばした。

 高木の視線は柔らかく艶のある真樹の唇を追っていた。

 高木が息を飲む。

 わずかな間をおいて、小さく頷き、目を細める。

「そう。頂上で見た瀬戸内海は、青すぎて息が詰まるくらい綺麗だった。でも、昔の船乗りたちは、あの海を『祈りの海』って呼んでたんだよ。あれは生きて戻るための祈り」

 高木の視線が、真樹を見つめた。

「って言っても……興味はないかな?崇徳上皇ならどうかな?讃岐に流されて、夜な夜な海を越えて祈りを送っていたって……。今でも、その祈りが聞こえる……とかね」

 からかうような高木の言葉。
 真樹はその表情だけを見つめて言葉を挟まなかった。

 民俗学のゼミで、信仰と海の境界性がテーマになったとき、資料を読み漁った。

「……祈りが、海を媒介にして届くっていう話ですよね。瀬戸内って、そういう『境界の海』なんだよ。生と死、こちらとあちらが混じりやすい……懐かしいね」

 高木は静かに微笑み、その瞳の奥に、瀬戸内の深い青が揺れている気がした。

 視線が合う。
 私は視線を逸らす。

「興味があるようだね。じゃあ……」

 何かを待つような高木の間に視線を戻せば、高木は微かに笑って見せた。

「金刀比羅の石段を登って、海を見ながら、そんな話をしようか?」

 真樹はぎこちなく頷き、料理に箸を伸ばした。

 生まれる――間(ま)。

 民俗学に興味を持ち大学を選んだ真樹にとっては、魅力的な会話なのは事実。

 真樹の喉元が動く。

「何か不思議な体験でもしたんですか?そういう風に聞こえるんですけど?」

「どうだろうね。海と風、木々と砂、朝日と夕日……それを眺めるだけで、不思議な世界に自分はいるんじゃないかって思わせてくれるもんだよ。映像の仕事をしていて、そういう瞬間は?」

「綺麗だとは思うけど、そういう神秘的な気分にはなりませんね」

「そう、そうか、なら、見せてあげたいな。 シンジュちゃんに故郷の景色を」

 柔らかな語りは波の音のようにゆるやかに耳をくすぐり、瞼を閉ざす。

 ぇっ?

 テーブルの端のカニの小鉢は、誰も触れていないのに、殻が微かに、微かに震えているかのようにカタカタと音を立て、私は視線を向けた。

「シンジュちゃん?」

 呼ばれると同時に、空調の音が妙に大きく聞こえ、そして、あわただしく階段を降りて来る足音がする。



 そして、美味しい料理と、興味をそそられる会話は続いた。

感想 4

あなたにおすすめの小説

心霊タクシーでおかえりなさい

黄鱗きいろ
ホラー
十八歳の少女、凪は、 心霊タクシーの噂を頼りに片田舎のロータリーを訪れる。 そこで出会った心霊タクシーの運転手に 凪は札束を突きつけて頼み込んだ。 「お願いします。このお金で、行けるところまで私を連れて行ってください! 両親を探してるんです!」 おっさん運転手と訳あり少女の 優しくて少し哀しい心霊譚。 ※他サイトにも掲載しています。

「お前のカメラ、ずっと映ってるよ」〜ホラースポット配信者が気づいた時には、もう遅かった〜

まさき
ホラー
ホラースポット専門のYouTuber・桐島悠は、霊も怪異も一切信じない合理主義者だ。 ある廃病院での配信中、今まで感じたことのない「違和感」を覚えた。しかし撮影は無事終了。その後も普通に配信を続け、あの夜のことなど忘れかけていた頃——深夜、金縛りにあう。 疲れてるだけだ。 しかし、それは始まりに過ぎなかった。 記憶の空白。知らない足跡。動画に毎回映り込む、同じ女の姿。そして——「やっと、見つけた」という声。 カメラが映し続けていたのは、心霊スポットではなかった。もっとずっと、近いところにいるものだった。

愛していました。待っていました。でもさようなら。

彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。 やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

私がみた夢の話を誰かきいてくれませんか?※これはあくまでフィクションです。

芝 稍重
ホラー
私は子供の頃から夢日記を書いています。 この話には続きがありますが、ここでは書きません。この話でピンときた人は、コメント欄で知らせてほしいです。 (※このあらすじは、本文にでてくる「夢日記」投稿当時のものを復刻した内容です) 表紙はぱくたそのフリー写真です

お二人共、どうぞお幸せに……もう二度と勘違いはしませんから

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【もう私は必要ありませんよね?】 私には2人の幼なじみがいる。一人は美しくて親切な伯爵令嬢。もう一人は笑顔が素敵で穏やかな伯爵令息。 その一方、私は貴族とは名ばかりのしがない男爵家出身だった。けれど2人は身分差に関係なく私に優しく接してくれるとても大切な存在であり、私は密かに彼に恋していた。 ある日のこと。病弱だった父が亡くなり、家を手放さなければならない 自体に陥る。幼い弟は父の知り合いに引き取られることになったが、私は住む場所を失ってしまう。 そんな矢先、幼なじみの彼に「一生、面倒をみてあげるから家においで」と声をかけられた。まるで夢のような誘いに、私は喜んで彼の元へ身を寄せることになったのだが―― ※ 他サイトでも投稿中   途中まで鬱展開続きます(注意)

老聖女の政略結婚

那珂田かな
ファンタジー
エルダリス前国王の長女として生まれ、半世紀ものあいだ「聖女」として太陽神ソレイユに仕えてきたセラ。 六十歳となり、ついに若き姪へと聖女の座を譲り、静かな余生を送るはずだった。 しかし式典後、甥である皇太子から持ち込まれたのは――二十歳の隣国王との政略結婚の話。 相手は内乱終結直後のカルディア王、エドモンド。王家の威信回復と政権安定のため、彼には強力な後ろ盾が必要だという。 子も産めない年齢の自分がなぜ王妃に? 迷いと不安、そして少しの笑いを胸に、セラは決断する。 穏やかな余生か、嵐の老後か―― 四十歳差の政略婚から始まる、波乱の日々が幕を開ける。

【奨励賞】初恋のその先で、私は母になる

妄夢【ピッコマノベルズ連載中】
恋愛
第19回恋愛小説大賞にて、奨励賞を受賞いたしました。読者の皆様のおかげです!本当ありがとうございます。 王宮で12年働き、気づけば28歳。 恋も結婚も遠いものだと思っていたオリビアの人生は、憧れの年下公爵と一夜を共にしたことで大きく動き出す。 優しく守ろうとする彼。 けれどオリビアは、誰かに選ばれるだけの人生を終わらせたいと思っていた。 揺れる想いの中で、彼女が選んだのは―― 自分の足で立ち、自分の未来を選ぶこと。 これは、一人の女性が恋を通して自分を取り戻し、母として、そして一人の人間として強くなっていく物語。 ※表紙画像はAI生成イラストをつかっています。

出来レースだった王太子妃選に落選した公爵令嬢 役立たずと言われ家を飛び出しました でもあれ? 意外に外の世界は快適です

流空サキ
恋愛
王太子妃に選ばれるのは公爵令嬢であるエステルのはずだった。結果のわかっている出来レースの王太子妃選。けれど結果はまさかの敗北。 父からは勘当され、エステルは家を飛び出した。頼ったのは屋敷を出入りする商人のクレト・ロエラだった。 無一文のエステルはクレトの勧めるままに彼の邸で暮らし始める。それまでほとんど外に出たことのなかったエステルが初めて目にする外の世界。クレトのもとで仕事をしながら過ごすうち、恩人だった彼のことが次第に気になりはじめて……。 純真な公爵令嬢と、ある秘密を持つ商人との恋愛譚。