境界の音

迷い人

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1章 潮

06.隙間

 その日はインターンの業務は休みで、カフェのバイトに入ることにした。

「榊君」

 振り返ると吉野教授が立っていた。
 隣には、駅で見た男……。

 教授から注文を受ける。

 BGMが静かに流れる店内。
 クラシックの音が穏やかに客の声を飲み込んでいた。

「真樹ちゃん」

 穏やかな店長の声が、新しい客人の来訪へと私の意識を逸らしてくる。

 扉についたベルの音がなるまえに、私は来客を見ていた。

 高木。
 私は無意識に笑みを向けていた。

「いらっしゃいませ」

 微笑みで返し、高木の側に向かって歩き出す。

「可愛いね。コーヒーをお願いできるかな?」

「コレ、可愛い制服ですよね」

「良く似合っているよ」

 席を案内しようとしたところに教授が声をかけてきた。

「おやこんなところで会うなんて偶然ですね。仕事はどうしたんです?それとも榊君に何か問題が?」

「いえ、近くまで仕事で来ただけですよ」

 教授は高木に席を勧め、高木は座る。
 高木と黒い男は軽く会釈を交わし合い、視線だけを逸らしあった。高木は教授と会話を交わす。

 注文の品を3人に持って行く。高木は教授との会話を止めて私へと視線を向けた。

「今晩、時間をとれませんか?今から会う顧客が興味深い資料を貸してくれるって言っているんだ」

「資料、ですか?」

「今晩、食事でもしながら話をしないかい?きっと興味を持つはずだよ」

 そして、連日、私は高木と食事をした。資料を見ることに興奮している私を見る高木は、小さく笑いながら資料としての映像化の仕事を手伝ってみるかとたずねてきた。断る訳がない……。

 時間は遅く人の少ない駅構内に足音が響く。

 静かな中に響く足音は、はっきりとそして重なりあっていく。
 人は去っても音は消えずに脳裏に残ったまま重なっていく。

 逃げるようにコンビニに入った。

 はぁはぁという呼吸を飲み込む。

 静かなBGMの無い店内にピッピッというレジの音が響き視線を向けた先に居たのは、教授と一緒にいた黒い男。

 私は視線をそらし、男は視線を向ける。
 会釈だけが残った。



 店を出る……道を急ぐ……
 まだ足音が追ってきていた。





 脳裏をよぎる雑音は消えない。
 与えられた仕事、データのまとめ。
 睨むように画面を見つめるけれど、時間と作業量が比例しない。

 イライラする。

 真樹は髪をかき上げ、マウスを無意味に動かしていた。

 カチッ、カチカチ、繰り返される音。

 集中しているからか、ぼんやりしているからか、人が入ってきたことにも気づかなかったらしい。

「大丈夫かい?顔色が良くないけど」

 静かで穏やかな高木の声に、真樹は息を呑み、強張ったままの身体と視線で振り返れば、そこにあるのは愛想の良い高木の笑み。 笑みを見て、乾いた笑いが音をたてずに零れ落ちる。

 あはは……。

 馬鹿げた恐怖に俯いた。
 頬から耳に触れる手。

 急に詰められる距離に動かない警戒心、緩い境界。

「何!? ――でしょうか」

 反射的に強く吐いた言葉と、

 じっと見つめていた高木の手が頬に触れ、解けた髪を耳にかけようとしたのだろう。私は反射的にビクッと身体を強張らせると、高木も驚いた表情と共に慌てて手を引いた。

「ごめん」

「いえ、その……」

 彼は悪くない。それを伝えるために、人に見られている。追われている……そう感じているのだと伝えた。

 自然と唇を噛んでいた。

「それは、大変だったね」

「え?病院に行けって言わないの?」

「なぜ? 君がそう言うならそうなんだろう」

 情けない表情になっているのを隠したくて、私はパソコン画面へと視線を向ける。

「わたし、はぁあ!私が感じているソレが……現実か幻かも分からなくなっているのに、どうして!!そんな……適当過ぎるよ」

 淡々とした口調で、そして声は徐々に小さくなっていく。

 姿を探しても見つけることはできない。なのに足音だけが気になる。風の音が気になる。あらゆるものが気になってしまう。
 視線が気になり周囲を見回しても何もない。人と視線があっても、その人が次に怪しい場面にいない。唯一、そんな場面に頻繁に出会ったのは、教授と一緒にいた男だけ。だけど、住んでいる場所が近いなら、そう考えると疑い過ぎて失礼になる事が怖かった。

「僕は、答えよりもシンジュちゃんに嫌われたくない。真実なんてどうでもいいんだよ」

 絡むような、執着するような言葉。
 私は人との関係で、それをコワイものだと思っていた。

 なのに――心がほどける。

 涙が溢れる。

 そんな私を見て、高木は驚き、そしてゆったりと笑った。

 ぷくぷく。

 聞こえる音が、今は空気に溶けていく。

 声に出さず泣き続ける私を高木は抱きしめていた。

 嫌じゃない。
 身を寄せる。

 その腕の中はとても静かに涼やかに私を抱きしめ、水の中のように私の不安は溶けていった。

「仕事で、ここを離れるんだけど。一緒に来ない?手伝って欲しいんだ」

 優しく静かな声で、背中が撫でられていて、私は……高木を見上げる。きっと驚いたままにマヌケな顔をしていたと思う。

 高木は笑みを浮かべる。

「今の君には気晴らしも大事だと思うんだ」



 流されるように、私は高木と共に出張に行くことになっていた。

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