境界の音

迷い人

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1章 潮

10.恋の階段

 心地よい眠り。
 たゆたうと穏やかに揺れる波。

 微かに聞こえる声が、徐々にはっきりとしたものになる。

「朝ですよ。起こして欲しいと言ってらしたのは、真樹さんですよ」

 穏やかな優しい声だった。

「んっ、ぁ……おはようございます。高乃さん」

 心地よい女性の声に目を覚ました。

「はい、おはようございます。さぁ、準備をしましょうね」

 昨日お茶会のあと、高木よりも早く起こして欲しいとお願いしていたのだ。

「そう、だった。起こしてくれてありがとう」

 私のお礼に高乃さんは微笑みを浮かべた。

「さぁ、頑張りましょうね」

「ぁ、はい……」



 そして、私と高木は住み込みの使用人の人達に見送られ、まだ暗いうちから金毘羅宮へと向かったのだ。

 夜の静けさに風が潮の香を運んできていた。
 肺の中を占める香りが、夢の中の心地よさを思い出させる。

 未だ静けさに支配された世界に、現実を刻むように道路を走る音が響き、身体を揺らし、それがまるで子供をあやすための揺り籠のようで、私は欠伸をかみ殺す。

「眠れた?階段、大変だよ?」

「でも、途中まで車で行けますよね?」

 牽制の混ざった私の声に、高木は小さく笑い声を漏らす。

「自分の足で昇ると、特別なご褒美があるよ」

 その高木の言い方が少し得意げで、私はくすっと笑った。

「それって筋肉痛とか言いませんか?」

 私の声に、また高木が笑いだし、私も嬉しくなって笑うのだ。



 駐車場についた車から降りる。
 夏の気配が消えた秋の空気はヒンヤリとしていて、奇妙な緊張感を覚える。

 誰もいない空間。
 眠る土産物屋、石畳、燈籠。
 それはとても不思議で……気持ちが高揚し、私は走り出す。

 風が揺れれば、どこからか出汁の香りを運んできて私を現実に呼び止めた。

 それでも、私は階段へ一人急いだ。

「早く、高木さん」

 不思議に、止まれない……。

「転ばないように気を付けて」

 背後から聞こえる声に、私が高木を振り返れば、スカートが舞い、少し重みのあるリュックが勢いを止めていて、階段を上る。

「ぇ?」

 思っていたより急で、石段がやけに冷たく感じて、私の足が止まった。

「どうしたの?足をひねったとか?」

 問われて、私は高木に視線を向けて、へらりと笑って見せた。

「あと、残り何段かな?」

「……沢山かな?」

「沢山って……何段ですか?」

「奥宮まで行く予定だから、まだ千三百段以上あるかな?」

「それは、大変そうですね」

 笑みが引きつっているのが自分でもわかる。私が思っていた階段とは違っていたのだ。そんな私に高木が手を差し出して来て、私は……負担を減らすために背負っていたリュックを手渡した。

 驚いた様子の高木に、私は笑みを向けて両手を合わせる。

「よろしくお願いします」

 高木は笑い、少しだけ演技めいて言うのだ。

「では、お預かりしましょう」

 力強く高木は階段を上りだす。私は彼を後ろから眺めるため立ち止まり、彼の力強い足取りを見あげる。

 私の背中を覆っていたリュックが、軽く肩にかけられて揺れる。
 身体を動かすたびにシャツの皺が動き、その下に隠された鍛えられた確かな硬さに不意に息が詰まる――あぁ、自分とは違う存在なんだ。



 男性だ……。



 先を歩く高木の背を見つめたまま……私は……

「ぁ……」

 何を言えばいいか分からないまま立ち止まっていた。

 一人分の足音だけが石を踏む。

「シンジュちゃん?」

 高木が振り返り、私は少しばかりマヌケな顔を見られたことを自覚してしまい、そして――走り出した。

「転ぶよ」

 慌てて呼び留める声を無視して走った。

 走って、走って、走って……そう沢山上った訳でもないのに力尽きた。

 膝に手をつき、早くなっている鼓動と息を落ち着けるように深呼吸をする。 目の前には私の影が落ちている。

 夜は去り、太陽が昇り始めていた。

 石段に座りこみ、私は高木を待った。
 高木は走り出した私を追いかけてはこなかったけれど、それでいい、今はそれでいい。瞳を閉ざし、日差しを浴びる。風が生の匂いを運び、火照った頬を冷やしていく。整う呼吸。

 私は、スマホを取り出し構えながら高木の姿が見えるのを待っていた。

 スマホ越しに私は高木を見る。
 高木が笑っている――カメラ越しが少しだけ現実味を遠ざけて、覚えたての緊張を遠ざける。

 太陽を背にしているためか高木の表情は影になりよく見えない。
 木々の影が高木の影に折り重なり、枝を伸ばし……その陰に私は蜘蛛を連想し少しだけ苦く笑う。

「どうしたの?」

 まだ距離は遠いけれど、高木は聞く。
 笑う表情が見えた……整った表情で、黒目がちな瞳が印象的な人。

 撮影しようとした瞬間。
 カモメとカラスが横切り影を作る。

 カーと一声鳴いて去って行った。

 何が起こったか分からず呆然とする私に高木は、俯き口を押えるが我慢できずに噴き出して笑いだし、咳こんでいた。

「笑い過ぎですよ」

 一歩、二歩、階段を降りてリュックをちょうだいと手を差し出せば、重さのあるリュックが手渡された。

 荷物の中からペットボトルの水を取り出し高木に渡す。

「はい」

「ありがとう」

「目的地まではまだですが、休憩にしませんか?」

 そう言って、早く起こしてもらって作ったおにぎりも一緒に手渡した。

「お手製?」

「そう、お手製です」

「ありがとう」

「いえ、材料も荷物を運んだのも高木さんですけどね」

 私はおにぎりにかぶりつき、高木もおにぎりを口にする。そして、一口食べて小さくボソリと繰り返された静かな声。

「一緒に来てくれてありがとう」

「えっと……どういたしまして……」

 静かなお礼が気恥ずかしくて、高木の顔を見なくても済むように隣に腰を下ろした。
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