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1章 潮
12.混乱
夢から吊り上げられたかのような目覚め。
呼吸が乱れていた。
――いたっ!
頭の奥で、鈍いものが脈を打つ。
ごほっ。
息が、熱い。
焼けた灰の匂い、蝋燭の匂い、温もり――そして、真新しい木の匂い。
「いたっ」
声が乾き掠れていた。
頭痛を抑えるようにこめかみを押さえながら、周囲を見回す。
十畳ほどの四角い空間。見上げれば、正方形に切り取られた夜空から月光が垂直に降り注いでいる。
世界から切り離された底。
壁に手を伸ばしてみた。ひやりと冷たく、重厚な一枚板。コンクリートの硬さではない。それは、何百年も生きた大樹の命をそのまま削り出したような、逃れがたい厚みを持っていた。
コツン。
硬く重い音が掌に返ってくる。
まだ意識が水の底に沈んだように、掌に伝わる感触が鈍い。
正面には、揺らめく蝋燭に照らされた祭壇。供えられた魚の鱗が銀色に光り、盛られた塩の山が雪のように白い。
和蝋燭が揺れ、影の頭が揺れて波打つ。
伸びて、縮んで、壁を舐めるように揺れて……形が溶ける。
胃の奥が、ぎゅっと縮んだ。
私の影なのに、私の動きとはずれて、遅れて、惑わしてくる。
明かりは淡く揺れる。
肺がうまく膨らまない。
喉の奥に、甘い蝋の匂いが張りつく。
ヒノキの清々しい香りに混じって……火の匂い、蝋の焼けた匂い、そして――鼻の奥をつく生の海水の匂い。
蝋燭の光の向こう——高木が床に横たわっていた。
「高木さん」
掠れた私の声は、静寂の底に落ちて吸い込まれるように消えた。
駆け寄り、膝をつく。寝息は聞こえる。呼吸は穏やかだ。胸が、一定のリズムで、静かに上下している。
起こさなければ——そう思った手が、肩に触れる直前で止まった。
病気だったら。
何かの発作だったら。
私が不用意に揺すったせいで、何かが悪化したら。
呼吸が感じられず、私は慌てて脈に触れた。
そっと脈を診るように触れた。
「……っ」
人の死を想像して怖かったのは、その体温がやけに冷たかったから。まるで、そこだけ抜け落ちたかのような冷たさ。
唇を噛んで、手を引き、スマホを探して立ち上がる。着物——いつの間にか浴衣のままだった——の袂に手を差し込めば、小さな硬さが指先に触れた。
画面を開く。
電波、なし。
Wi-Fi、なし。
時刻だけが、冷たく現実を告げる。
23:12。
数字を捉え、次の瞬間、脳が拒む。
――違う。
朝だった。
朝で、石段で、風が――
何がどうなっているの?!
部屋の輪郭を確かめるように、もう一度壁に触れて歩く。継ぎ目がない。扉の縁がどこかにあるはずだと指先で探れば、それらしい微かな段差はあるが、取っ手がない。押しても、引いても、びくともしない。
祭壇の裏側へと回ってみる。
壁と祭壇の隙間は、人ひとり入れるかどうかの狭さ。見上げれば天窓——月読の窓——は、二階分ほどの高さにある。届かない。
静かすぎる空間の中で、自分の鼓動だけがうるさかった。
その時。
遠い。
けれど笛の音が、一直線に耳の奥へと刺さる。
太鼓の音が空気を震わせる。
それは夜祭のそれのように、繰り返す、繰り返す。
人が、いる。
「助けて!」
気がつけば叫んでいた。壁を叩く。拳が痛い。それでも叩く。
「誰か、ここに——」
声は叫びとなる前に塞がれ、背後から腕が回された。
背筋に冷えた感覚が走り抜け、息が止まる。
「シー」
高木の声、匂い、身体から力が抜け、膝が笑ったように崩れそうになる私を高木が支えていた。振り返ろうとしたけれど、抱きしめる腕が閉じ込めるように包み込んでくる。
「良かった。目が覚めたのね。ここに閉じ込められたみたいなの」
疑問と混乱が溢れでる。
どうして。
なぜ。
ここは、どこ。
どうすれば、いいの。
矢継ぎ早に私の口から紡がれる。
だけど高木は答えない。
私を無視している?
寝ぼけたようにただ私を抱きしめていた高木の手は、背後から私を閉じ込めたまま頬を撫でる。
――輪郭を確かめるように。
「ぁっ……」
優しい手、優しいけれど……近すぎる距離は、高木のものとは違う。腕の中で身じろぎするけれど高木の腕は離れない。
驚かせてしまったことへの謝罪も、大丈夫だったかという問いかけも、何もなく、ただ、腕が、そこにある。ただ、寝ぼけているかのように静かだった。
服越しに伝わる体温が冷えている。
さっき脈に触れた時と、同じ冷たさ。
――やっぱり、どこかおかしい。
そう考えながら高木の腕に触れる私の手が、高木の湿った感触を拾った。
高木の袖が、濡れている。
お社の中は、乾いているのに。
「高木さん、ここ、どこですか」
「故郷だよ」
「故郷って……金毘羅宮の、途中で眠ってしまって——」
「そう」
話を、聞いていない。 いや、聞いているのかもしれない。でも——返ってくる声が、水面を滑るように通り過ぎ、私の胃の奥がすぅっと冷えた。
腕の中で身じろぎをすれば、力が、わずかに増した。 その瞬間、服の下から音がした。
カチ……と、小さく、乾いた音。
関節の音とは、違う。
違和感に震える。
「高木さん」
「うん」
「助けを——」
「必要ない」
また、通じない。
見上げようとして、首を傾けた瞬間——指先が、頬に触れた。
濡れているかのように冷たい。
触れた頬だけが、体温を奪われ、じっとりと湿る。
いつもより少し長く感じる指が、髪を耳へとかけるように動いて——私は、動けなかった。
その目が、一度も、閉じられていないことに気がついた。
黒目がちな瞳が、蝋燭の炎を映して、ただ、揺れている。
違和感。
瞬きがない。
「……高木、さん?」
「うん」
声は、柔らかい。
「禊をしようか」
耳のそばで、穏やかに言った。
あの声で。
高木さんの声で。
「……禊」
「うん」
「それは」
「大事なことだから」
笛と太鼓の音が、近い。
甘い香りが、また、鼻の奥をくすぐった。
ふと視線を落とせば——床に、点々と、濡れた跡が残っていた。
高木が、歩いてきた場所だけ。
逃げたい。
逃げなければ。
思ったのに——足が、動かなかった。
笛と太鼓の音が、波をうち、波紋を描き、押し寄せて来る。
一打ごとに、空気が冷える。
和蝋燭が揺れ、甘い香りが鼻の奥に張り付いた。
逃げたい——そんな思いが、頭の中で形を失っていく。
輪郭がほどけて、意味がなくなって、笛と太鼓の音に溶けていく。
視線を落とせば——床に、点々と、濡れた跡が残っていた。高木が歩いてきた場所だけ。
「ぁっ……」
私を包み込むように抱きしめる高木。
その身体から熱が感じない。
生きている証――鼓動が分からない。
呼吸が肌に触れない。
私は小さく首を振った。
「た……高木さん」
「うん」
返事だけが、返ってくる。
笛の音が、高く低く、波を抱く。
太鼓の音が、早く力強く打ち鳴らされる。
空気が凛と澄む。
その瞬間——壁の影が、爆ぜた。
蝋燭が作っていたはずの影。
二本だったはずの影が増える。
四本から八本。
鋭利な槍のように天井へ向かって伸び、そして折れ、床へと突き刺さる。
私を囲う格子のように。
「ぁ——」
声が出なかった。
影は、高木の輪郭から生えていた。
腕ではない場所から。肩でもない場所から。服の内側から押し広げるように、影だけが、先に外へ出てくる。
太鼓が、連打した。
壁に映る高木の影が——一瞬だけ、別の形になった。
巨大な、丸い、背中。
甲羅。
それを背負った「何か」の輪郭が、影の中に混じって、すぐに消える。
一瞬だけ。
でも、確かに見た。
「禊をしようか」
耳のそばで、穏やかに言った。
高木さんの声で。
影が、私の足元へと伸びてくる。
実体より先に、影が、私を捉えに来た。
思考が停止していた。
ドンッ。
壁が、鳴った。
続いて、ドンッ。ドンッ。
規則的ではない。乱暴で、必死な音。
太鼓ではない。
「——っ、おい! いるか!!」
外から、声がした。
男の声。
知らない……いや、あり得ない声だった。
「ここ、ここです——!!」
叫んだ瞬間、腕の力が増した。
息が詰まる。
「いるな、離れろ、今壊す!!」
ドンッ、ドンッ、ドンッ——
壁が、分厚い木板が、軋む。
継ぎ目のないはずの壁に、細い亀裂が走った。月光が、刃のように差し込んでくる。
そして——
金属音が響き、引き裂き、壁の一部が内側へと吹き飛んだ。
蝋燭が、薙ぎ倒される。
炎が、祭壇を舐めた。
「来い!!」
飛び込んできた男が、私の腕を掴んだ。
引っ張られる。腕が、ようやく、ほどける。
「走れ!」
言われて走った。
走りながら振り返った。
高木が来ていないことが気になったから。
走る足は止められない。だけど、振り返らずにはいられなかった。
高木が、立っていた。
炎の光の中に。
笛と太鼓の音が、止んだ。
突然の静寂。
その中で——高木が、声を上げた。
悲鳴、ではなかった。
悲鳴よりも、もっと、内側から絞り出されるような音。
「——止まるな!!」
遠くから、怒号が響いた。屋敷の方角から。使用人の声だった。
「笛を止めるな、太鼓を——!!」
笛が、また、鳴り始めたが、音が乱れ不協和音を奏でる。
太鼓の音が、戸惑いに揺れる。
代わりに——高木の輪郭が、揺れた。
服の上から見ても、分かった。
皮膚が、盛り上がっていく。
変わっていく。
首筋から、鎖骨へ。露出した手の甲から、指先へ。
色が、抜け、青みがかった灰色へと変貌する。
そして——硬くなっていく。
盛り上がり、層を重ね――甲羅のように。
「——ぁ」
高木の口から、音が漏れた。
自分の手を見ていた。
変わっていく自分の手を、ただ、見ていた。
黒目がちな瞳が、初めて、焦点を結んだ。
人間の目で、見ていた。
「たす——」
手が、伸び……そして、静かに躊躇いがちにその手はひっこめられた。
視線が合えば、躊躇いが生まれた。
私は振り返り、足が止まる。
戸惑う心が戻りたいと叫ぶ。
「行くぞ!!」
腕を引かれた。
炎が、祭壇を飲み込んでいく。
高木の手も、瞳も、もう私を求めておらず、追ってこない。
触れ合うことなく——遠ざかっていく。
混乱の中に、恋への未練……なのかもしれない。
気になって仕方がない私は高木を振り返る。
高木だったソレは私を見た。
高木ではない存在の瞳と共に。
呼吸が乱れていた。
――いたっ!
頭の奥で、鈍いものが脈を打つ。
ごほっ。
息が、熱い。
焼けた灰の匂い、蝋燭の匂い、温もり――そして、真新しい木の匂い。
「いたっ」
声が乾き掠れていた。
頭痛を抑えるようにこめかみを押さえながら、周囲を見回す。
十畳ほどの四角い空間。見上げれば、正方形に切り取られた夜空から月光が垂直に降り注いでいる。
世界から切り離された底。
壁に手を伸ばしてみた。ひやりと冷たく、重厚な一枚板。コンクリートの硬さではない。それは、何百年も生きた大樹の命をそのまま削り出したような、逃れがたい厚みを持っていた。
コツン。
硬く重い音が掌に返ってくる。
まだ意識が水の底に沈んだように、掌に伝わる感触が鈍い。
正面には、揺らめく蝋燭に照らされた祭壇。供えられた魚の鱗が銀色に光り、盛られた塩の山が雪のように白い。
和蝋燭が揺れ、影の頭が揺れて波打つ。
伸びて、縮んで、壁を舐めるように揺れて……形が溶ける。
胃の奥が、ぎゅっと縮んだ。
私の影なのに、私の動きとはずれて、遅れて、惑わしてくる。
明かりは淡く揺れる。
肺がうまく膨らまない。
喉の奥に、甘い蝋の匂いが張りつく。
ヒノキの清々しい香りに混じって……火の匂い、蝋の焼けた匂い、そして――鼻の奥をつく生の海水の匂い。
蝋燭の光の向こう——高木が床に横たわっていた。
「高木さん」
掠れた私の声は、静寂の底に落ちて吸い込まれるように消えた。
駆け寄り、膝をつく。寝息は聞こえる。呼吸は穏やかだ。胸が、一定のリズムで、静かに上下している。
起こさなければ——そう思った手が、肩に触れる直前で止まった。
病気だったら。
何かの発作だったら。
私が不用意に揺すったせいで、何かが悪化したら。
呼吸が感じられず、私は慌てて脈に触れた。
そっと脈を診るように触れた。
「……っ」
人の死を想像して怖かったのは、その体温がやけに冷たかったから。まるで、そこだけ抜け落ちたかのような冷たさ。
唇を噛んで、手を引き、スマホを探して立ち上がる。着物——いつの間にか浴衣のままだった——の袂に手を差し込めば、小さな硬さが指先に触れた。
画面を開く。
電波、なし。
Wi-Fi、なし。
時刻だけが、冷たく現実を告げる。
23:12。
数字を捉え、次の瞬間、脳が拒む。
――違う。
朝だった。
朝で、石段で、風が――
何がどうなっているの?!
部屋の輪郭を確かめるように、もう一度壁に触れて歩く。継ぎ目がない。扉の縁がどこかにあるはずだと指先で探れば、それらしい微かな段差はあるが、取っ手がない。押しても、引いても、びくともしない。
祭壇の裏側へと回ってみる。
壁と祭壇の隙間は、人ひとり入れるかどうかの狭さ。見上げれば天窓——月読の窓——は、二階分ほどの高さにある。届かない。
静かすぎる空間の中で、自分の鼓動だけがうるさかった。
その時。
遠い。
けれど笛の音が、一直線に耳の奥へと刺さる。
太鼓の音が空気を震わせる。
それは夜祭のそれのように、繰り返す、繰り返す。
人が、いる。
「助けて!」
気がつけば叫んでいた。壁を叩く。拳が痛い。それでも叩く。
「誰か、ここに——」
声は叫びとなる前に塞がれ、背後から腕が回された。
背筋に冷えた感覚が走り抜け、息が止まる。
「シー」
高木の声、匂い、身体から力が抜け、膝が笑ったように崩れそうになる私を高木が支えていた。振り返ろうとしたけれど、抱きしめる腕が閉じ込めるように包み込んでくる。
「良かった。目が覚めたのね。ここに閉じ込められたみたいなの」
疑問と混乱が溢れでる。
どうして。
なぜ。
ここは、どこ。
どうすれば、いいの。
矢継ぎ早に私の口から紡がれる。
だけど高木は答えない。
私を無視している?
寝ぼけたようにただ私を抱きしめていた高木の手は、背後から私を閉じ込めたまま頬を撫でる。
――輪郭を確かめるように。
「ぁっ……」
優しい手、優しいけれど……近すぎる距離は、高木のものとは違う。腕の中で身じろぎするけれど高木の腕は離れない。
驚かせてしまったことへの謝罪も、大丈夫だったかという問いかけも、何もなく、ただ、腕が、そこにある。ただ、寝ぼけているかのように静かだった。
服越しに伝わる体温が冷えている。
さっき脈に触れた時と、同じ冷たさ。
――やっぱり、どこかおかしい。
そう考えながら高木の腕に触れる私の手が、高木の湿った感触を拾った。
高木の袖が、濡れている。
お社の中は、乾いているのに。
「高木さん、ここ、どこですか」
「故郷だよ」
「故郷って……金毘羅宮の、途中で眠ってしまって——」
「そう」
話を、聞いていない。 いや、聞いているのかもしれない。でも——返ってくる声が、水面を滑るように通り過ぎ、私の胃の奥がすぅっと冷えた。
腕の中で身じろぎをすれば、力が、わずかに増した。 その瞬間、服の下から音がした。
カチ……と、小さく、乾いた音。
関節の音とは、違う。
違和感に震える。
「高木さん」
「うん」
「助けを——」
「必要ない」
また、通じない。
見上げようとして、首を傾けた瞬間——指先が、頬に触れた。
濡れているかのように冷たい。
触れた頬だけが、体温を奪われ、じっとりと湿る。
いつもより少し長く感じる指が、髪を耳へとかけるように動いて——私は、動けなかった。
その目が、一度も、閉じられていないことに気がついた。
黒目がちな瞳が、蝋燭の炎を映して、ただ、揺れている。
違和感。
瞬きがない。
「……高木、さん?」
「うん」
声は、柔らかい。
「禊をしようか」
耳のそばで、穏やかに言った。
あの声で。
高木さんの声で。
「……禊」
「うん」
「それは」
「大事なことだから」
笛と太鼓の音が、近い。
甘い香りが、また、鼻の奥をくすぐった。
ふと視線を落とせば——床に、点々と、濡れた跡が残っていた。
高木が、歩いてきた場所だけ。
逃げたい。
逃げなければ。
思ったのに——足が、動かなかった。
笛と太鼓の音が、波をうち、波紋を描き、押し寄せて来る。
一打ごとに、空気が冷える。
和蝋燭が揺れ、甘い香りが鼻の奥に張り付いた。
逃げたい——そんな思いが、頭の中で形を失っていく。
輪郭がほどけて、意味がなくなって、笛と太鼓の音に溶けていく。
視線を落とせば——床に、点々と、濡れた跡が残っていた。高木が歩いてきた場所だけ。
「ぁっ……」
私を包み込むように抱きしめる高木。
その身体から熱が感じない。
生きている証――鼓動が分からない。
呼吸が肌に触れない。
私は小さく首を振った。
「た……高木さん」
「うん」
返事だけが、返ってくる。
笛の音が、高く低く、波を抱く。
太鼓の音が、早く力強く打ち鳴らされる。
空気が凛と澄む。
その瞬間——壁の影が、爆ぜた。
蝋燭が作っていたはずの影。
二本だったはずの影が増える。
四本から八本。
鋭利な槍のように天井へ向かって伸び、そして折れ、床へと突き刺さる。
私を囲う格子のように。
「ぁ——」
声が出なかった。
影は、高木の輪郭から生えていた。
腕ではない場所から。肩でもない場所から。服の内側から押し広げるように、影だけが、先に外へ出てくる。
太鼓が、連打した。
壁に映る高木の影が——一瞬だけ、別の形になった。
巨大な、丸い、背中。
甲羅。
それを背負った「何か」の輪郭が、影の中に混じって、すぐに消える。
一瞬だけ。
でも、確かに見た。
「禊をしようか」
耳のそばで、穏やかに言った。
高木さんの声で。
影が、私の足元へと伸びてくる。
実体より先に、影が、私を捉えに来た。
思考が停止していた。
ドンッ。
壁が、鳴った。
続いて、ドンッ。ドンッ。
規則的ではない。乱暴で、必死な音。
太鼓ではない。
「——っ、おい! いるか!!」
外から、声がした。
男の声。
知らない……いや、あり得ない声だった。
「ここ、ここです——!!」
叫んだ瞬間、腕の力が増した。
息が詰まる。
「いるな、離れろ、今壊す!!」
ドンッ、ドンッ、ドンッ——
壁が、分厚い木板が、軋む。
継ぎ目のないはずの壁に、細い亀裂が走った。月光が、刃のように差し込んでくる。
そして——
金属音が響き、引き裂き、壁の一部が内側へと吹き飛んだ。
蝋燭が、薙ぎ倒される。
炎が、祭壇を舐めた。
「来い!!」
飛び込んできた男が、私の腕を掴んだ。
引っ張られる。腕が、ようやく、ほどける。
「走れ!」
言われて走った。
走りながら振り返った。
高木が来ていないことが気になったから。
走る足は止められない。だけど、振り返らずにはいられなかった。
高木が、立っていた。
炎の光の中に。
笛と太鼓の音が、止んだ。
突然の静寂。
その中で——高木が、声を上げた。
悲鳴、ではなかった。
悲鳴よりも、もっと、内側から絞り出されるような音。
「——止まるな!!」
遠くから、怒号が響いた。屋敷の方角から。使用人の声だった。
「笛を止めるな、太鼓を——!!」
笛が、また、鳴り始めたが、音が乱れ不協和音を奏でる。
太鼓の音が、戸惑いに揺れる。
代わりに——高木の輪郭が、揺れた。
服の上から見ても、分かった。
皮膚が、盛り上がっていく。
変わっていく。
首筋から、鎖骨へ。露出した手の甲から、指先へ。
色が、抜け、青みがかった灰色へと変貌する。
そして——硬くなっていく。
盛り上がり、層を重ね――甲羅のように。
「——ぁ」
高木の口から、音が漏れた。
自分の手を見ていた。
変わっていく自分の手を、ただ、見ていた。
黒目がちな瞳が、初めて、焦点を結んだ。
人間の目で、見ていた。
「たす——」
手が、伸び……そして、静かに躊躇いがちにその手はひっこめられた。
視線が合えば、躊躇いが生まれた。
私は振り返り、足が止まる。
戸惑う心が戻りたいと叫ぶ。
「行くぞ!!」
腕を引かれた。
炎が、祭壇を飲み込んでいく。
高木の手も、瞳も、もう私を求めておらず、追ってこない。
触れ合うことなく——遠ざかっていく。
混乱の中に、恋への未練……なのかもしれない。
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