境界の音

迷い人

文字の大きさ
12 / 67
1章 潮

12.混乱

 夢から吊り上げられたかのような目覚め。

 呼吸が乱れていた。

 ――いたっ!

 頭の奥で、鈍いものが脈を打つ。

 ごほっ。
 息が、熱い。

 焼けた灰の匂い、蝋燭の匂い、温もり――そして、真新しい木の匂い。

「いたっ」

 声が乾き掠れていた。
 頭痛を抑えるようにこめかみを押さえながら、周囲を見回す。

 十畳ほどの四角い空間。見上げれば、正方形に切り取られた夜空から月光が垂直に降り注いでいる。

 世界から切り離された底。

 壁に手を伸ばしてみた。ひやりと冷たく、重厚な一枚板。コンクリートの硬さではない。それは、何百年も生きた大樹の命をそのまま削り出したような、逃れがたい厚みを持っていた。

 コツン。

 硬く重い音が掌に返ってくる。

 まだ意識が水の底に沈んだように、掌に伝わる感触が鈍い。

 正面には、揺らめく蝋燭に照らされた祭壇。供えられた魚の鱗が銀色に光り、盛られた塩の山が雪のように白い。

 和蝋燭が揺れ、影の頭が揺れて波打つ。
 伸びて、縮んで、壁を舐めるように揺れて……形が溶ける。
 胃の奥が、ぎゅっと縮んだ。

 私の影なのに、私の動きとはずれて、遅れて、惑わしてくる。

 明かりは淡く揺れる。
 肺がうまく膨らまない。
 喉の奥に、甘い蝋の匂いが張りつく。


 ヒノキの清々しい香りに混じって……火の匂い、蝋の焼けた匂い、そして――鼻の奥をつく生の海水の匂い。

 蝋燭の光の向こう——高木が床に横たわっていた。

「高木さん」

 掠れた私の声は、静寂の底に落ちて吸い込まれるように消えた。
 駆け寄り、膝をつく。寝息は聞こえる。呼吸は穏やかだ。胸が、一定のリズムで、静かに上下している。

 起こさなければ——そう思った手が、肩に触れる直前で止まった。

 病気だったら。
 何かの発作だったら。
 私が不用意に揺すったせいで、何かが悪化したら。

 呼吸が感じられず、私は慌てて脈に触れた。

 そっと脈を診るように触れた。

「……っ」

 人の死を想像して怖かったのは、その体温がやけに冷たかったから。まるで、そこだけ抜け落ちたかのような冷たさ。

 唇を噛んで、手を引き、スマホを探して立ち上がる。着物——いつの間にか浴衣のままだった——の袂に手を差し込めば、小さな硬さが指先に触れた。

 画面を開く。
 電波、なし。
 Wi-Fi、なし。
 時刻だけが、冷たく現実を告げる。

 23:12。
 数字を捉え、次の瞬間、脳が拒む。

 ――違う。

 朝だった。

 朝で、石段で、風が――

 何がどうなっているの?!

 部屋の輪郭を確かめるように、もう一度壁に触れて歩く。継ぎ目がない。扉の縁がどこかにあるはずだと指先で探れば、それらしい微かな段差はあるが、取っ手がない。押しても、引いても、びくともしない。

 祭壇の裏側へと回ってみる。

 壁と祭壇の隙間は、人ひとり入れるかどうかの狭さ。見上げれば天窓——月読の窓——は、二階分ほどの高さにある。届かない。

 静かすぎる空間の中で、自分の鼓動だけがうるさかった。

 その時。

 遠い。
 けれど笛の音が、一直線に耳の奥へと刺さる。
 太鼓の音が空気を震わせる。

 それは夜祭のそれのように、繰り返す、繰り返す。

 人が、いる。
「助けて!」
 気がつけば叫んでいた。壁を叩く。拳が痛い。それでも叩く。
「誰か、ここに——」




 声は叫びとなる前に塞がれ、背後から腕が回された。
 背筋に冷えた感覚が走り抜け、息が止まる。

「シー」

 高木の声、匂い、身体から力が抜け、膝が笑ったように崩れそうになる私を高木が支えていた。振り返ろうとしたけれど、抱きしめる腕が閉じ込めるように包み込んでくる。

「良かった。目が覚めたのね。ここに閉じ込められたみたいなの」

 疑問と混乱が溢れでる。

 どうして。
 なぜ。
 ここは、どこ。
 どうすれば、いいの。

 矢継ぎ早に私の口から紡がれる。

 だけど高木は答えない。
 私を無視している?

 寝ぼけたようにただ私を抱きしめていた高木の手は、背後から私を閉じ込めたまま頬を撫でる。

 ――輪郭を確かめるように。

「ぁっ……」

 優しい手、優しいけれど……近すぎる距離は、高木のものとは違う。腕の中で身じろぎするけれど高木の腕は離れない。

 驚かせてしまったことへの謝罪も、大丈夫だったかという問いかけも、何もなく、ただ、腕が、そこにある。ただ、寝ぼけているかのように静かだった。

 服越しに伝わる体温が冷えている。
 さっき脈に触れた時と、同じ冷たさ。

 ――やっぱり、どこかおかしい。

 そう考えながら高木の腕に触れる私の手が、高木の湿った感触を拾った。

 高木の袖が、濡れている。
 お社の中は、乾いているのに。

「高木さん、ここ、どこですか」
「故郷だよ」
「故郷って……金毘羅宮の、途中で眠ってしまって——」



「そう」



 話を、聞いていない。 いや、聞いているのかもしれない。でも——返ってくる声が、水面を滑るように通り過ぎ、私の胃の奥がすぅっと冷えた。

 腕の中で身じろぎをすれば、力が、わずかに増した。 その瞬間、服の下から音がした。
 カチ……と、小さく、乾いた音。
 関節の音とは、違う。

 違和感に震える。

「高木さん」
「うん」
「助けを——」
「必要ない」

 また、通じない。

 見上げようとして、首を傾けた瞬間——指先が、頬に触れた。
 濡れているかのように冷たい。
 触れた頬だけが、体温を奪われ、じっとりと湿る。

 いつもより少し長く感じる指が、髪を耳へとかけるように動いて——私は、動けなかった。
 その目が、一度も、閉じられていないことに気がついた。
 黒目がちな瞳が、蝋燭の炎を映して、ただ、揺れている。

 違和感。

 瞬きがない。

「……高木、さん?」
「うん」

 声は、柔らかい。

「禊をしようか」

 耳のそばで、穏やかに言った。
 あの声で。
 高木さんの声で。

「……禊」
「うん」
「それは」
「大事なことだから」

 笛と太鼓の音が、近い。
 甘い香りが、また、鼻の奥をくすぐった。
 ふと視線を落とせば——床に、点々と、濡れた跡が残っていた。
 高木が、歩いてきた場所だけ。

 逃げたい。
 逃げなければ。

 思ったのに——足が、動かなかった。




 笛と太鼓の音が、波をうち、波紋を描き、押し寄せて来る。
 一打ごとに、空気が冷える。

 和蝋燭が揺れ、甘い香りが鼻の奥に張り付いた。

 逃げたい——そんな思いが、頭の中で形を失っていく。
 輪郭がほどけて、意味がなくなって、笛と太鼓の音に溶けていく。

 視線を落とせば——床に、点々と、濡れた跡が残っていた。高木が歩いてきた場所だけ。

「ぁっ……」

 私を包み込むように抱きしめる高木。
 その身体から熱が感じない。
 生きている証――鼓動が分からない。
 呼吸が肌に触れない。

 私は小さく首を振った。

「た……高木さん」
「うん」

 返事だけが、返ってくる。
 笛の音が、高く低く、波を抱く。
 太鼓の音が、早く力強く打ち鳴らされる。

 空気が凛と澄む。

 その瞬間——壁の影が、爆ぜた。

 蝋燭が作っていたはずの影。

 二本だったはずの影が増える。
 四本から八本。

 鋭利な槍のように天井へ向かって伸び、そして折れ、床へと突き刺さる。

 私を囲う格子のように。

「ぁ——」

 声が出なかった。
 影は、高木の輪郭から生えていた。
 腕ではない場所から。肩でもない場所から。服の内側から押し広げるように、影だけが、先に外へ出てくる。

 太鼓が、連打した。
 壁に映る高木の影が——一瞬だけ、別の形になった。
 巨大な、丸い、背中。

 甲羅。

 それを背負った「何か」の輪郭が、影の中に混じって、すぐに消える。

 一瞬だけ。

 でも、確かに見た。

「禊をしようか」

 耳のそばで、穏やかに言った。
 高木さんの声で。
 影が、私の足元へと伸びてくる。
 実体より先に、影が、私を捉えに来た。



 思考が停止していた。



 ドンッ。
 壁が、鳴った。
 続いて、ドンッ。ドンッ。
 規則的ではない。乱暴で、必死な音。

 太鼓ではない。

「——っ、おい! いるか!!」

 外から、声がした。
 男の声。
 知らない……いや、あり得ない声だった。

「ここ、ここです——!!」

 叫んだ瞬間、腕の力が増した。
 息が詰まる。

「いるな、離れろ、今壊す!!」

 ドンッ、ドンッ、ドンッ——

 壁が、分厚い木板が、軋む。
 継ぎ目のないはずの壁に、細い亀裂が走った。月光が、刃のように差し込んでくる。

 そして——

 金属音が響き、引き裂き、壁の一部が内側へと吹き飛んだ。
 蝋燭が、薙ぎ倒される。

 炎が、祭壇を舐めた。

「来い!!」

 飛び込んできた男が、私の腕を掴んだ。
 引っ張られる。腕が、ようやく、ほどける。

「走れ!」

 言われて走った。
 走りながら振り返った。
 高木が来ていないことが気になったから。

 走る足は止められない。だけど、振り返らずにはいられなかった。

 高木が、立っていた。
 炎の光の中に。
 笛と太鼓の音が、止んだ。
 突然の静寂。
 その中で——高木が、声を上げた。
 悲鳴、ではなかった。
 悲鳴よりも、もっと、内側から絞り出されるような音。

「——止まるな!!」
 遠くから、怒号が響いた。屋敷の方角から。使用人の声だった。
「笛を止めるな、太鼓を——!!」
 笛が、また、鳴り始めたが、音が乱れ不協和音を奏でる。
 太鼓の音が、戸惑いに揺れる。
 代わりに——高木の輪郭が、揺れた。

 服の上から見ても、分かった。
 皮膚が、盛り上がっていく。
 変わっていく。

 首筋から、鎖骨へ。露出した手の甲から、指先へ。
 色が、抜け、青みがかった灰色へと変貌する。

 そして——硬くなっていく。
 盛り上がり、層を重ね――甲羅のように。

「——ぁ」

 高木の口から、音が漏れた。
 自分の手を見ていた。
 変わっていく自分の手を、ただ、見ていた。
 黒目がちな瞳が、初めて、焦点を結んだ。
 人間の目で、見ていた。

「たす——」

 手が、伸び……そして、静かに躊躇いがちにその手はひっこめられた。

 視線が合えば、躊躇いが生まれた。

 私は振り返り、足が止まる。
 戸惑う心が戻りたいと叫ぶ。

「行くぞ!!」

 腕を引かれた。
 炎が、祭壇を飲み込んでいく。
 高木の手も、瞳も、もう私を求めておらず、追ってこない。
 触れ合うことなく——遠ざかっていく。



 混乱の中に、恋への未練……なのかもしれない。
 気になって仕方がない私は高木を振り返る。

 高木だったソレは私を見た。
 高木ではない存在の瞳と共に。
感想 4

あなたにおすすめの小説

心霊タクシーでおかえりなさい

黄鱗きいろ
ホラー
十八歳の少女、凪は、 心霊タクシーの噂を頼りに片田舎のロータリーを訪れる。 そこで出会った心霊タクシーの運転手に 凪は札束を突きつけて頼み込んだ。 「お願いします。このお金で、行けるところまで私を連れて行ってください! 両親を探してるんです!」 おっさん運転手と訳あり少女の 優しくて少し哀しい心霊譚。 ※他サイトにも掲載しています。

「お前のカメラ、ずっと映ってるよ」〜ホラースポット配信者が気づいた時には、もう遅かった〜

まさき
ホラー
ホラースポット専門のYouTuber・桐島悠は、霊も怪異も一切信じない合理主義者だ。 ある廃病院での配信中、今まで感じたことのない「違和感」を覚えた。しかし撮影は無事終了。その後も普通に配信を続け、あの夜のことなど忘れかけていた頃——深夜、金縛りにあう。 疲れてるだけだ。 しかし、それは始まりに過ぎなかった。 記憶の空白。知らない足跡。動画に毎回映り込む、同じ女の姿。そして——「やっと、見つけた」という声。 カメラが映し続けていたのは、心霊スポットではなかった。もっとずっと、近いところにいるものだった。

愛していました。待っていました。でもさようなら。

彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。 やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

私がみた夢の話を誰かきいてくれませんか?※これはあくまでフィクションです。

芝 稍重
ホラー
私は子供の頃から夢日記を書いています。 この話には続きがありますが、ここでは書きません。この話でピンときた人は、コメント欄で知らせてほしいです。 (※このあらすじは、本文にでてくる「夢日記」投稿当時のものを復刻した内容です) 表紙はぱくたそのフリー写真です

お二人共、どうぞお幸せに……もう二度と勘違いはしませんから

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【もう私は必要ありませんよね?】 私には2人の幼なじみがいる。一人は美しくて親切な伯爵令嬢。もう一人は笑顔が素敵で穏やかな伯爵令息。 その一方、私は貴族とは名ばかりのしがない男爵家出身だった。けれど2人は身分差に関係なく私に優しく接してくれるとても大切な存在であり、私は密かに彼に恋していた。 ある日のこと。病弱だった父が亡くなり、家を手放さなければならない 自体に陥る。幼い弟は父の知り合いに引き取られることになったが、私は住む場所を失ってしまう。 そんな矢先、幼なじみの彼に「一生、面倒をみてあげるから家においで」と声をかけられた。まるで夢のような誘いに、私は喜んで彼の元へ身を寄せることになったのだが―― ※ 他サイトでも投稿中   途中まで鬱展開続きます(注意)

老聖女の政略結婚

那珂田かな
ファンタジー
エルダリス前国王の長女として生まれ、半世紀ものあいだ「聖女」として太陽神ソレイユに仕えてきたセラ。 六十歳となり、ついに若き姪へと聖女の座を譲り、静かな余生を送るはずだった。 しかし式典後、甥である皇太子から持ち込まれたのは――二十歳の隣国王との政略結婚の話。 相手は内乱終結直後のカルディア王、エドモンド。王家の威信回復と政権安定のため、彼には強力な後ろ盾が必要だという。 子も産めない年齢の自分がなぜ王妃に? 迷いと不安、そして少しの笑いを胸に、セラは決断する。 穏やかな余生か、嵐の老後か―― 四十歳差の政略婚から始まる、波乱の日々が幕を開ける。

【奨励賞】初恋のその先で、私は母になる

妄夢【ピッコマノベルズ連載中】
恋愛
第19回恋愛小説大賞にて、奨励賞を受賞いたしました。読者の皆様のおかげです!本当ありがとうございます。 王宮で12年働き、気づけば28歳。 恋も結婚も遠いものだと思っていたオリビアの人生は、憧れの年下公爵と一夜を共にしたことで大きく動き出す。 優しく守ろうとする彼。 けれどオリビアは、誰かに選ばれるだけの人生を終わらせたいと思っていた。 揺れる想いの中で、彼女が選んだのは―― 自分の足で立ち、自分の未来を選ぶこと。 これは、一人の女性が恋を通して自分を取り戻し、母として、そして一人の人間として強くなっていく物語。 ※表紙画像はAI生成イラストをつかっています。

出来レースだった王太子妃選に落選した公爵令嬢 役立たずと言われ家を飛び出しました でもあれ? 意外に外の世界は快適です

流空サキ
恋愛
王太子妃に選ばれるのは公爵令嬢であるエステルのはずだった。結果のわかっている出来レースの王太子妃選。けれど結果はまさかの敗北。 父からは勘当され、エステルは家を飛び出した。頼ったのは屋敷を出入りする商人のクレト・ロエラだった。 無一文のエステルはクレトの勧めるままに彼の邸で暮らし始める。それまでほとんど外に出たことのなかったエステルが初めて目にする外の世界。クレトのもとで仕事をしながら過ごすうち、恩人だった彼のことが次第に気になりはじめて……。 純真な公爵令嬢と、ある秘密を持つ商人との恋愛譚。