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1章 潮
13.逃亡
突然現れた男に腕を引かれているのに、意識は背後の高木に残る。
高木が視線をそらしたからだ。
余裕がないことは分かっているけど、進めなかった。
「なぜ、逃げないといけないのよ!!わけわかんない!!」
「ぇ?」
私の言葉に、男が振り返る。
男は分かりやすく混乱し戸惑いながら私を見つめていた。 見つめられて、幾度も会った男の存在を思い出した。
吉野教授と一緒にいた男だ。
生活圏のあらゆるところで、幾度も視界に入った人だ。
「何なのよ!!あんたこそ、なんでこんなところにいるのよ!!」
「今それを聞くのかよ」
男がいら立った声を上げた。
高木だったものが——その横で、高木だったものが——喉の奥から泡を浮かせるみたいに、ぷくり、と笑った。
視線が、私に向く。
「行きなさい。君まで犠牲になる必要はない」
人の姿を失ったソレは、まるで高木本人のように優しい声で、促す。
「一緒に、そう約束したのに!!どうして行けって言うの!!」
「それは、歩との約束だ。私との約束ではないよ」
優しすぎる声に、息が詰まる。
姿は硬い甲殻めいた皮膚に覆われた姿だけれど、話し方も声も高木のもので、私の気持ちを引っ張っていく。
男が強引に腕を掴んだ。
「逃げるぞ!!」
「やだ!!」
カニの足が、手が、その影が私に伸びる。
乱暴に、素早く、それでも私を引き寄せ回避する男の動きを予測しているようにすら見えた。
だって、視線が優しいから。
優しい水音が聞こえる。
薄い膜で作られた泡が月光を歪ませ、反射する。
男は唖然と立ち止まっていたが、私の拒絶に負けないほどの声で言う。
「行きなさい」
高木は人ではない姿を晒しながら、良く知っている優しい声で私に去るようにと促した。泣いているかのようで……どうして高木ではないと言えるのだろう。それが私を混乱させている。
「……その男は信じていい。馬鹿な奴だが……信用できる奴だから、行きなさい」
人とは違う目がそっと伏せられ、それがスタートの合図のように私は走り出した。
笛や太鼓を奏でていた者とは違う人達が、ライトという無粋な明かりと共に近づいているのが分かった。
「捕まえろ!!」
太鼓を打ち鳴らしながら、使用人として紹介された男が叫んでいた。でも、戸惑っている。
「なぜ、なぜ、再生の儀式を始めないのですか!!」
裂けたような悲鳴交じりの叫びを背に私は走る。
足が、地面を叩く。
石が刺さる。木の根が引っかかる。湿った土が滑る。
それでも走った。
走りながら、振り返った。
炎が、お社を舐めていく。
その前に——ソレが、立ち、私を見送る。
高木の輪郭をした、高木ではないもの。
黒目がちな瞳が、私を捉えていた。
ただ、見ていた。
そして——笑っていた。
月明かりの中で、静かに。
怖く、ない
走りながら、その事実だけが引っかかった。
あれだけ異形で、あれだけ人ではなくて——なのに、怖くない。
なぜ。
なぜ、怖くないんだろう。
「早く!人が集まってきているんだぞ!」
腕を引かれる。立ち上がろうとして——足が、言うことを聞かなかった。
足が上手く動かなかった、身体のバランスが崩れた、そして足が土の上をすべる。
「——っ」
靴を履いていないことに気付けば、急に痛みを感じた。
「急げ!!止まるな!人が追ってきている」
男は言う。
視線と視線が合えば、いらだった様子で男は私を抱き上げ、男は速度をあげる。
木々が、流れていく。
背後で笛と太鼓の音が乱れ始める。不協和音が、山を這う。
「笛を止めるな!!」
「太鼓を止めるな!あの娘は別動隊に——!」
その声に、別の方向から現れた人達が反応していた。
「捕まえろ!!贄が逃げたぞ!!儀式を崩壊させるな!!」
戸惑いと怒鳴り声が遠くから聞こえる。
木々の隙間から池が見えた。
水面が揺れ、月の光が粉々に砕けて蠢く。
その中に、青白い輪郭が立っている。
——人の形じゃないのに、高木だと分かった。
「笛と太鼓を止めろ!!」
次の瞬間、音が消えた。
耳が、痛い。
静寂が、山を満たした。
光が、揺らいだ。
高木だったものが、ゆっくりと——水面へ、傾いていく。
砕けた月を、飲み込むように。
巨大な波紋を広げながら、池は静かになった。
騒ぎ立てる人の声とは別に、池は何処までも静かだった。
「落ちたぞ」
誰かが叫ぶ前に、白い袖が水際へ進んだ。濡れるのを厭わず、柄の長い道具を差し入れる。泡が、ぶくり、と一つ。引き上げられた甲羅は冷たい。硬い。生き物の重さだけがあり、意識の置き場がない。
「……繋がっていない」
静かな声が落ちた瞬間、周囲の空気が変わった。
「そんなはずがない。笛は——」
「鳴っている。だが“届いていない”」
誰かが息を呑み、別の誰かが焦りを隠しきれずに声を荒げる。
「これからどうするんだ……あの家の薬は?」
「金は、金は続くのか?!」
祈りの言葉は、いつの間にか勘定にすり替わっていた。
甲羅の縁から、水が滴る。
滴が落ちるたび、誰かの喉が鳴った。
欲と恐怖が、同じ音を立てていた。
高木が視線をそらしたからだ。
余裕がないことは分かっているけど、進めなかった。
「なぜ、逃げないといけないのよ!!わけわかんない!!」
「ぇ?」
私の言葉に、男が振り返る。
男は分かりやすく混乱し戸惑いながら私を見つめていた。 見つめられて、幾度も会った男の存在を思い出した。
吉野教授と一緒にいた男だ。
生活圏のあらゆるところで、幾度も視界に入った人だ。
「何なのよ!!あんたこそ、なんでこんなところにいるのよ!!」
「今それを聞くのかよ」
男がいら立った声を上げた。
高木だったものが——その横で、高木だったものが——喉の奥から泡を浮かせるみたいに、ぷくり、と笑った。
視線が、私に向く。
「行きなさい。君まで犠牲になる必要はない」
人の姿を失ったソレは、まるで高木本人のように優しい声で、促す。
「一緒に、そう約束したのに!!どうして行けって言うの!!」
「それは、歩との約束だ。私との約束ではないよ」
優しすぎる声に、息が詰まる。
姿は硬い甲殻めいた皮膚に覆われた姿だけれど、話し方も声も高木のもので、私の気持ちを引っ張っていく。
男が強引に腕を掴んだ。
「逃げるぞ!!」
「やだ!!」
カニの足が、手が、その影が私に伸びる。
乱暴に、素早く、それでも私を引き寄せ回避する男の動きを予測しているようにすら見えた。
だって、視線が優しいから。
優しい水音が聞こえる。
薄い膜で作られた泡が月光を歪ませ、反射する。
男は唖然と立ち止まっていたが、私の拒絶に負けないほどの声で言う。
「行きなさい」
高木は人ではない姿を晒しながら、良く知っている優しい声で私に去るようにと促した。泣いているかのようで……どうして高木ではないと言えるのだろう。それが私を混乱させている。
「……その男は信じていい。馬鹿な奴だが……信用できる奴だから、行きなさい」
人とは違う目がそっと伏せられ、それがスタートの合図のように私は走り出した。
笛や太鼓を奏でていた者とは違う人達が、ライトという無粋な明かりと共に近づいているのが分かった。
「捕まえろ!!」
太鼓を打ち鳴らしながら、使用人として紹介された男が叫んでいた。でも、戸惑っている。
「なぜ、なぜ、再生の儀式を始めないのですか!!」
裂けたような悲鳴交じりの叫びを背に私は走る。
足が、地面を叩く。
石が刺さる。木の根が引っかかる。湿った土が滑る。
それでも走った。
走りながら、振り返った。
炎が、お社を舐めていく。
その前に——ソレが、立ち、私を見送る。
高木の輪郭をした、高木ではないもの。
黒目がちな瞳が、私を捉えていた。
ただ、見ていた。
そして——笑っていた。
月明かりの中で、静かに。
怖く、ない
走りながら、その事実だけが引っかかった。
あれだけ異形で、あれだけ人ではなくて——なのに、怖くない。
なぜ。
なぜ、怖くないんだろう。
「早く!人が集まってきているんだぞ!」
腕を引かれる。立ち上がろうとして——足が、言うことを聞かなかった。
足が上手く動かなかった、身体のバランスが崩れた、そして足が土の上をすべる。
「——っ」
靴を履いていないことに気付けば、急に痛みを感じた。
「急げ!!止まるな!人が追ってきている」
男は言う。
視線と視線が合えば、いらだった様子で男は私を抱き上げ、男は速度をあげる。
木々が、流れていく。
背後で笛と太鼓の音が乱れ始める。不協和音が、山を這う。
「笛を止めるな!!」
「太鼓を止めるな!あの娘は別動隊に——!」
その声に、別の方向から現れた人達が反応していた。
「捕まえろ!!贄が逃げたぞ!!儀式を崩壊させるな!!」
戸惑いと怒鳴り声が遠くから聞こえる。
木々の隙間から池が見えた。
水面が揺れ、月の光が粉々に砕けて蠢く。
その中に、青白い輪郭が立っている。
——人の形じゃないのに、高木だと分かった。
「笛と太鼓を止めろ!!」
次の瞬間、音が消えた。
耳が、痛い。
静寂が、山を満たした。
光が、揺らいだ。
高木だったものが、ゆっくりと——水面へ、傾いていく。
砕けた月を、飲み込むように。
巨大な波紋を広げながら、池は静かになった。
騒ぎ立てる人の声とは別に、池は何処までも静かだった。
「落ちたぞ」
誰かが叫ぶ前に、白い袖が水際へ進んだ。濡れるのを厭わず、柄の長い道具を差し入れる。泡が、ぶくり、と一つ。引き上げられた甲羅は冷たい。硬い。生き物の重さだけがあり、意識の置き場がない。
「……繋がっていない」
静かな声が落ちた瞬間、周囲の空気が変わった。
「そんなはずがない。笛は——」
「鳴っている。だが“届いていない”」
誰かが息を呑み、別の誰かが焦りを隠しきれずに声を荒げる。
「これからどうするんだ……あの家の薬は?」
「金は、金は続くのか?!」
祈りの言葉は、いつの間にか勘定にすり替わっていた。
甲羅の縁から、水が滴る。
滴が落ちるたび、誰かの喉が鳴った。
欲と恐怖が、同じ音を立てていた。
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