境界の音

迷い人

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1章 潮

14.一族

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 特別な場とされる地。

 笛と太鼓が途切れた瞬間、山の音が変わった。
 儀式は閉ざされた。神秘的な存在を呼び出し、固定するための音が、届かなくなったから。

 水の中から引き上げられた高木の身体は重く、冷たく、甲殻から落ちる水滴が、やけに大きく響いて池に帰っていく。

 誰もが高木の存在から視線をそらしながら、感情をぶつけ合う。

 不安に怒鳴り合う。
 震えだす。
 問いただす。

「静まりなさい!!」

 苛立ちに声を上げたのは高乃で、場を無視しノイズとなっている人間の声が消えたが、一瞬のことに過ぎない。

「どうなっているんだ」
「どうするつもりなんだ」
「なんで、あんな娘を受け入れた」

 声がぶつかり合う。
 誰もが引き上げられた“それ”を見ていない。見たくない。見ない方がいいと考える。

 だが、高乃は違った。濡れた甲殻をタオルで拭い、低く唸るように声を絞り出す。

「……彼女は、おカニ様がお選びになった相手です。私達におカニ様の妻を――母となるものを選ぶ権利など、ありません」

 決して大きくはない声だが重さがあった。
 声を荒げるよりも余程効果があるらしい。

 タオルが擦れる音だけが、静かに続く。
 そして……小さな秋の虫のような人の声が、ヒソヒソと続けていたが――虫の声にもならない雑音。

 高乃の生まれた家は、長くおカニ様と呼ばれる存在の恩恵を受けていた。今も健在な祖父母の代にも飢えた事は無かった。

 恵まれていると誰もが言うだろう。

 だけど学があった高乃には金と地位は保証されたが、未来を選ぶ自由は与えられなかった。

 高乃は甲羅を拭う。

 幼い頃から見てきた――人としての高木歩を思い出し拭う。

 年を取らない優しい青年。

 幼い初恋の相手だった。

 だけれど、高校に入る頃には、彼が高乃自身の自由を奪う象徴だと気付いた。
 好意と嫌悪の間で、声にならない音が胸の中で鳴らしながら、当主家に仕えていた。

 今は?
 今は、どんな感情なのか理解できない。

 目の前の“それ”は何?

 人か?
 神か?

 どうでもいい、ただ、今は哀れだという思いが胸を占めていた。

 高乃の声は、一瞬の静けさを生んだが、長くは続かなかった。
 背後では、再び金と、薬と、契約と、事業の話が繰り広げられる。

 もう高乃は振り返らなかった。

「屋敷へ戻してください」

 年の近い分家の者へ命じた。
 甲殻を運ぶ足音が、砂利を踏みしめる。



 もう、彼の名を呼ぶ者はいなかった。



 人々の去った後の池はきっと静かだろう。
 責任を負う地位にある者達が、屋敷の中で罵り合っていた。

「どういうことだ!!儀式が完遂されなければ、契約はどうなる!」
「そんなことより坊ちゃまは!坊ちゃまはどうなったんだ!!」
「黙れ、今はそれどころではない——今年の収益はどうなる、薬の在庫は!」

 声が、重なる。
 廊下を行き交う足音が乱れ、誰も誰かの話を聞いていない。

「あの娘を取り返せ!贄さえ揃えば——」
「揃えてどうする!肝心の坊ちゃまがあのような——」
「何、娘の方さえ取り押さえて、逃げないようにしておけばいい——」
「このままでは全てを失う、できることは全てやるんだ」

 怒鳴り声が、廊下の奥まで響いた。
 しばらくして、声のトーンが変わった。
 怒りではなく——計算の声に。

「……損失の試算を出せ」
「系列の取引先には、なんと説明する」
「契約破棄の際の保証はどうなる?」

「もう終わりだ……」

 誰かが言った。
 誰かが息を呑んだ。

「縁起でもない」
「縁起より明日どうすればいいかだ、何も、何も思い浮かばない!!」
「誰か考えを示せ!!」

 祈りの言葉は欠片も残っていない。
 表面上の敬意などあろうはずもない。
 残ったのは、数字と、保身と、誰かに押し付けたい責任だけ。

「娘を縛っておかなかったのは誰だ」
「儀式の段取りをしたのはお前だろう」
「私は言われた通りにしただけだ!」

 声が、また重なる。
 重なって、濁って、誰の言葉も意味を持たなくなっていく。
 その喧噪の端に——



 一室だけ、静かな場所があった。
 月明かりの中。
 深緑のベルベットに包まれた椅子の上で、老婆は目を閉じていた。
 騒ぎは聞こえている。
 全部、聞こえている。
 それでも老婆は動かなかった。
 細い唇が、わずかに動いた。

「えぇ、えぇ……良い、人生でした」

 誰に向けた言葉でもなかった。
 月だけが、それを聞いた。
 廊下の怒鳴り声は続いている。
 老婆の呼吸は、静かに、穏やかに、続いていた。
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