15 / 16
1章 潮
15.男
しおりを挟む
開かれた公園。
灯りは落とされ、人の気配が消えていた。
それでも、喧噪は追ってくる。
抱き上げられたまま、思考は止まっていた。
それでも、高木のいた方向だけを見続けていた。
男は私を運ぶ事だけに集中していた。
「……重い」
ボソリとした一言が、視線を男へと向けて耳を引っ張った。
「なっにを!」
「声上げないでよ。見つかるでしょ」
「おっ!!まえが……」
むすっとしながら男は走っていた。
悪いとは思っている、でも、何も考えられず――混乱が悲しみを飲み込み、それでも、涙だけが流れていた。
私達を探す声とは別に、木々の隙間と光の死角を抜ける。
喧噪から切り離された、薄い膜の内側を進んでいるようだった。
木々の隙間と、光の死角を抜ける。
喧噪から切り離された、薄い膜の内側を進んでいるようだった。
懐中電灯の光が、遠くで揺れては、男の足取りに合わせて別の方向へ流れていく。
追っ手の光は動き、そして別れ、報告と言う名の叫びが聞こえた。
分かりやすい追手の位置報告に男は息を静かに吐いて笑うが、私は一緒に笑う気になどなれるわけがなく、男の肩越しに、ずっと後ろを見ていた。
池が、遠くなっていく。
視界の端で、光が揺れ、人の影が動いて——でも、もう高木の輪郭が記憶から揺れていた。
ノイズのように揺らぎながら、それでも優しい声だけが残っていた。
それが、なぜか——分からない。
何が分からないのかも、分からない。
ただ、胸の奥に重いものが沈んでいく感覚だけがあった。
追われている。
分かっている。
怖いはずなのに、恐怖だけが追いついてこない。
男の腕が、強くなった。
重心がずれていたから、だと思う。
「……っ」
声を出しかけて、飲み込んだ。
男は何も言わなかった。
ただ、強く、抱き直した。
木々が途切れた。
アスファルトの匂いがした。
遠く、低い機械の音が、夜に溶けていた。
工場の灯りが、オレンジ色に滲み、作り出す影の中に一台の車があった。車の前で、ようやく地面におろされた。
男は溜息と共に皮肉そうに私を見る。
「……落とさなかった俺に感謝しろよ」
私は何も言わなかった。
男は舌打ちをして、車のドアを開ける。
「そのまま乗るな」
睨まれて、ようやく自分の足を見た。
泥と血で汚れている。
「車汚す気かよ」
文句を言いながら、男はポケットからハンカチを出した。
しゃがみ込む。
「ちょ、いいって」
「うるせぇ」
小石を払う。
擦り傷を確かめる。
指先が、思ったより優しい。
「……泣いてんじゃねぇよ、ばーか」
男は顔を上げないまま、ぼそりと言う。
「泣いてないわ……」
私の頬に触れた夜風が、冷たかった。
エンジンの音だけが、車内を満たしていく。
夜道が、窓の外を流れていくのを私は無言で見ていた。
そして、時折、後ろを——後ろを振り返る。
もう何も見えない。
それでも、見ていた。
男は何も言わない。
しばらくして、男の側の窓が少し開いた。
夜の空気が、細く入ってくる。
煙草を取り出す音がした。
「……見んなって言っただろ」
低い声だった。
「別にアンタを見てない!自意識過剰じゃないの!」
「騒ぐな耳が痛い。それと、自意識過剰はお前だ、俺が見るなって言ったのは後ろ」
口を開き、言葉にするまでわずかだが時間が必要だった。
「見てない」
嘘だった。
男は何も言わなかった。
カチ、とライターの音と共に煙草に火がつく。
煙が、細く立ち上る。
窓から、夜に溶けていく。
その煙を目で追ったとき——何かが、切り替わった気がした。
「……あれ、忘れろ」
男はぽつり、と言った。
私は少し間を置いた。
「あんた、何者?」
男は煙草を口に挟んだまま、前を向いていた。
「厄介事の匂いは金になる」
煙を、ゆっくり吐く。
「ついでに人助け」
「嘘だ」
男は喉の奥で笑うから、真実が見えない。
「……賢いな」
否定しなかった。それすら、嘘に聞こえた。
信号が赤になった。
車は止まる。
夜は静かに落ちていた。
男はタバコを口にくわえ短く吸って、内ポケットに手を入れた。
名刺が、差し出された。
受け取る。
街灯の光で、文字を読んだ。
〇〇大学 文学部 民俗学・文化人類学コース
助教授 三宮 玲
私は無言で表情を歪め、まじまじと男を見た。
「そんなにいい男か?」
「ふざけないでよね……、助教授?」
顔を上げ、男をまじまじと見る。
煙草の煙。無精髭。乱れた髪。
「なんだよ」
前を向いたまま、男は言った。
疑いは消えない。
それでも思考は、確かに現実へと引き戻されていた。
安心感のような何かが、胸の奥に生まれる。
風の匂い。煙草の匂い。エンジンの振動。
近い。
不意に——別の映像が浮かんだ。
静かな会議室。整ったスーツ。
穏やかで、ゆっくりとした言葉。
同じ“大人”なのに。
(高木さんは、ちゃんとした人だった)
煙草の煙が、細く流れた。
灯りは落とされ、人の気配が消えていた。
それでも、喧噪は追ってくる。
抱き上げられたまま、思考は止まっていた。
それでも、高木のいた方向だけを見続けていた。
男は私を運ぶ事だけに集中していた。
「……重い」
ボソリとした一言が、視線を男へと向けて耳を引っ張った。
「なっにを!」
「声上げないでよ。見つかるでしょ」
「おっ!!まえが……」
むすっとしながら男は走っていた。
悪いとは思っている、でも、何も考えられず――混乱が悲しみを飲み込み、それでも、涙だけが流れていた。
私達を探す声とは別に、木々の隙間と光の死角を抜ける。
喧噪から切り離された、薄い膜の内側を進んでいるようだった。
木々の隙間と、光の死角を抜ける。
喧噪から切り離された、薄い膜の内側を進んでいるようだった。
懐中電灯の光が、遠くで揺れては、男の足取りに合わせて別の方向へ流れていく。
追っ手の光は動き、そして別れ、報告と言う名の叫びが聞こえた。
分かりやすい追手の位置報告に男は息を静かに吐いて笑うが、私は一緒に笑う気になどなれるわけがなく、男の肩越しに、ずっと後ろを見ていた。
池が、遠くなっていく。
視界の端で、光が揺れ、人の影が動いて——でも、もう高木の輪郭が記憶から揺れていた。
ノイズのように揺らぎながら、それでも優しい声だけが残っていた。
それが、なぜか——分からない。
何が分からないのかも、分からない。
ただ、胸の奥に重いものが沈んでいく感覚だけがあった。
追われている。
分かっている。
怖いはずなのに、恐怖だけが追いついてこない。
男の腕が、強くなった。
重心がずれていたから、だと思う。
「……っ」
声を出しかけて、飲み込んだ。
男は何も言わなかった。
ただ、強く、抱き直した。
木々が途切れた。
アスファルトの匂いがした。
遠く、低い機械の音が、夜に溶けていた。
工場の灯りが、オレンジ色に滲み、作り出す影の中に一台の車があった。車の前で、ようやく地面におろされた。
男は溜息と共に皮肉そうに私を見る。
「……落とさなかった俺に感謝しろよ」
私は何も言わなかった。
男は舌打ちをして、車のドアを開ける。
「そのまま乗るな」
睨まれて、ようやく自分の足を見た。
泥と血で汚れている。
「車汚す気かよ」
文句を言いながら、男はポケットからハンカチを出した。
しゃがみ込む。
「ちょ、いいって」
「うるせぇ」
小石を払う。
擦り傷を確かめる。
指先が、思ったより優しい。
「……泣いてんじゃねぇよ、ばーか」
男は顔を上げないまま、ぼそりと言う。
「泣いてないわ……」
私の頬に触れた夜風が、冷たかった。
エンジンの音だけが、車内を満たしていく。
夜道が、窓の外を流れていくのを私は無言で見ていた。
そして、時折、後ろを——後ろを振り返る。
もう何も見えない。
それでも、見ていた。
男は何も言わない。
しばらくして、男の側の窓が少し開いた。
夜の空気が、細く入ってくる。
煙草を取り出す音がした。
「……見んなって言っただろ」
低い声だった。
「別にアンタを見てない!自意識過剰じゃないの!」
「騒ぐな耳が痛い。それと、自意識過剰はお前だ、俺が見るなって言ったのは後ろ」
口を開き、言葉にするまでわずかだが時間が必要だった。
「見てない」
嘘だった。
男は何も言わなかった。
カチ、とライターの音と共に煙草に火がつく。
煙が、細く立ち上る。
窓から、夜に溶けていく。
その煙を目で追ったとき——何かが、切り替わった気がした。
「……あれ、忘れろ」
男はぽつり、と言った。
私は少し間を置いた。
「あんた、何者?」
男は煙草を口に挟んだまま、前を向いていた。
「厄介事の匂いは金になる」
煙を、ゆっくり吐く。
「ついでに人助け」
「嘘だ」
男は喉の奥で笑うから、真実が見えない。
「……賢いな」
否定しなかった。それすら、嘘に聞こえた。
信号が赤になった。
車は止まる。
夜は静かに落ちていた。
男はタバコを口にくわえ短く吸って、内ポケットに手を入れた。
名刺が、差し出された。
受け取る。
街灯の光で、文字を読んだ。
〇〇大学 文学部 民俗学・文化人類学コース
助教授 三宮 玲
私は無言で表情を歪め、まじまじと男を見た。
「そんなにいい男か?」
「ふざけないでよね……、助教授?」
顔を上げ、男をまじまじと見る。
煙草の煙。無精髭。乱れた髪。
「なんだよ」
前を向いたまま、男は言った。
疑いは消えない。
それでも思考は、確かに現実へと引き戻されていた。
安心感のような何かが、胸の奥に生まれる。
風の匂い。煙草の匂い。エンジンの振動。
近い。
不意に——別の映像が浮かんだ。
静かな会議室。整ったスーツ。
穏やかで、ゆっくりとした言葉。
同じ“大人”なのに。
(高木さんは、ちゃんとした人だった)
煙草の煙が、細く流れた。
1
あなたにおすすめの小説
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。
石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。
自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。
そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。
好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。
この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
【3月中ーー完結!!】
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。
二十年の裏切りの果て、その事実だけを抱え、離縁状を置いて家を出た。
そこで待っていたのは、凍てつく絶望――。
けれど同時に、それは残酷な運命の扉がひらく瞬間でもあった。
夫は愛人と共に好きに生きればいい。
今さら「本当に愛していたのは君だ」と縋られても、
死の淵を彷徨った私には、裏切ったあなたを許す力など残っていない。
「でも、子供たちの心だけは、
必ず取り戻す」
妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。
過去を悔い、歪な愛でもいいと手を伸ばした彼女が辿り着いた先。
それは、「歪で、完全な幸福」か、それとも――。
これは、"石"に翻弄された者たちの、狂おしい物語。
【完結】ある二人の皇女
つくも茄子
ファンタジー
美しき姉妹の皇女がいた。
姉は物静か淑やかな美女、妹は勝気で闊達な美女。
成長した二人は同じ夫・皇太子に嫁ぐ。
最初に嫁いだ姉であったが、皇后になったのは妹。
何故か?
それは夫が皇帝に即位する前に姉が亡くなったからである。
皇后には息子が一人いた。
ライバルは亡き姉の忘れ形見の皇子。
不穏な空気が漂う中で謀反が起こる。
我が子に隠された秘密を皇后が知るのは全てが終わった時であった。
他のサイトにも公開中。
番が1人なんて…誰が決めたの?
月樹《つき》
恋愛
私達、鳥族では大抵一夫一妻で生涯を通して同じ伴侶と協力し、子育てをしてその生涯を終える。
雌はより優秀な遺伝子を持つ雄を伴侶とし、優秀な子を育てる。社交的で美しい夫と、家庭的で慎ましい妻。
夫はその美しい羽を見せびらかし、うっとりするような美声で社交界を飛び回る。
夫は『心配しないで…僕達は唯一無二の番だよ?』と言うけれど…
このお話は小説家になろう様でも掲載しております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる