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1章 潮
15.男
開かれた公園。
灯りは落とされ、人の気配が消えていた。
それでも、喧噪は追ってくる。
抱き上げられたまま、思考は止まっていた。
それでも、高木のいた方向だけを見続けていた。
男は私を運ぶ事だけに集中していた。
「……重い」
ボソリとした一言が、視線を男へと向けて耳を引っ張った。
「なっにを!」
「声上げないでよ。見つかるでしょ」
「おっ!!まえが……」
むすっとしながら男は走っていた。
悪いとは思っている、でも、何も考えられず――混乱が悲しみを飲み込み、それでも、涙だけが流れていた。
私達を探す声とは別に、木々の隙間と光の死角を抜ける。
喧噪から切り離された、薄い膜の内側を進んでいるようだった。
木々の隙間と、光の死角を抜ける。
喧噪から切り離された、薄い膜の内側を進んでいるようだった。
懐中電灯の光が、遠くで揺れては、男の足取りに合わせて別の方向へ流れていく。
追っ手の光は動き、そして別れ、報告と言う名の叫びが聞こえた。
分かりやすい追手の位置報告に男は息を静かに吐いて笑うが、私は一緒に笑う気になどなれるわけがなく、男の肩越しに、ずっと後ろを見ていた。
池が、遠くなっていく。
視界の端で、光が揺れ、人の影が動いて——でも、もう高木の輪郭が記憶から揺れていた。
ノイズのように揺らぎながら、それでも優しい声だけが残っていた。
それが、なぜか——分からない。
何が分からないのかも、分からない。
ただ、胸の奥に重いものが沈んでいく感覚だけがあった。
追われている。
分かっている。
怖いはずなのに、恐怖だけが追いついてこない。
男の腕が、強くなった。
重心がずれていたから、だと思う。
「……っ」
声を出しかけて、飲み込んだ。
男は何も言わなかった。
ただ、強く、抱き直した。
木々が途切れた。
アスファルトの匂いがした。
遠く、低い機械の音が、夜に溶けていた。
工場の灯りが、オレンジ色に滲み、作り出す影の中に一台の車があった。車の前で、ようやく地面におろされた。
男は溜息と共に皮肉そうに私を見る。
「……落とさなかった俺に感謝しろよ」
私は何も言わなかった。
男は舌打ちをして、車のドアを開ける。
「そのまま乗るな」
睨まれて、ようやく自分の足を見た。
泥と血で汚れている。
「車汚す気かよ」
文句を言いながら、男はポケットからハンカチを出した。
しゃがみ込む。
「ちょ、いいって」
「うるせぇ」
小石を払う。
擦り傷を確かめる。
指先が、思ったより優しい。
「……泣いてんじゃねぇよ、ばーか」
男は顔を上げないまま、ぼそりと言う。
「泣いてないわ……」
私の頬に触れた夜風が、冷たかった。
エンジンの音だけが、車内を満たしていく。
夜道が、窓の外を流れていくのを私は無言で見ていた。
そして、時折、後ろを——後ろを振り返る。
もう何も見えない。
それでも、見ていた。
男は何も言わない。
しばらくして、男の側の窓が少し開いた。
夜の空気が、細く入ってくる。
煙草を取り出す音がした。
「……見んなって言っただろ」
低い声だった。
「別にアンタを見てない!自意識過剰じゃないの!」
「騒ぐな耳が痛い。それと、自意識過剰はお前だ、俺が見るなって言ったのは後ろ」
口を開き、言葉にするまでわずかだが時間が必要だった。
「見てない」
嘘だった。
男は何も言わなかった。
カチ、とライターの音と共に煙草に火がつく。
煙が、細く立ち上る。
窓から、夜に溶けていく。
その煙を目で追ったとき——何かが、切り替わった気がした。
「……あれ、忘れろ」
男はぽつり、と言った。
私は少し間を置いた。
「あんた、何者?」
男は煙草を口に挟んだまま、前を向いていた。
「厄介事の匂いは金になる」
煙を、ゆっくり吐く。
「ついでに人助け」
「嘘だ」
男は喉の奥で笑うから、真実が見えない。
「……賢いな」
否定しなかった。それすら、嘘に聞こえた。
信号が赤になった。
車は止まる。
夜は静かに落ちていた。
男はタバコを口にくわえ短く吸って、内ポケットに手を入れた。
名刺が、差し出された。
受け取る。
街灯の光で、文字を読んだ。
〇〇大学 文学部 民俗学・文化人類学コース
助教授 三宮 玲
私は無言で表情を歪め、まじまじと男を見た。
「そんなにいい男か?」
「ふざけないでよね……、助教授?」
顔を上げ、男をまじまじと見る。
煙草の煙。無精髭。乱れた髪。
「なんだよ」
前を向いたまま、男は言った。
疑いは消えない。
それでも思考は、確かに現実へと引き戻されていた。
安心感のような何かが、胸の奥に生まれる。
風の匂い。煙草の匂い。エンジンの振動。
近い。
不意に——別の映像が浮かんだ。
静かな会議室。整ったスーツ。
穏やかで、ゆっくりとした言葉。
同じ“大人”なのに。
(高木さんは、ちゃんとした人だった)
煙草の煙が、細く流れた。
灯りは落とされ、人の気配が消えていた。
それでも、喧噪は追ってくる。
抱き上げられたまま、思考は止まっていた。
それでも、高木のいた方向だけを見続けていた。
男は私を運ぶ事だけに集中していた。
「……重い」
ボソリとした一言が、視線を男へと向けて耳を引っ張った。
「なっにを!」
「声上げないでよ。見つかるでしょ」
「おっ!!まえが……」
むすっとしながら男は走っていた。
悪いとは思っている、でも、何も考えられず――混乱が悲しみを飲み込み、それでも、涙だけが流れていた。
私達を探す声とは別に、木々の隙間と光の死角を抜ける。
喧噪から切り離された、薄い膜の内側を進んでいるようだった。
木々の隙間と、光の死角を抜ける。
喧噪から切り離された、薄い膜の内側を進んでいるようだった。
懐中電灯の光が、遠くで揺れては、男の足取りに合わせて別の方向へ流れていく。
追っ手の光は動き、そして別れ、報告と言う名の叫びが聞こえた。
分かりやすい追手の位置報告に男は息を静かに吐いて笑うが、私は一緒に笑う気になどなれるわけがなく、男の肩越しに、ずっと後ろを見ていた。
池が、遠くなっていく。
視界の端で、光が揺れ、人の影が動いて——でも、もう高木の輪郭が記憶から揺れていた。
ノイズのように揺らぎながら、それでも優しい声だけが残っていた。
それが、なぜか——分からない。
何が分からないのかも、分からない。
ただ、胸の奥に重いものが沈んでいく感覚だけがあった。
追われている。
分かっている。
怖いはずなのに、恐怖だけが追いついてこない。
男の腕が、強くなった。
重心がずれていたから、だと思う。
「……っ」
声を出しかけて、飲み込んだ。
男は何も言わなかった。
ただ、強く、抱き直した。
木々が途切れた。
アスファルトの匂いがした。
遠く、低い機械の音が、夜に溶けていた。
工場の灯りが、オレンジ色に滲み、作り出す影の中に一台の車があった。車の前で、ようやく地面におろされた。
男は溜息と共に皮肉そうに私を見る。
「……落とさなかった俺に感謝しろよ」
私は何も言わなかった。
男は舌打ちをして、車のドアを開ける。
「そのまま乗るな」
睨まれて、ようやく自分の足を見た。
泥と血で汚れている。
「車汚す気かよ」
文句を言いながら、男はポケットからハンカチを出した。
しゃがみ込む。
「ちょ、いいって」
「うるせぇ」
小石を払う。
擦り傷を確かめる。
指先が、思ったより優しい。
「……泣いてんじゃねぇよ、ばーか」
男は顔を上げないまま、ぼそりと言う。
「泣いてないわ……」
私の頬に触れた夜風が、冷たかった。
エンジンの音だけが、車内を満たしていく。
夜道が、窓の外を流れていくのを私は無言で見ていた。
そして、時折、後ろを——後ろを振り返る。
もう何も見えない。
それでも、見ていた。
男は何も言わない。
しばらくして、男の側の窓が少し開いた。
夜の空気が、細く入ってくる。
煙草を取り出す音がした。
「……見んなって言っただろ」
低い声だった。
「別にアンタを見てない!自意識過剰じゃないの!」
「騒ぐな耳が痛い。それと、自意識過剰はお前だ、俺が見るなって言ったのは後ろ」
口を開き、言葉にするまでわずかだが時間が必要だった。
「見てない」
嘘だった。
男は何も言わなかった。
カチ、とライターの音と共に煙草に火がつく。
煙が、細く立ち上る。
窓から、夜に溶けていく。
その煙を目で追ったとき——何かが、切り替わった気がした。
「……あれ、忘れろ」
男はぽつり、と言った。
私は少し間を置いた。
「あんた、何者?」
男は煙草を口に挟んだまま、前を向いていた。
「厄介事の匂いは金になる」
煙を、ゆっくり吐く。
「ついでに人助け」
「嘘だ」
男は喉の奥で笑うから、真実が見えない。
「……賢いな」
否定しなかった。それすら、嘘に聞こえた。
信号が赤になった。
車は止まる。
夜は静かに落ちていた。
男はタバコを口にくわえ短く吸って、内ポケットに手を入れた。
名刺が、差し出された。
受け取る。
街灯の光で、文字を読んだ。
〇〇大学 文学部 民俗学・文化人類学コース
助教授 三宮 玲
私は無言で表情を歪め、まじまじと男を見た。
「そんなにいい男か?」
「ふざけないでよね……、助教授?」
顔を上げ、男をまじまじと見る。
煙草の煙。無精髭。乱れた髪。
「なんだよ」
前を向いたまま、男は言った。
疑いは消えない。
それでも思考は、確かに現実へと引き戻されていた。
安心感のような何かが、胸の奥に生まれる。
風の匂い。煙草の匂い。エンジンの振動。
近い。
不意に——別の映像が浮かんだ。
静かな会議室。整ったスーツ。
穏やかで、ゆっくりとした言葉。
同じ“大人”なのに。
(高木さんは、ちゃんとした人だった)
煙草の煙が、細く流れた。
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