境界の音

迷い人

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1章 潮

16.安心の証明

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 夜の国道では車のライトがアスファルトを白く裂いて行く。

 眩しい。

 車の走る音はあるけれど、それは無音と似ている。
 心の中だけが奇妙にざわめき落ち着かない。
 叫んで泣きだしたくなるのを我慢していた。

 真樹は助手席で、シートベルトを握ったまま動かない。指先には力が入り過ぎて、爪の先が白い。

 赤信号。

 三宮は前を見たまま真樹を見ることはなかった。

 泣かない私。
 何も言わない三宮。

 山の匂いが遠ざかり、代わりに、乾いた排気の匂いと、夜の冷気が入り混じる。

 一定の音を奏でるエンジン音。

 真樹は大きく息を吐く。
 自分の心と折り合うための呼吸。

 真樹は一度だけ、運転中の三宮を横目で見た。
 横顔は無表情、疲れているだろうけど顔に出していない。無言だけど怒っているようには見えない。何もわからない人。

 分かるのは――

 手に持った名刺の感触を確かめた。
 派手さはなく、シンプルなデザインだが、紙の質は良いと思う。

「先生って、先生だよって名刺なんて持っているものなの?」

 もう一度名刺に書かれた名前を見直し、三宮の顔と交互に眺めてみる。三宮といえば視線を気にしているようには思えないが、ゆっくりとした動作で煙草を一息分吸いながら、喉の奥で三宮は笑っていた。

「どうだろうな。でも、まぁ、便利だぞ」

「偽物じゃないの?松沢教授から助教授のことなんて聞いた事無いんだけど」

「なるほど」

 短く煙草を吸い三宮は黙る。

「否定してよ。大丈夫だって言ってよ」

「不安定かよ。本物本物、大丈夫」

 軽い言いようにムッとする。

「証拠は?」

「そんなもの、持ち歩かない」

 車内に沈黙が落ちて、広がった。

 エンジン音が、心を誤魔化すように叫んでいた。

 ドア側の窓から外を見る私と、正面から視線をずらさない三宮。

 ハンドルを握る手がわずかに動き、車は脇道に入り、林の奥へと進む。

 闇に揺れる木々の中、コテージが車のライトに照らされ浮かんで見えた。

 外灯はない。
 三宮がエンジンを切ると、訪れたのは静寂。

「降りろ」

 言葉は短い。
 真樹は動かない。

 夜の暗さに、風に揺れる木々。妙な寒々しさがガラス越しに伝わってくる。

「……嫌です」

「はぁ?」

「知らない場所に知らない人、降りろと言われてはいそうですかってなりますか?!……ここは、どこなんですか」

「助けただろ。少しは信用しろよ……」

「それは助かります。でも、家の近所で見かけていた人が、どうしてこんなところにいるんですか?ストーカーなのでは?と思ってもおかしくありませんよね?」

「あ~~」

 声にはなっていないが面倒臭いなぁ。という言葉が聞こえた気がした。

 三宮は深く息をつく。
 まるで煙草の煙みたいな溜息。

 助手席の真樹から視線を外して、ポケットから取り出したスマートフォンを手にする。

 すぐに発信音が鳴りだし、コール数回で三宮は話しだす。

「……俺。喫茶店にいた子と一緒にいる」

『あぁ、榊君ですね』

 その声は吉野教授だった。

「信用してもらえない。身元保証してくれ」

 スマホから笑う声が漏れ出て、また三宮は溜息をつく。

「いい加減にしてくれませんかねぇ~」

『はいはい、で、なぜ、一緒にいるんだい?』

「……偶然?」

 高木は教授の知人でもあるはずだが、三宮は高木に対して何も言うことはなかった。それでも三宮は車から降りて、何か話をする。そして車の助手席側に立ち、扉を開いてスマホを渡してきた。

「もしもし?」

『榊君ですか?吉野です』

 聞き覚えのある声だった。
 眼鏡の奥の頼りない笑みを思い出すが、それでも何故かホッとした。

「……教授」

『三宮君は信頼できる人ですよ。大切なものを取りに行ってもらう程度には、私も信頼しています。どうか、安心して休んでください』

 理由は説明していないが、疲れたと言ってもいいのだと、そんな気持ちになった。

「疲れた……」

『そう、ですか。頑張りましたね』

 無責任な慰めに私は笑ってしまった。

「事情も知らない癖に」

『女性が落ち込んでいるなら、慰めるのが紳士と言うものです。ねぇ三宮君、君も聞いているんでしょう』

 三宮はタバコをくわえたまま肩を竦めていた。

『ゆっくりと休んでください』

 吉野教授がもう一度繰り返し、三宮に代わって欲しいと言われ、スマホを返した。

 車から降りようとしたが、足元は砂利で素足では躊躇いがあった。

 でも、疲れていた。
 足が痛かった。
 そして、寒い。

 本音を言えば休みたかった。すぐに眠りたかった。

 でも、脳裏に高木の姿が過ぎって離れなかった。

「高木さんの家に、預けたものを返してもらいに行くんですよね」

 私は車を降りない。
 降りたくない。

 どうなったか知りたい。
 何があったか知りたい。

 でも、嫌がるだろう。

「私も、荷物を取りに行きたい」

「……とってきてやるよ」

 車の中から引っ張り出されるように、荷物のように片方の腕だけで抱えられた。

「雑」

「贅沢言うな」

 コテージの扉の前、ポケットから鍵を取り出した。

 ドアが開く。
 中は暗い。

 暗闇の中で降ろされた。
 足元が冷たい。

 その冷たさにまた高木を思い出す。

 数秒後に室内の灯りがついた。

 木の匂い。
 冷えた空気。

「冷えるぞ?」

 敷居を越えて中に入る。
 部屋のあちこちに飾られた家族の写真に、三宮の姿はない。

「勝手に使っているんですか?」

 三宮は上着を脱ぎながら言う。

「さぁな」

 説明はない。
 真樹は、立ち尽くしていた。

 暖房の音が鳴り始めても、足裏の冷たさは変わらない。
 砂利の感触が、まだ残っている。

 動けない。

 室内は確かに寒い。
 でも、それとは別に、胸の奥に冷たい水が残っている。

 池の水の温度。

 高木の腕の冷たさ。

 あれは、空気の冷えとは違う。

 うつむき……温かな風の流れを感じれば……ほっとして……崩れ落ちそうになるのを、耐えていた。
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