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1章 潮
18.回収
三宮は一人離れて神の間と呼ばれる部屋の前に立った。
表情が歪む。
重い扉に手をかけて、ゆっくりと開いた。
香炉の煙が、廊下まで流れ出てくるのを、口元を塞いで遮った。
沈香の、重い甘さ。
その奥底に——干からびた磯の匂いが、しつこく絡みついている。
一歩、踏み入れる。
金屏風が、和蝋燭の火を反射して体裁を繕ったような下品な仰々しさがあった。
まるで、数千の魚の目が、暗闇で見開いているようなイメージに三宮は視線をそらした。
音は――ない。
廊下では怒号が響いているのに、この部屋の中だけ——深海の底のように、音が死んでいた。
聞こえるのは、自分の心臓の音だけ。
そして——
甲殻の隙間から漏れる、微かな潮騒。
「高木」
声が出なかった。
出したつもりになっていただけ。
音になっていなかった。
部屋の奥。
豪華な布団の上に、それは横たわっていた。
人の形を、していた。
でも、人では、なかった。
灰色がかった甲殻が、身体の表面を覆っている。月光を浴びた端々が、虹色に、真珠のように輝いていた。
布団からはみ出した脚は、節くれだって鋭く、冷たく硬化している。
幾度かすれ違ったときの人としての姿を思い出した三宮は、深く息を吐き、無意識に煙草に手を伸ばしていた。
三宮はその姿自体に何かを感じている様子はない。
傍らに、スーツが抜け殻のように、虚しく転がっていても……。
主を失った衣服のシワに——かつての営業マンとしての彼の日常が、染み付いていた。人としての生々しさの欠片がそこにあった。
三宮は迷わず近づく。
甲殻の隙間から、細い風切り音が漏れている。
呼吸の代わりに。
三宮はしゃがみ込み、節の隙間に手を入れる。
指先に触れる、硬い感触。
一粒の黒い真珠。
それを取り上げた瞬間、甲殻は静かに崩れた。
音もなく。
砂のように。
涙のように零れた、黒い真珠。
海の欠片のような存在を手にし、部屋を後にした。
そして、彼は喧噪の中で放置された一人の老女の元へと向かった。
「一緒に来るか?」
老女は幼い子供のような笑みを浮かべて、首を横に振る。
「そうか」
「えぇ、えぇ……良い、人生でした」
そして視線を伏せる。
深い皺の奥で老女は静かに笑っていた。
三宮はそれ以上何も言わず、幼子にするように頭に手を置く。
遠く離れた場所、影絵を見るように真樹と高乃はその景色を見ていた。
「なぜ、三宮が——」
真樹の声に、不安が混じる。
彼女は、あの老女はここの主であり当主だが、静かな人だった。悪い人には思えなかった。
「止めないと」
一歩、踏み出そうとする真樹を高乃が静かに掴み、高乃は大丈夫とでも言うような穏やかな声で言う。
「……あの方は、いつも笑っていました」
高乃は窓から視線を外さないまま、静かに言葉を続ける。
「幸せな方でしたよ。私達とは、全然違う意味で」
三宮が真っすぐとコッチに戻って来た。
「お帰り」
自分でも驚くほど棘のある声になった。
ずっと助けてもらっているのに……なぜか素直になれなくなっていた。
「終わったの?」
「あぁ」
三宮が視線を高乃に向けた。
「一緒に来るか」
高乃は、ほんの少し間を置く。
「いいえ」
それから、静かに。
「私も、行くところがありますので」
礼儀正しく高乃は頭を下げ背を向けた。
少しの間その背を見ていたけれど、私達もまた駐車場へと向かって歩き出す。
駐車場へ向かう途中、三宮が足を止めた。
ポケットから、小さな包みを取り出す。
無造作に、真樹の手の上に落とす。
「持ってろ」
「……なに?」
包みを開くと、黒い真珠。
月光を吸い込んだように、鈍く光っている。
触れた瞬間、冷たくも温かくもない。
ただ、重い。
「何これ?」
「返しに行こう、それまで持ってろ」
それだけをいって三宮は黙り込んだ。
車の中、エンジンの音を聞きながら沈黙が続いた。
私は黒い真珠を手に眺めていた。
何かわからない、説明はない、それでも私は知っていたのだ。
これは高木だ。
掌の奥で、あの潮の匂いが揺れる。
ずっと、日常が非日常に侵食されている気がしていた。
恐怖の正体は、あの匂いだった。
なのに。
嫌ではない。
むしろ——
そっと見守られていたのかもしれない、とすら思う。
翌日、私と三宮は真珠を手にもう一度金毘羅宮に――いや、たどり着けなかった白峰神社に向かうことになる。
表情が歪む。
重い扉に手をかけて、ゆっくりと開いた。
香炉の煙が、廊下まで流れ出てくるのを、口元を塞いで遮った。
沈香の、重い甘さ。
その奥底に——干からびた磯の匂いが、しつこく絡みついている。
一歩、踏み入れる。
金屏風が、和蝋燭の火を反射して体裁を繕ったような下品な仰々しさがあった。
まるで、数千の魚の目が、暗闇で見開いているようなイメージに三宮は視線をそらした。
音は――ない。
廊下では怒号が響いているのに、この部屋の中だけ——深海の底のように、音が死んでいた。
聞こえるのは、自分の心臓の音だけ。
そして——
甲殻の隙間から漏れる、微かな潮騒。
「高木」
声が出なかった。
出したつもりになっていただけ。
音になっていなかった。
部屋の奥。
豪華な布団の上に、それは横たわっていた。
人の形を、していた。
でも、人では、なかった。
灰色がかった甲殻が、身体の表面を覆っている。月光を浴びた端々が、虹色に、真珠のように輝いていた。
布団からはみ出した脚は、節くれだって鋭く、冷たく硬化している。
幾度かすれ違ったときの人としての姿を思い出した三宮は、深く息を吐き、無意識に煙草に手を伸ばしていた。
三宮はその姿自体に何かを感じている様子はない。
傍らに、スーツが抜け殻のように、虚しく転がっていても……。
主を失った衣服のシワに——かつての営業マンとしての彼の日常が、染み付いていた。人としての生々しさの欠片がそこにあった。
三宮は迷わず近づく。
甲殻の隙間から、細い風切り音が漏れている。
呼吸の代わりに。
三宮はしゃがみ込み、節の隙間に手を入れる。
指先に触れる、硬い感触。
一粒の黒い真珠。
それを取り上げた瞬間、甲殻は静かに崩れた。
音もなく。
砂のように。
涙のように零れた、黒い真珠。
海の欠片のような存在を手にし、部屋を後にした。
そして、彼は喧噪の中で放置された一人の老女の元へと向かった。
「一緒に来るか?」
老女は幼い子供のような笑みを浮かべて、首を横に振る。
「そうか」
「えぇ、えぇ……良い、人生でした」
そして視線を伏せる。
深い皺の奥で老女は静かに笑っていた。
三宮はそれ以上何も言わず、幼子にするように頭に手を置く。
遠く離れた場所、影絵を見るように真樹と高乃はその景色を見ていた。
「なぜ、三宮が——」
真樹の声に、不安が混じる。
彼女は、あの老女はここの主であり当主だが、静かな人だった。悪い人には思えなかった。
「止めないと」
一歩、踏み出そうとする真樹を高乃が静かに掴み、高乃は大丈夫とでも言うような穏やかな声で言う。
「……あの方は、いつも笑っていました」
高乃は窓から視線を外さないまま、静かに言葉を続ける。
「幸せな方でしたよ。私達とは、全然違う意味で」
三宮が真っすぐとコッチに戻って来た。
「お帰り」
自分でも驚くほど棘のある声になった。
ずっと助けてもらっているのに……なぜか素直になれなくなっていた。
「終わったの?」
「あぁ」
三宮が視線を高乃に向けた。
「一緒に来るか」
高乃は、ほんの少し間を置く。
「いいえ」
それから、静かに。
「私も、行くところがありますので」
礼儀正しく高乃は頭を下げ背を向けた。
少しの間その背を見ていたけれど、私達もまた駐車場へと向かって歩き出す。
駐車場へ向かう途中、三宮が足を止めた。
ポケットから、小さな包みを取り出す。
無造作に、真樹の手の上に落とす。
「持ってろ」
「……なに?」
包みを開くと、黒い真珠。
月光を吸い込んだように、鈍く光っている。
触れた瞬間、冷たくも温かくもない。
ただ、重い。
「何これ?」
「返しに行こう、それまで持ってろ」
それだけをいって三宮は黙り込んだ。
車の中、エンジンの音を聞きながら沈黙が続いた。
私は黒い真珠を手に眺めていた。
何かわからない、説明はない、それでも私は知っていたのだ。
これは高木だ。
掌の奥で、あの潮の匂いが揺れる。
ずっと、日常が非日常に侵食されている気がしていた。
恐怖の正体は、あの匂いだった。
なのに。
嫌ではない。
むしろ——
そっと見守られていたのかもしれない、とすら思う。
翌日、私と三宮は真珠を手にもう一度金毘羅宮に――いや、たどり着けなかった白峰神社に向かうことになる。
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