境界の音

迷い人

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2章 囀り

01.楽

 最近、言葉がおかしく感じる。

 理由は分からない。
 眠気のせいでも、昨日の疲れでもない。

「おはよう。今日の課題どうした?」

 違和感を確かめたくて友達に話しかけた。

「真樹、おはよう!アノ課題ね~~」

 から始まった話は、テーマの立ち位置、方向性、資料の選び方、必要なこと、様々な要因が提示された結果、難しかったと締められた。

 丁寧な――丁寧過ぎる説明。
 なのに、舌の上で言葉だけが薄く滑るように感じてしまう。



 話を聞きながら廊下を歩く。
 講義棟へ向かう学生の流れに混ざって、私は普段通りの速度で足を進めた。

「これ、好き~」
「わかる~」
「だよね~」

 すぐ横をすれ違う三人組の声が、ふわりと浮かんで落ちる。
 いつもと変わらない。
 大学の廊下なんて、いつもこうだ。
 言葉は軽く、笑いは高く、話題は途切れることがない。

 そういうもの。

 なのに。
 何かがおかしい。

 揃いすぎている?

 同じ高さで、同じ間合いで、同じ柔らかさで。声が重なるというより、ひとつの音が複数の口から出ているみたいに聞こえる。

 私は足を止めかけて、やめた。
 気のせいだ、と言えばそれで終わる。
 ここで立ち止まって確かめるほどのことじゃない。
 確かめたところで、分かるとも思えない。

 ――違和感が、ちらちらと心を横切る。

 そのまま歩き続ける。
 いつも通りの講義へ、いつも通りの顔で向かう。

 いつも通り過ごせば、気のせいで済むはず。



 友だちと別れて教室に入っていく。

 松沢教授の講義は、いつも少しだけ戦いだ。

 気合、集中が必要。

 教室の扉を開けると、前の方の席は空いているのに、後ろに固まって座る学生たちの影が目に入った。

 いつものざわつき。
 適当にやり過ごし単位を取ればよいという軽薄な空気。

 見て見ぬふりをするのはいつものこと。


 教壇の前には黒板。脇には古いプロジェクターとスクリーン。
 その前で、三宮が手際よく機材の設定をしていた。
 コードを繋ぎ、リモコンを確かめ、映像が出るかを一度だけ確認する。

 三宮は松沢教授の助手をしている。
 あれ? 助手? 助教授?

 そんな事を考えながら、一人で小さく笑うが、三宮は私を気にかける様子もない。

 三宮は吉野教授の紹介で松沢教授についた、と聞いている。
 私が個人的にこの講義に執着し、三宮は必要とされそこにいた。

 それが私達の距離。

 三宮は、壁際へ下がって腕を組んだ。
 表情はいつも通り、やる気があるのかないのか分からない。
 煙草を吸いたそうな顔、と言うと怒られそうだけど、私は勝手にそう呼んでいる。

 遅れて松沢教授が入ってきた。

 年配の身体に似合わない早足で、鞄を抱えるようにして教壇へ向かう。七十に近いと聞いているけれど、年齢よりも先に目につくのは、研究の匂いみたいなものだ。衣服にも、動きにも、情熱が染み込んでいる。

「……えー」

 声は小さい。
 早口で、語尾が飲み込まれる。

 黒板に向かうと、チョークが擦れる音だけがやけに大きい。書かれる字は達筆なのに、癖が強い。読めないわけではない。でも、初見ではつらい。字というより、痕跡に近い。

 だから、皆、自主的に勉強する。

 配られる資料を読む。指定された文献に当たる。フィールドワークに出たことのある学生だけが、教授の魅力を知っている。講義の言葉は拾えなくても、現場での教授は別人みたいに生き生きしているからだ。

 そして、私も教授の魅力を知っている一人。

 成績は、全体に良くない。
 理不尽だと思う瞬間もある。けれど松沢教授は最低点をつけない。だから、嫌われきらない。それがまた、講義室の空気を薄くしているのだろう。

 私は前の方に座った。
 いつも通り。聞き取りたいから。拾いたいから。
 松沢教授の授業が、面白いことを――私は知っているから。

 

 講義が始まって、しばらくして。

 私は、自分の耳が変になったのかと思った。

 松沢教授の声が、よく聞こえる。

 小ささは変わらない。早口も変わらない。
 なのに言葉が、整えられた音楽のように耳に届く。飲み込まれていた語尾が、そこにある。滑って消えていた単語が、手前で止まる。

 黒板の字は、相変わらず読みにくい。
 私の視力がどうこうという話じゃない。普通に、読みづらい。

 なのに。

 内容が、分かる。
 目で追えないのに、頭の中で文字が立ち上がるみたいに、意味だけが入ってくる。

 話が整理されて、ひとつずつ順番に収まっていく。
 いつもなら、途中で落としてしまうはずの段落が、落ちない。いつもなら、後で資料で補うべき隙間が、最初から埋まっている。

 ――わかる。

 聞き取れなかった声が聞こえ、いつも質問している深さまで理解できる。

 一言で表現するなら『楽』

 こんなふうに聞こえるなら、いつもこうならいいのに。
 思ってしまう。否定できない。

 私は周囲を見た。

 皆が真剣に授業を聞いていた。
 姿勢が正しい。
 ノートを取る手が止まらない。
 あくびをしている者がいない。
 視線が教授に集まっている。

 揃っていた。
 整っていた。

 そのことが、嬉しいはずなのに。
 胸の奥が少しだけ、冷たくなる。

 ――誰も頑張っていない。
 なのに、みんな分かっている。

 講義が終わるころ、学生のひとりが、ぱっと明るい声で言った。

「先生、今日、すごく分かりやすかったです。楽になりました!」

 失礼だ、と思った。
 喉元まで上がった言葉を、私は飲み込む。松沢教授の講義を「楽」なんて言葉で測るな、と。努力が要るのが普通なのに、と。

 次々に、
「楽でした」
「楽にわかりました」
「楽しかったです」
 似たような言葉が重なった。

 否定は、できない。
 私だって楽だったから。

 楽だけど……いつもの質問が出来ない方が問題だった。

 いつもなら、どこかが足りない。
 足りないから、聞きに行く。自分の頭で噛んでも噛んでも、残る引っかかりを持って研究室の扉を叩く。

 今日は、それがない。
 物足りない。

 分かってしまうから、質問が生まれない。
 理解できているはずなのに、何かが欠けたまま講義が終わっていく。

 私の手元のノートは、綺麗だった。
 綺麗すぎる。余白がない。迷いがない。

 それが、嫌だった。



 講義が終わった瞬間、教室の空気は弾けるみたいに戻った。
 ざわめきがふくらみ、椅子が引かれ、荷物が鳴る。

 でも今日は、違った。

 松沢教授の周りに人が残った。
 いつもなら、数人が資料を抱えて出ていくだけだ。教授の講義は分からない、という顔をして、逃げるように帰る。

 今日は、逃げるように立ち去る者がいない。

「先生、それって、つまり……」
「先生、あの地域の話、もう少し聞きたいです」
「先生、今のところ、すごく面白かったです」

 キラキラした目が向けられる。
 同じ温度で、同じ勢いで、質問が続く。

 松沢教授は、耳を赤くして笑った。

「いや、いや……そんな……」

 嬉しいのだろう。
 嬉しいはずだ。これだけ聞かれたら、喜ばない人はいない。

 なのに、教授は時計を見た。
 ほんの一瞬、目が泳ぐ。研究室へ戻りたがっている。その仕草が、私には分かった。

 教授の指が、ペンを強く握って、握りなおす。
 一度ほどいて、また握り直す。まるで、落ち着ける場所を探すみたいに。

 私は、胸がざわついた。

 楽と言う言葉が止まらないから。

 楽……いいことじゃない。
 私は自分に言い聞かせていた。


 やがて学生たちは満足そうに去っていった。
 笑いながら、軽く頷き合いながら、同じような言葉を交わしながら。

 教室に残ったのは、松沢教授と、壁際の三宮と、それから私だけ。

 三宮が黙って片付けをしている。
 プロジェクターの電源を落とし、コードをまとめ、スクリーンを戻す。いつも通りの手つき。いつも通りの顔。煙草を吸いたそうな、退屈そうな顔。

 私は三宮を見た。

 三宮は私を見ない。
 何も言わない。

 松沢教授が、まだ少し困ったように笑っている。
 三宮はそれにも反応しない。

 ――揃っていない。

 三宮だけが異質?

 それが、妙に安心できなくて、私は目を逸らせなかった。

 私の視線に三宮は何も言わない。

 それでも、視線だけは合い、軽く頭を下げてその場を後にした。
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