境界の音

迷い人

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2章 囀り

04.分かる男

 大学を居心地よいと感じて集まる人が増えていた。
 それが億劫だった。

 混ざれないことが孤立と孤独を高めていく。一人でいる事は好きな方だけど、集団化する人々に異物として扱われる状態が重苦しい。

「いっそはっきりと排斥されるなら、嘆きようもあるのかも」

 声に出してみるが、それはそれで耐えられない。集団として成立する時、彼女達は揃って正しさをルールにするから……何も無かったように過ごせている。私と同じようにやり過ごしている人もいる。それが救いになっていた。



 バイト先の制服に着替えながら、そっと溜息をついた。



 喫茶店「木漏れ日」は、夜の闇が深まるほどに灯りが柔らかに溶けて、BGMが優しく流れて染み入り、心が緩む。

 木の色と、湯気と、コーヒーの香り、店長の声が、外の世界を薄くするのだ。

 この時間、店はいつもより混む。
 店長のファンだという女の子たちが、決まった席に集まっていた。彼女たちは甘いものより、店長の笑い方が、指先が、静かな声が――好きなのだと思う。

 注文のたびに顔がほころんでいる。
 穏やかに、コーヒーと甘い菓子を口にする瞬間、彼女達は雰囲気を、それを作り出している店長ごと楽しんでいるように思える。

 だけど、今日はいつもと少しだけ違っていた。

 大学限定の“アレ”が、ここにも忍び寄ってきている。

 店長のファンの女性達の席の近く、男の客もいた。
 女の子目当てなのが分かる距離感。けれど、揉める感じはない。最近は、どこも妙に“うまくいく”。

「真樹ちゃん、ごめんね。閉店作業、手伝ってもらって」

 田村店長が、いつも通りの温度で言った。
 その声に、胸の奥がほんの少しだけ緩む。

 私はうなずいて、テーブルを拭きながら、あの女の子たちの席を横目で見た。
 笑い声が軽く揃っている。

 ――揃いすぎている。

 うつむいた表情には嫌悪が滲む。

「俺さ、人の気持ちが分かるんだよね」

 男の声が、店内の空気を割った。
 大きい声じゃない。むしろ、聞かせるためにちょうどいい声。

 席を隔てた女性達を引き寄せる。
 女の子たちの視線が男に向かった。

 笑い方が揃う。呼吸は同じ。
 気持ち悪いのに、目を逸らせなかった。

「え、すごーい」
「どうやって?」
「わかるって、なにが?」

 質問が重なる。
 重なるのに、うるさくない。滑らかに回り始めた。

 男は嬉しそうに、満足げに頷いた。
 それが“正しい頷き”みたいに提示され、私は胸の奥が冷えた。

「たとえばさ、今――君、ほんとは帰りたいでしょ」

 指差された女の子が、ぱっと目を丸くして、次に笑った。
 笑いながら女の子の目が泳いでいた。

 わかる感覚が崩れ、不安から気持ち悪さに傾きそうになる。

「……え、なにそれ。やばい、当たってる。今日、早く帰ってこいって言われたんだよね。でも、皆と一緒にいたいから、ついね。わかるでしょ?」

「わかる~」

 繰り返される声。

「すごい、違いがわかるなんて」

 感心する声が、少し変な気がした。

 でも、

 当たってる。その言葉が店の中に落ちた瞬間、空気が一段、甘くなった気がした。

 あぁ、気持ちいい。

 乱れの横でなにかがスッと通っていった。

 それが、伝わってくる。
 声じゃなく、心の表面のぬるい部分が、指で撫でられているみたいに。

 私は、手を止めた。
 止めたのに、何も言えなかった。言えば、私が“ズレた”側になる。

 視線の端に、別の男がいた。
 清正さん、と真樹は思った。最近、常連になった先輩。

 清正は、笑っていた。
 声を出さず、口元だけで。

 あぁ、楽しい。

 その笑いが、いちばん嫌だった。

「じゃあさ」

 男が、さらに気持ちよくなる方へ踏み込む。

「君、さっきからさ――あの子のこと苦手だと思ってるよね」

 指差されたのは、私だった。

 その瞬間、周囲の目が一斉に私に向く。まるで答え合わせみたいに。
 喉がきゅっと縮んで、息が浅くなる。

「え……」

 誰かが笑った。笑って誤魔化した。でも、笑いが薄い。
 “良い子の顔”が、いっせいに私の方を向く。

「ち、違うよ」

 私は言った。声が思ったより硬い。

「でも、今“当たってる”って思ったよね」

 男は“優しい”顔で追い打ちをかける。
 守ってあげるみたいな顔で、正しさで、空気を撫でる。

「大丈夫。そういうのって、あるから。悪いことじゃないよ。正直なだけ」

 その一言で、空気が整う。
 嫌な纏まり方で。

 女の子たちが一斉に頷く。
 頷くことで、さっきの針が丸くなる。丸くなるから、余計に怖い。

 私は気づいた。
 この男は当てているんじゃない。
 当たっていることにして、空気を作っている。

 そして――空気が“気持ちいい”から、誰も止めない。

 田村店長は、カウンターの奥でコーヒーを淹れていた。

 私は無駄と思いながらも、店長に助けを求めるように視線を向けた。

 田村店長の手つきは、いつ見ても静かだった。
 急いでいるはずなのに、カップを置く音が立たない。
 ミルを回す指先が一定で、スプーンが一度も鳴らない。
 それだけで、私は整った。

 いつも通りの顔。いつも通りの手。彼の不可侵がそこにあった。

(田村店長は怪異に無反応で、面白みのない男なんだよね)

 そう言ったのは誰だったか覚えていないけれど、だからこそ、彼の側は穏やかな空気が侵害されない。

「君は、自分がなぜ苦手だと思われるか、気にならない?そのままだと寂しいでしょう?俺なら君に合わせ方を教えてあげられるよ」

 見えない手を差し出される気になった。

 喉が渇いた。
 足が、少しだけ震えた。

「いえ、すみません」

 声を出した瞬間、店の中の視線が揺れる。
 同じ速さで、同じ温度で。

 胃の奥が、ぎゅっと縮む。

「……お代わり如何ですか?」

 私の誤魔化しに、男が、にこっと笑った。

 笑いが、正しい。

 私は言葉を探す。
 探している間に、空気がまた回りだし、私を捕らえようとしてくる。

 ――そのとき。

 コツ、コツ、とガラスを打つ音がした。

 店の窓。
 私は反射的に、カラスだと思った。あの黒い影。あの声。あの切断音。

 視線を向ける。



 光を柔らかく反射して、空の色を映す鳥がそこにいた。



 夜のはずなのに、空の色が残っているみたいな青。

 鳥は、窓に小さなくちばしを当てて、もう一度だけ、コツ、と鳴らした。

 音が、店の中に落ちた瞬間。

 さっきまで滑らかだった“気持ちよさ”が、一瞬だけ、引っかかった。

 誰かが眉を寄せる。
 誰かが、息を止める。

 でも、気持ちよさは割れないし、崩れない。

 割れないからこそ、余計に嫌な予感がしたのだろう、不安が周囲にはびこった。

 森清正が、窓の方を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
 まるで、知っているみたいに。

 私は、窓の外の鳥から目を離せなかった。
 その空色が、私の中の“何か”を呼んでいる気がしたから。

 ――籠。

 言葉にならない単語が、喉の奥に引っかかる。
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