境界の音

迷い人

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2章 囀り

05.選ばれた存在

 コツコツ。
 鳥が窓を打つ。

 カラスほどもない、小さな鳥。
 それなのに、くちばしが触れるたび店の中だけが、揺れた。

 棚のボーンチャイナが細かく震え、薄い縁がソーサーと触れて乾いた音を立てる。
 天井から垂れる真鍮のペンダントライトが、鎖をチリッと鳴らしていた。

 地震? 誰もが視線を巡らしている。

 だけど私は、鳥に視線が引っ張られているかのように、窓から目を離せなかった。

 店長がライトを見上げ、棚をそっと支えている。
 常連客は「地震か?」と天井を見ている。

 誰も、窓を見ていない。
 誰も、あの鳥を見ていない。

「いや」
「何、コレ」
「嘘でしょ」

 さっきまで「わかるー」を繰り返し、揃っていた声が、叫びに変わる。
 揃っていた“心地よさ”が、ほどけて落ちたかのようだった。

 コツ、コツ、コツ。

 音が、耳の内側を押し潰した。

 次の瞬間、音が“言葉”に変わって、私の耳の中へ滑り込んでくる。

(早く帰りたい、今日はすき焼きなのに)
(推しのライブがあるのに)
(ずっと、見下されていると思っていた)

 声じゃない。
 耳鳴りみたいなノイズが、意味だけを運んでくる。
 聞こえてはいけないものが、聞こえだした。

 耳を塞いだ。
 塞いだのに、止まらない。

 声の主だろう女の子たちは顔色を悪くして、目を泳がせて、絶望みたいな顔で泣いている。
 今、そんなことを考える余裕なんて――あるはずがない。
 だから私は、必死に自分に言い聞かせる。

 耳の中の音は現実じゃない。
 理由は簡単。目の前の彼女たちは、考えるより先に壊れそうだから。

 なのに、現実みたいに言葉が増える。

「信じていたのに」
「認めてくれたと思っていたのに」
「違う、私は仲良くしたかっただけ」

 聞こえる声と、聞こえないはずの声が、ぐちゃぐちゃに重なって私の頭を押す。
 他人に鈍感で、自分には鋭敏に、その悲鳴は心に刺さる。

(酷い、裏切っていたんだ)
(レポートのためだけに優しくしたくせに)
(やっぱり私なんて)

 さっきまで揃っていた“わかるー”が、今は全部バラバラだ。
 揃っていたから気持ちよかったのに。
 バラバラになったから、それぞれの痛みが散る。

 ぁっ……

 痛みに、血の匂いが混じった気がした。
 眩暈がする。
 叫びは外じゃない。内側だ。

 コツコツ。
 その音に、私は鳥を見る。
 見ずにはいられない。

 揃うことを壊しているみたいに見えた。
 崩れるタイミングを選んでいるみたいに、コツコツと響く。
 鳥が何かをしている。
 “仕事”をしている。

 学生達の混乱が、他の客にまで伝染しはじめる。
 椅子が擦れる音が増え、誰かの息が荒くなる。
 その不安が、また誰かの不安を呼ぶ。

「これは、次の段階に向かうためのステージなんですよ」

 涼しい声が、騒ぎの上から落ちてくる。
 静かなのに、よく通り、価値観を塗り替えるように背骨に届く感じがした。

 森清正先輩――?
 一人だけ、堂々としている。

 気になった。
 けど今は、それどころじゃない。

 私は鳥に視線を戻す。
 空色の羽が、夜のガラスに薄く映っている。
 喉の奥に、また言葉が引っかかった。

 ――籠。

 あの鳥を見ているのは自分だけだった。

 コツ、コツ。

 鳥はまだ窓を打ち続けていた。

「これは、試練です」

 清正の声が、店の中に落ちる。
 叫び声の隙間を縫うように、静かに、でも確実に届く声だった。

「怖いのは当然です。これは次の段階に向かうための試しです」

 誰かが息を呑む。
 叫んでいた子が、一瞬だけ黙り、清正の次の言葉を待っていた。

 コツコツ。
 鳥はまだ、窓を打ち続ける。

 常連客の一人が立ち上がった。

「外、確認してくる」

 すぐに声が店に向かって返される。

「外は揺れてないぞ!」

 続けてもう一人外に出た。

「本当だ、揺れてない」
「マジか」
「店の中だけ?どうなってるんだ?」

 大人達が出入りを繰り返す。
 外は、静かだった。
 その事実が、店の中の空気を二つに割った。

「ぇ、なんで」
「出よう、出た方がいい」

 立ち上がる子。荷物を掴む子。
 一人が駆け出した瞬間——

「待ってください」

 清正の声が響いた。
 荒くはない、ただ整っているだけ。
 驚くほどに穏やかで優しい声。

「お会計、まだですよね」

 女の子達が、止まった。
 逃げる足が、正しさに縫い留められる。

「食い逃げは、正しくないですよね?」

 責めるような勢いはない。
 正しいことを言っている。ただ、それだけ。

 財布を出す子がいた。
 そのまま逃げる子もいた。
 席に戻る子もいる。

 静かさを取り戻したが、混乱は大きく深くなっているのが、揺れる視線、顔色、震えから分かる。

「真樹ちゃん」

 店長が、カウンターの内側から私を呼んだ。
 いつも通りの声。でも、目が少しだけ困っていた。

「救急車、呼んだ方がいいかな。それとも警察」

 私は鳥を見た。
 コツコツと、まだ窓を打っている。

 コツコツとなり広がる波に、頭を抱えていた。
 正しさに逃げられない、動けない、それが見て分かる。

「……少し待ってください」

 鞄からカラス用に持ち歩いているドッグフードを取り出して、外に出た。
 夜の空気が冷たかった。
 手のひらにドッグフードを乗せて、窓の外に差し出す。
 しばらくして——
 スッ、と影が降りてきた。
 カラスだった。
 カァ。
 乾いた一声。
 それだけで、空色の鳥が窓から離れた。
 二つの影が、夜の空に溶けていく。
 カラスと、空色の鳥が——並んで、遠くなる。
 突風が吹いた。
 目に、砂が入った。
 視界が、塞がれる。

 痛い……。

 店の中では、清正が立っていた。
 残った客たちを見回して、ゆっくりと息を吸う。

 揺れは、止まっていた。
 鳥の音も、消えていた。

 静寂が戻った店の中で、清正は確信していた。

「終わりましたね」

 誰かが、泣いていた。
 誰かが、笑っていた。
 誰かが、清正を見ていた。

「これは、試練でした。そして——」

 清正は、穏やかに微笑む。

「皆さんは、乗り越えることができたのです」

 頷きが、戻ってくる。
 揃った頷きが。
 揃う安心がまた広がり始めていた。

「選ばれた人間は、こうして繋がっていくんです」

 誰も疑わなかった。
 疑う必要が、なかった。

 揺れは消え、恐怖も消えた。

 残ったのは——
「そうだ」
「そうだよね」
「私たち、乗り越えたんだ」

 揃った声と、清正の微笑み。
 そして、同調から心を読めるようになった特別な者達だった。
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