境界の音

迷い人

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2章 囀り

06.渦の外

 店内の混乱は、森清正先輩の言葉で収まりはしたけれど……私の気持ちは、彼女たちのように正されず、揃わず、もやもやだけが残っていた。

 眠ろうとすると、あの“揃う声”が耳の奥で復唱されて、目を閉じるたびに店の灯りが滲んだ。
 昨日の砂の違和感に寝不足が加わり、まぶたの裏がざらつく。瞬きをすると、眼球が遅れてついてくる気がした。

 校舎から視界を隠す木々の間にある、広い庭のベンチに座った。目の前のカラスが餌を寄越せと啼き、私は人目を避けるように、さらに木々の奥へ入っていった。

 人の声が聞こえる。
 噂を耳にする。

 耳の奥に声とは違う声も聞こえてきて、言葉の意味が揺れる。

 溜息。

「木漏れ日で、すごいことがあって」
「木漏れ日?」
「知らない、美形の店長がいるカフェだよ」
「そこで何があったの?」

 胡散臭い話なのに、言葉で説明される事に安堵してしまう。文字にできる形なら、まだ現実だと思える。

 こんなの異常でしょ。

「試練を乗り越えたんだって」
「清正先輩が導いてくれたそうだよ」

 昨夜の恐怖が、森清正の「物語」に塗り替えられている。

 ぞっとした。

 ぞっとはするし、怖いと思った。だけど、その理由までは――言語化できない。
 言語化できないから相談もできない。

 もどかしい。

 いつもの時間を送り、変わらぬ日々を繰り返す。
 変わらなければいいじゃないと思い込む。

 なのに

「真樹、時間もらえるかな?……もう、分かってるよね?」

 井上と、同じサークルの人達が2人。この間の人達と違う。

「時間が欲しいってことかな?」

「はぁ……まだ、理解できないのね」

 呆れ混じりに言う井上と共に歩くのだが、彼女は私の手をとった。
 指の間に、見えない糸を通されて、引かれるみたいだった。

「こうすると、伝わりやすいのよ」

「そう、なんだ」

 曖昧に答えるが、強制的に揃えられるような感触があった。

(清正先輩は凄い)
(わかるでしょう?)
(わかるー)

 衝動的にイラッとしてしまう。

 渡り廊下へと誘われれば、森清正先輩が待っている。
 渡り廊下は、外の喧騒が嘘みたいに薄かった。

 彼は1人で待っていて、分かり合うように井上達は私を置き去りに去っていく。

「昨日、目大丈夫だった?」

 自然な心配。善意の顔。
 悪意が、どこにもない。

 飲み物を渡される。
「お見舞いだよ」

 差し出されるのは、大学そばにある全国展開しているカフェのもの。

「当たっているでしょ。キャラメル」

「好きですね」

 そんな事は話したことはない。
 それでも私はソレを受け取り、口をつけようとした。

 森清正先輩は正しいから……

「いいもの飲んでいるな。今日、飲み物買い損ねたんだよな。譲ってくれないか?」

「はっ?」

 驚きながら、カップが手から去っていくのを追う。
 視線が辿り着いた先は、三宮だった。
 その瞬間だけ、耳の奥のざわめきが引き、息が、自分の速度に戻る。

「先生、ソレお見舞いですよ?」

「いや、徹夜にはコーヒーと糖分だろう?金は払うからさ」

 愛嬌と共に、千円札が渡された。

「釣りはいらない」

 そう言って去っていく三宮を見送り、改めて私達は視線を合わせた。

「なんだか、ごめんなさい」

 私と清正先輩の声が揃い重なっていた。
 普通なら笑えるのだけど、今は笑う気にはなれない。

 それでも清正先輩は唇に薄い笑みを浮かべた。

 清正先輩が話す。
 昨夜のこと。試練のこと。

「真樹さんも、見えてたんじゃないかと思って」

 視線は伏せられ、唇だけが意味深にはっきりと言葉を形にする。
 真樹の胸の奥が、少しだけざわつく。
 でも言葉が出てこない。

「一緒に、分かる側にいられるはずだよね?どう思うかな?」

 その瞬間、耳鳴りがした。

 突然に。
 鋭く。

 頭の中で何かが引っ張られるような感覚。
 同調の和に並ぼうとしているかのような、私の席がそこにあるかのような気がする。

 私を招く音が押し寄せて来る。
 耳を塞いでうずくまった。

 カァー

 カラスの声が降りて来れば、押し寄せる波が弱まった。

「どうして、正しい世の中に、平和で犯罪の無い世の中を拒絶するんだい?悪人だと、そういうことなのかな?そういう……人なんだ?」

 試すような言葉と共に、清正が私を見れば、強い波が改めて私に押し寄せてくる。清正が“正しい”と言うたび、波が形を持つ。正しさの音が、私の中の空白を探って叩いてくる。

 身構えた。
 同調の席に並べられる。そう、思った。
 実際には違った。

 波は、私に押し寄せ、通り過ぎ、そして去って行く瞬間に、私の中から何かがはじき出されていた。何が抜けたのか分からない。ただ、戻らないことだけ分かった。

 呆然としてしまっていた。

 視線はずっと、清正と交わしたままだった。
 何があったのか分からず、それでも時間が抜けていることは実感していた。

「……ごめん、急に頭が」
「大丈夫?」

 清正の声が、遠くなる。
 音が閉ざされ、古びたテレビのようなノイズの音が耳に停滞した。

 気づけば、一人だった。
 渡り廊下の端。
 清正はいない。

 さっきまでの会話が、夢みたいに薄い。
 ――支えていた音が、消えた。


 大学の笑い声が聞こえる。
「わかるー」「そうそう」
 でも今は……少し遠い……。

 聞こえるのは単調に繰り返される言葉。
 少し前までは、何がわかるのか、何がそうなのか分かっていたのに。
 理解できない置き去りの孤独。

 どこにもいない感覚。

 悲鳴を上げそうになる。

 手の中には、ペットボトルのお茶を持っていた。
 いつ手にしたのか分からない。
 だけれど、私は悩むことなくソレに口をつけた。

 深く息をする。
 思い出すのは――コツコツという音。

 空が見える。
 でも、空色は、ない。
 カラスも、いない。

 昨夜のことが、まだ胸の奥に引っかかっている。

 籠。

 その言葉だけが強く残っていた。

「そうだ……バイトにいかないと」

 時が動き出す。
 私ははじき出され何も変わらない。
 だけど、私以外は、渦の中にいる。
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