境界の音

迷い人

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2章 囀り

08.対

 喫茶店『木漏れ日』の休憩室。
 8畳程の部屋にロッカーとテーブルとソファが置かれていた。

 午前中、やけに大学の生徒が訪れていた。

 理由は、店長の声が心地よいかららしい。
 声の調子が、あの“わかる”の輪と同じ速度で整っている。

 そう噂されていた。

 今の私は、それがとても不快だった。自分とは相容れない人達が自分の縄張りに入ってくるような本能的な拒否感。

「なぜ、平気なんだろう」

 “わかる”人にとって、私は罪人なのでしょう?!そんな反発感。

 昼食用に作られたサンドイッチを大きく頬張っていたところに、奇妙な勢いで扉を開かれた。

「真樹さん!」

 さ⤴ん⤵ちょっと独特な呼び方はいつもの事。

「なんでしょうか?」

「ちょっと、これを見て、さっきの子が見ていたんだけど、真樹さんの大学凄く変なことになっているのですね」

 差し出されるスマホの画面。

 大学の掲示板。
 興味がなくて、殆ど見た事はない奴。

 文字列を流し見る視線が止まった。

 そこには喫茶木漏れ日で『試練』が行われたという内容。
 試練の発生は、その発生自体が選ばれた証。
 試練を乗り越えれば、心が分かるようになります。
 頑張ってください。

 そして注意してください。
 心を閉ざす者は、罪を抱えています。

 試練の記念写真。
 ひそかに映る店長の姿が写真に写っていて、騒ぎの一端を担っていた。

 店の方から、いつもの静けさが割れた。

 息がつまる。
 逃げ出したい。

 それでも、スクロールして眺めた。

 あ……私の言葉。
『見えないことと、悪いことは、同じじゃない』

 他愛ない何処にでもあるような言葉だから、気にする必要が無いのかもしれない。

 私の言葉で誰かが反論し、それが炎上の原因になったぐらいのこと。



『そういうふうに感じる人もいますよね。』
『罪は、認めたくないものです。』
『だからといって責めてはいけない。責めることは、相手を罪人にする行為だから。』

 輪の中にいない、だけど、どこか柔らかでゆっくりとした印象がまとわりつく。

 スマホを介してでも、輪は続くのだろうか?
 侮辱に等しい言葉なのに、人の心は整えられていく。




 ——同じ頃。



 森清正は、古い人のいない家にきていた。
 彼の祖父は、怪我をして入院している。

 寝不足気味の赤ん坊を抱っこしていた女性がふらついたのを助けようとしたときに、骨を折ってしまったのだ。

 馬鹿げている。
 年なんだから、そう思うけれど、俺はそんな祖父が好きだ。
 優しい人なんだ。
 いつも、その微笑みに救われた。

 祖父の家の窓を開けて空気を通す。

 床の間に向かい、鞄の中から取り出した掛け軸をかけた。
 流麗な古い絵。
 細い枝、くるんとしたカワイイ葉、オレンジ色をした実。
 不老長寿のときじくの実をイメージしているのだと祖父は語っていた。

 細く華奢な枝が、なぜか祖父の背を思わせた。

 祖父はいつも掛け軸を見ていた。

 いつもは、枝と葉と実だけの絵だが、時折鳥がとまる。
 空に溶けている一羽の鳥、マジックで描かれた雑な鳥籠は絵を歪ませている。

 祖父はその絵が好きだけれど、一度もその木にとまる鳥に気付くことはない。

「お爺ちゃん、鳥がいるよ!鳥、鳥、いつからいるの?お爺ちゃんが描いたの?」

 そう聞けば困った顔をして、そして笑った。

「そうか清正は梅子さんと一緒だなぁ~。鳥が見えるのか、爺ちゃんに鳥の姿を教えてくれるかい?」

 嬉しそうにそう言っていた。

 俺と同じように鳥が見えていた梅子さんとは、若い頃に亡くなった祖父の妻、俺の祖母に当たる人。



 彼女は、身体が弱く、長く生きられないと言われていたそうだ。
 だから、不思議な絵を無理言って譲ってもらったそうだ。

 祖母は掛け軸を見上げて、嬉しそうにはしゃぎ、息を乱しては、深呼吸していたと祖父は語った。

「それが可愛くてな」

 そして祖母の事を嬉しそうに語っていた。

「いるの。ほら。夫婦で寄り添ってる」
「ねぇ、私も、この二羽のように、いつまでもあなたと一緒に寄り添って行きたいわ」

 祖父には鳥が見えないけれど、それでも元気でいてくれるならと、分からないまま頷いていたそうだ。
 信用していない。
 いや、信用していた。
 妻が喜ぶなら、見えないものも見て見せよう。

 そう思ったんだよ。
 祖父がそう語るときは、俺の知らない頃の若い笑みが見えるような気がした。

 祖母は必死に生きた。弱い身体で、弱いまま、強いふりをして。
 祖父に残したのは、きっと綺麗な思い出だけだったのだろう。

 妻が亡くなったあと、祖父は泣いた。
 泣きながら、掛け軸の前に座った。

 座り続けた。
 そこに居れば、一緒に寄り添っていられるのではなかろうかと。

 その年、梅子が鳥がいるのと言った季節。

 祖父は夢を見たらしい。
 とても幸せな夢を。

 毎年毎年、同じ季節に。
 同じ匂い、同じ声で語り掛けてくれる夢を。

 夢の中で祖母は微笑んで言う。

「あぁ、嬉しい、こうやって寄り添い続けられるなんて」

 先へ進まない夢。
 だから傷も更新されない。
 切ないのに幸福で、胸の奥がほどける夢。

 祖父は優しい。
 優しくいたい。

 夢の中、境界が溶けて、妻と溶けあう瞬間が一番の幸福なんですよ。と祖父は言った。

 喉の奥が、きゅっと縮んだ。
 寂しかった。

 大切な妻が死んだ祖父が幸福な笑みを浮かべているのに、なぜ俺は寂しく孤独なのだろうか?祖父のように優しく正しい人間ではないからなのだろうか?

 祖父のように孤独から抜けだしたい。
 幸せになりたい。


 ……そして今。

 清正は暗い部屋で、スマホを握りしめていた。
 掲示板の画面には、切り取られた真樹の言葉と、荒い言葉が流れている。
 怒り。正しさ。断罪。
 同じ速度で熱くなって、同じ速度で誰かを壊していく。

 止めなきゃ。

 祖父は怒らなかった。責めなかった。
 誰かの理由に置き場所を作って、そっと撫でるような人だった。
 罪を罪とせず、溶かすようにできた。
 ――祖母が、いつも心の中にいたから。分かり合えていたから。
 孤独ではなく、満たされていたから。

 祖父のような人になりたい。

 清正の親指が動く。
 打ち直して、消して、また打つ。
 角を立てないように。誰も傷つかないように。
 ――みんなが同じ場所に戻れるように。

『そういうふうに感じる人もいますよね。』
『罪は、認めたくないものです。』
『だからといって責めてはいけない。責めることは、相手を罪人にする行為だから。』
『僕たちが同じことをしてどうするんですか。』
『ここは争う場所じゃない。分かり合う場所でしょう。』

 送信ボタンの上で、指が一瞬止まる。

 優しい言葉。
 正しい言葉。
 祖父が好きだった言葉。

 ――だから、大丈夫。きっと、収まる。

 清正は押した。
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