境界の音

迷い人

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2章 囀り

09.正す

「最近さ、店静かじゃない?」

 一か月ぶりの常連が、コーヒーの湯気越しに笑っていたが、どこか落ち着かない様子で田村店長に話しかけていた。

 席は埋まり、客は増えているが音は減っていた。

 静かに手を上げる客に、真樹は足音を立てずに急いで注文を聞きに向かう。

 沈んだような空間に音楽が流れている。
 客がいるが、まるで絵画の背景のように人が遠い。

 喉の奥が、耳の奥が、チリチリとする感覚にも慣れつつあった。

 田村店長は、一か月振りに来た常連相手に、いつもの柔らかい頷きで返している。

「そうですね。皆平和なんですかね」

「まさか、うちの会社はきゅーきゅーよぉ~。うちの上司がさぁ、新しいシステムについていけなくて、手間は増やすわ、愚痴は増えるわ、自分の仕事はできないわでさぁ……」

 一か月分の不満を吐き出す気満々で男は話す。

 静かな空気の店内で、感情を露わにするものが出れば、ドラマのセットの中に主人公が立ったかのように一人目立ち出す。

 チッ……たぶん、大学の生徒の数だけ舌打ちが重なった。
 愚痴を言っていた男は一旦口を閉ざし、舌打ちの方へ視線を向けて、表情だけで「うわぁ~」を作る。
「なんか、空気悪くない?客層変わった?」
「どうなんでしょうね。時期にもよるのでは。……でも、溜めるのは身体に悪いです。気になさらず吐き出して、美味しいコーヒーで心を解放してください」
 その一言で、殻が割れたみたいな感触がした。

 その瞬間。

「聞いてくれよ、うちの現場さ」
「こっちは部長がさ、毎日言うこと変わるんだよ」
「テレビもさ、最近ほんと……」

 大人たちの愚痴が、急にガチャガチャと噛み合い始める。音が増える。店の中が、生活の匂いを取り戻していた。

 田村店長は、ほっとした顔で笑った。

「おやおや、やっぱり、皆さん我慢してたんですね」

 もう一度、小さな舌打ちが響きだす。

 一つじゃない。
 揃った舌打ち。
 揃った視線。

 カウンター近くの学生たちが、一斉に田村店長を見ていた。

 苛立ち、というより、平穏が乱されたことそのものが不快だと言いたげな目。
 店長の背中に氷のように視線が張り付いていた。そして、店長自身は全くその違和感に気付くことはなく、それでも私には確実に刺さってくる。

 真樹は、背中の皮膚が薄くなるのを感じた。

 ——あぁ、嫌だ。

 鳥肌が背中を撫でていく。




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 三宮視点



 三宮は、朝の事務室に書類を出しにいき、違和感に周囲を見回す。

 役割の与えられていない三宮は、やけに気配が薄く背景のように違和感の原因を見つめていた。

「忘れ物」

 多くを語らず、手に持った書類が渡され、事務員は「うん」と短く頷く。
 高校の制服を思わせるブレザー姿の少女が、違和感の原因だとすぐに分かった。

 この時期、大学に高校生が来ていることはほぼない。

 意思は通ってはいるが、色々と奇妙だ。
 腕を組み、薄い気配のまま観察を続けていた。

「母さん……」
「うん」
「わかった」

 三宮には何が起こったのか、語られたのか分からないが、それでもふんわりと嬉しそうに微笑みあっていた。

「母さん」
「うん」
「そうなの」

 語られない言葉は“わかる”子達と似ていた。
 女子高生の子は大学に所属していないのに、そう思えば変だなと思った。同時に、生徒と同じように、呼びかけ、うん、そうなの、と声にする者に首を傾げた。

 退屈だったから、静かに観察した。

 煙草の煙を吐くような溜息。

 なるほどな。理解したくないのに、理解できる形に整っている。

 癖になっている言葉は声になり、そうでない言葉は直接伝わっているというところだろうか?本人に確認するなら、松沢教授が良いだろう。

 教授棟へと向かった。

 断罪が続いた時期、生徒との不倫問題が上がった教授が女性と歩いていた。

 おぃおぃ。

 ふざけた様子でからかうように心で皮肉るが、手を繋いで一緒に歩く女性を見れば、戸惑いの後に真顔になった。それは動揺となって、薄い気配が表に立つ。

「いやぁ、三宮くん。最近ね。妻の気持ちが理解できてね。私の気持ちを伝えたところ……こう……」

 照れたように言い訳めいて語る教授の手は、にぎにぎと複数回力を入れられ、二人だけの心の合図のような行動が繰り返されていた。

「それは……良かったですね」

 愛想笑いを向ければ、心からの笑みが向けられた。

 幸せそうな微笑みは、揃っていた。
 本当に幸せそうで、ウットリとお互い見つめあっていた。

「なぁ、付き合ったばかりのようじゃないか?」
「そうね、大学……懐かしい。ふふふっ」

 不倫問題が大学掲示板に書かれた時など、殺し合いが始まるのでは?という勢いで乗り込んできたのが嘘のようだった。

 胸の奥に冷たいものが落ちた。

 松沢教授は部屋に居なかった。
 仕方がない、昼時を迎えていたのだから。

 教授の泥棒?詐欺?問題は、森清正の仲介により収まった。

『家族が納得しているなら、そう言うものなのでしょう。俺達は人の罪をただすには、知識が不足している。それを認めるべきでしょう』

 尤もらしい言葉は、さ~~っと海岸を撫でる波のように広がっていった。

 だけれど、教授は以前と同じように、生徒に接する事は出来なくなった。距離が出来たと言うやつだ。それをきっかけに言葉は伝わらなくなっていた。それがもどかしいのか、生徒の集まる場所に足しげく通っているのだから、何とも言えない気持ちになるというものだ。

 食堂に向かえば、助教授仲間である男性が声をかけてきた。

「……ぁ、えっと、一緒に買いますね」

 一瞬、声に出すと言う行為を忘れていた助教授は、改めて話しかけていた。

「いや、メニューは自分で選びたいんで」

「大丈夫ですよ。メニューは一つしかありませんから」

「えぇ?メニューの多様性が売りだっただろう!!」

 声を大きくして食券販売機の前に向かえば、確かに一つのメニューしか売ってない。

「良いじゃないですか」

「いや、だが、今日の定食はなんだ?」

 食事ではなく松沢教授を探しに来たのを忘れていた。

「何でもいいじゃないですか、皆一緒なんですから」

 学生たちは全員頷いた。

「いいです」「それで」「うん、それがいい」

 声が重なる。
 同じ高さで、同じ柔らかさで。

(……いや、良くねぇだろ)

 三宮は思わず立ち止まった。

 “わかる”とは別、それも美味いの美味くないの、量が多いの少ないの、不満も多い奴等の方へと視線を向けた。

 文句ばかり言っていた学生が、妙に穏やかに笑っていた。

「まぁ、どれでもいいっすよ。なんでも」

(お前、そんな奴だったか?)

 角が取れた、というより――
 削られたように見えた。

 夕方、研究室へ戻る途中、

 廊下を歩く体格の良い三人組。
 庭の配管工事をしている業者が揃って歩いてくる。

 歩幅が揃っている。
 呼吸が揃っている。
 視線の動きまで揃っている。

 まるで、

 ひとつの意識が三つの身体を動かしているみたいだった。

 三宮は煙草を取り出した。

 ……大学の外にも、広がってるのか?

 事務員の娘。
 教授の夫婦仲。
 食堂の職員。
 学生たちの角の消失。
 出入りの業者。
 揃いは、大学の中だけじゃない。
 外へ、外へ、滲み出している。



「いつまで続けるつもりなんだ?」

 三宮が小さく呟いていた。
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