境界の音

迷い人

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2章 囀り

10.清正

 入院中の祖父を見舞った。

 記憶の中の祖父は優しく人に愛される人だった。だが、病院で目にした祖父は家に戻りたいと周囲に荒々しく不満を述べる姿だった。

 周囲の迷惑を顧みず、怒鳴りまくる。

「お爺ちゃん!!止めてよ。周りの人に迷惑がかかる」

「うるさい!!家に帰りたいだけだ。今、早く帰らないと……梅子さんに会えない!!」

 枕に、スマホ、手に届くものを投げつけようとして、慌ててその手を抑えた。

「それは夢だよ。お祖母ちゃんはずっと昔に死んでいる。止めてよ。こんなお爺ちゃん、俺嫌だよ」

「そんなこと、知っている!!分かっている!!……」

 祖父の腕から力が抜け、背を向けた。

 優しい祖父の豹変に驚いた。ショックだった。だけど、今、家に戻られては困る。掛け軸は家にないのだから。

 今の祖父がソレを知ったらどう思うか?だからと言って返す気にはならない。鳥が見えない祖父に、あの価値は分からないのだから。

「お爺ちゃん、俺、行くから。周囲に迷惑かけちゃダメだよ。また来るね」

「そこの菓子を持って行くといい」

「……ありがとう」

 穏やかだった。
 優しい人だった。
 いつだって幸福そうで、その幸せを人に分けていた。

 鳥の影響下にないと、あぁなってしまう……。

 怖くなった。

 バスに乗り、両親にメッセージを送った。

(お爺ちゃん、寂しいみたい)

 そう、アレは寂しいのだ。

 一緒に住めば、祖父は寂しくはないし、皆自分の部屋をもって自分の時間を過ごすことができる。

(そろそろお爺ちゃんと一緒に住むのはどうかな?)

 既読はつくが、返事はない。

「スマホではダメか……」



『あなたの稼ぎが悪いのに、どうしてお義父さんは援助してくれないのよ!!』

 そんな風に言っていた母も喜ぶだろう提案なはずだが、返事はなかった。仕方がない……。

(母さん、お爺ちゃんに菓子を貰ったから店に届けに行くね。皆で食べてよ)

 やはり……既読はつく。が、返事は、来ない。


 大丈夫。俺は自分に言い聞かせた。
 バスを降りて、実家へ向かいながら、父のことを考えた。

 父は静かな人だ——
 不満をぶつけられても、父はいつも黙っている人だった。
 話さない。怒らない。笑わない。
 出世もない。給料も高くない。
 家の中で、空気のように存在を薄めている。

 母は、愚痴が多い人だ。
 でも、家事を一手に引き受け、パートにも出て、近所の面倒もよく見ていた。

 だが、愚痴が多い。

 清正の顔を見ると、その瞬間から愚痴が始まる。

 父の給料が低い。
 父が面白くない。
 父が最近臭い。

 帰りが遅いのは浮気ではないか。
 スーパーの鈴木さんが遅刻した。
 若いバイトに色目を使っている宮田さんが見苦しい。
 店長が不倫している。
 客の子どもが騒いで大変だった。
 あんな親に育てられる子は可哀想だ。

 思い出しただけで頭が痛い。

『それに比べて、あなたは常識を教え込まれているから成功する。感謝しなさいよね』

 終わりのない雨のように、母の声は続く。
 それが――最近揃った。



 母のパート先についた。
 店は以前よりも綺麗に整っていた。
 挨拶が揃っていた。
 動きが揃っていた。

 自分の影響力をはかるために、店を見て回った。
 人は熱心に丁寧に働いている。
 無駄口に時間を浪費することはない。

 良いことだ、と清正は思った。

 店長を見れば、不倫をやめたらしいと分かった。

 誰もが丸く、穏やかに揃っていた。

 店長を前に頭を下げる。

「母さんが世話になっています。これ、皆さんで食べて下さい」

(ありがとう、皆で食べさせてもらうね)

 店長は柔らかく笑って見せた。
 その笑顔は、波ひとつない湖面のようだった。
 清正の心も、静かに凪いでいた。

 祖父の荒ぶる心を前に乱れた気持ちが、穏やかになっていく。これが俺の平和な世界。

 心地よい。

 後ろの方で声が聞こえた。

 母の同僚の息子の嫁が、子どもを連れてやってきた。
 かごいっぱいの商品をレジに通しながら、
 義母である女性に言っていた。

「貴方の息子の稼ぎが悪いから大変なの。これ払っておいてよね」
「えぇ、分かったわ。苦労かけるわねぇ~」

 レジの音だけが、淡々と続いていく。
 周囲の客が顔を見合わせる。次の瞬間、堰を切ったように詰め寄った。

「いいの、アレ?」
「大丈夫?悩みは聞くわよ」

 常連客が心配して声をかける。

「平気よ。仲良くしたいのよ。それに……いつか分かってくれると思っているの」

 驚いたものの常連客はスーパーを後にし、そして人は話をするために集まりだす。

「あの怒りっぽい田中さんが?どうしたのよ」
「あんなことを許すなんて……信じられない」

 清正は、整ったことに満足していた。
 あなたの不幸も、今だけのことです。
 いつか分かりあえる日が来ますよ。

 そう心の中で語り、
 優しい視線を向けた。
 整った。
 これでいい。
 これがいい。

 言葉にしないけれど、母には伝えていた。
 祖父の家で、皆で暮らそうと。
 そうね。母は言葉にせず、わかってくれた。



 だけど――

 その日の夜、変化があった。

 父が母に贈り物をもってきたのだ。
 旅行のパンフレット。
 エステ付きの、少し贅沢な沖縄旅行。

「いつも世話になっているから……これ。清正も大きくなったし、昔みたいに旅行に行かないか?旅費は、その……仕事のあとにバイトして稼いだから、心配はいらない。今までありがとうな」

 父の声は震えていた。
 不器用で、ぎこちなくて、
 でも確かに“父自身”の声だった。

 なんで?!

 その瞬間、
 母の整いの殻が、ぱきりと割れた。

「……うれしい……」

 母は泣いた。
 泣きながら父に抱きついた。
 清正は立ち尽くした。

 静かに整っていたはずの清正の心が、わずかにねじれた。

(……どうして、割れた?)

 父と母の姿は、整いではなく“個性”だった。
 それは温かく、美しく、なのに――清正は痛く感じた。

 整った世界のはずなのに、整いが崩れた。

 清正は、自分の中の“正しさ”が、ほんの少しだけ軋む音を聞いた気がした。

 年甲斐もなく寄り添う両親。お互いを労い、感謝の言葉をかけあう二人。

 心で通じる方がいいのに……なぜ、そんな不確かなものに頼る?

 喉の奥が狭くなる。



 息苦しい。
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