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2章 囀り
11.楽しみ
教授室は、昼の光が薄く伸びていた。
ブラインドの隙間から落ちる線が机の上を撫で、紙の白さだけが妙に際立つ。
松沢教授は、上質な原稿用紙を一枚引き寄せた。指先で紙の端をなぞり、微かなざらつきを確かめた。
万年筆の尻を机に当てる。トントン、と乾いた音が、静まり返った部屋でメトロノームのように正確なリズムを刻んだ。それは思考の歩調というより、獲物を待つ蜘蛛の鼓動のようにも聞こえるのは、不穏な表情を浮かべているためだろう。
「……いいね」
教授の小声。
ボソリとした一言。
なのに、その一言だけは妙にはっきりと部屋に広がっていく。
三宮はソファの端に腰をかけ、膝の上に資料を置いていた。紙束の角は揃っているのに、視線だけが落ち着かない。
松沢教授はそれを見て、わずかに口角を上げる。
研究素材を前に二十歳は若返ったかのように生き生きとしていた。
「君が落ち着かないのもまた現象でしょうね。次の段階に入った証拠……と言うやつです」
松沢教授は笑っていた。
“わかる”の集団から弾かれて、声が届かないと昨日まで嘆いていたのにだ。
呆れ混じりに三宮が息を吐いた。
教授と同じようにテーブルをトントンと当てるのは煙草。
「段階、ですか」
「浅い同調が終わりかけている。揃うことに慣れた人間は、その先で“相性”を選ぶ。……争わずにね」
教授は万年筆を走らせた。紙の上を滑る音が、ひどくよく響く。
一行書いて、止める。トントンと音を立てて考える。
また一行。トントン。
「グループセッションを行って見ましょう。三宮くん任せますね」
教授は視線を上げずに言った。
「私は観測だけ。何しろ記録に忙しいですから」
三宮が資料をめくり、淡々と確認していく。
「思想ごとに集まったグループを分解し、違う者同士を集めテーマを与えて、会話を見る……と?」
「全ては同調の内側にある。だが、種類の違う者同士を同席させたとき、新しい同調は始まるのか?それとも、言語による協調が行われるのか?」
「……それ、結構悪趣味ですよね。同種の同調以外を拒む傾向がみられるんですから」
三宮の声が小さく硬くなる。
松沢教授は、ペン先を紙から離した。
トントン、と指で机を叩く代わりに、今度は万年筆の尻を軽く当てる。
「だから興味深い。分かり合うが、より深い同調に進むことで、通常以上の反発が起こるか、新しい状態に突入するのか」
ふふふふふふ。
教授の純粋なる好奇心に三宮は肩を竦めた。
教授は顔を上げた。目だけが、妙に澄んでいる。
「恐怖の学習が共有されているため、別種のグループ同士では接触を避ける傾向がみられる」
トントン。
「だが、人として生きる以上意見の違いは消えない」
トントン。
「結果は分岐だ。静かな分断。接触の消失。“次”に何がくるんでしょうかね?」
教授が思考に耽りだす。
ドアを叩く音が響く。
三宮が煙草をテーブルに転がし、扉を開く。
「失礼します」
訪れたのは真樹だった。
教授室に入ってきた真樹は、トレイを両手で支え、足音を立てないように歩いた。
真樹が運んできたカップの中の黒い液体が、窓からの光を飲んで静かに揺れている。量産品の厚手の陶器には、場違いなほど長閑な木漏れ日のマークが印字されていた。
「ご注文の……」
三宮がシーと人差し指を立てた。
真樹が机に近づく瞬間、真樹の視線が紙の上に落ちる。万年筆の字は整っているのに、どこか呼吸が早い筆跡だった。
松沢教授は言葉を止めたままだった。
トントン。
一拍置く。
まるで、観測対象が入室したときの癖みたいに。
真樹の脳裏に浮かぶ疑問。
それでも、邪魔をしてはいけないと沈黙を通していた。
「コーヒー、ありがとうございます」
ボソボソとした小さな教授の声。だが、どこか浮かれた様子で早口になっていた。
教授はカップの縁に指を添える。
香りが広がる。
室内の空気が、ほんの一瞬だけ和らいだ。
真樹は軽く会釈し、出ていこうとして、足を止めた。
「……先生」
呼びかけた声が、すぐに続かない。
三宮が真樹を見た。目が合う。
その一瞬、真樹の表情がわずかに固まる。
言おうとしたことが、喉の奥で形を変えるのが分かる。
「……いえ、なんでもないです」
真樹はそう言って、扉を閉めた。
閉まる音が、やけに静かだった。
松沢教授はカップを口元まで運び、飲まずに置いた。
トントン、ともう一度。
「今のだ」
教授は紙に一行書いた。
『観測:非共感状態における再共感の発生条件/言語・身体表現による通常交流への復帰可能性』
三宮は何も言わない。資料の角を指で揃え直した。
教授は、嬉しそうに少しだけ笑う。
「君が回す授業で、もっと綺麗に見える。……さあ、準備しよう」
「ですね……煙草吸ってきます」
三宮は教授のようにこの事態を愉しめてはいなかった。調和の輪の外側にいながら、常に目に見えない針で神経を突き刺されているような、逃げ場のない摩耗に苛まれていた。
廊下に出て、深く息を吸う。
冷えた空気が心地いい。
三宮が煙草を取り出し、ライターを探す。
真樹はその背中に、呼びかける。
「……三宮先生」
振り返った目は、教授室の中よりも現実の温度をしていた。
「これ……戻せるんですか、戻すつもりあるんですか?」
三宮の指が止まる。火のつかない煙草の先を見つめ、ゆっくり息を吐いた。
「……戻したいのか」
「……当然です!」
真樹は言ってしまってから、自分の声の大きさに怯えた。
三宮は、火をつけないまま煙草を持ち替える。
「そのうち壊れるさ。長く続くもんじゃない」
ライターを擦る音が、数回苛立ちのような音を立てて煙草に火がともる。
深く息を吸い、煙が吐かれる。
真樹には、それが苛立ちに見えた。
三宮が何かを嫌がっている。
それだけで真樹は救われ、緊張がゆるむ。
ブラインドの隙間から落ちる線が机の上を撫で、紙の白さだけが妙に際立つ。
松沢教授は、上質な原稿用紙を一枚引き寄せた。指先で紙の端をなぞり、微かなざらつきを確かめた。
万年筆の尻を机に当てる。トントン、と乾いた音が、静まり返った部屋でメトロノームのように正確なリズムを刻んだ。それは思考の歩調というより、獲物を待つ蜘蛛の鼓動のようにも聞こえるのは、不穏な表情を浮かべているためだろう。
「……いいね」
教授の小声。
ボソリとした一言。
なのに、その一言だけは妙にはっきりと部屋に広がっていく。
三宮はソファの端に腰をかけ、膝の上に資料を置いていた。紙束の角は揃っているのに、視線だけが落ち着かない。
松沢教授はそれを見て、わずかに口角を上げる。
研究素材を前に二十歳は若返ったかのように生き生きとしていた。
「君が落ち着かないのもまた現象でしょうね。次の段階に入った証拠……と言うやつです」
松沢教授は笑っていた。
“わかる”の集団から弾かれて、声が届かないと昨日まで嘆いていたのにだ。
呆れ混じりに三宮が息を吐いた。
教授と同じようにテーブルをトントンと当てるのは煙草。
「段階、ですか」
「浅い同調が終わりかけている。揃うことに慣れた人間は、その先で“相性”を選ぶ。……争わずにね」
教授は万年筆を走らせた。紙の上を滑る音が、ひどくよく響く。
一行書いて、止める。トントンと音を立てて考える。
また一行。トントン。
「グループセッションを行って見ましょう。三宮くん任せますね」
教授は視線を上げずに言った。
「私は観測だけ。何しろ記録に忙しいですから」
三宮が資料をめくり、淡々と確認していく。
「思想ごとに集まったグループを分解し、違う者同士を集めテーマを与えて、会話を見る……と?」
「全ては同調の内側にある。だが、種類の違う者同士を同席させたとき、新しい同調は始まるのか?それとも、言語による協調が行われるのか?」
「……それ、結構悪趣味ですよね。同種の同調以外を拒む傾向がみられるんですから」
三宮の声が小さく硬くなる。
松沢教授は、ペン先を紙から離した。
トントン、と指で机を叩く代わりに、今度は万年筆の尻を軽く当てる。
「だから興味深い。分かり合うが、より深い同調に進むことで、通常以上の反発が起こるか、新しい状態に突入するのか」
ふふふふふふ。
教授の純粋なる好奇心に三宮は肩を竦めた。
教授は顔を上げた。目だけが、妙に澄んでいる。
「恐怖の学習が共有されているため、別種のグループ同士では接触を避ける傾向がみられる」
トントン。
「だが、人として生きる以上意見の違いは消えない」
トントン。
「結果は分岐だ。静かな分断。接触の消失。“次”に何がくるんでしょうかね?」
教授が思考に耽りだす。
ドアを叩く音が響く。
三宮が煙草をテーブルに転がし、扉を開く。
「失礼します」
訪れたのは真樹だった。
教授室に入ってきた真樹は、トレイを両手で支え、足音を立てないように歩いた。
真樹が運んできたカップの中の黒い液体が、窓からの光を飲んで静かに揺れている。量産品の厚手の陶器には、場違いなほど長閑な木漏れ日のマークが印字されていた。
「ご注文の……」
三宮がシーと人差し指を立てた。
真樹が机に近づく瞬間、真樹の視線が紙の上に落ちる。万年筆の字は整っているのに、どこか呼吸が早い筆跡だった。
松沢教授は言葉を止めたままだった。
トントン。
一拍置く。
まるで、観測対象が入室したときの癖みたいに。
真樹の脳裏に浮かぶ疑問。
それでも、邪魔をしてはいけないと沈黙を通していた。
「コーヒー、ありがとうございます」
ボソボソとした小さな教授の声。だが、どこか浮かれた様子で早口になっていた。
教授はカップの縁に指を添える。
香りが広がる。
室内の空気が、ほんの一瞬だけ和らいだ。
真樹は軽く会釈し、出ていこうとして、足を止めた。
「……先生」
呼びかけた声が、すぐに続かない。
三宮が真樹を見た。目が合う。
その一瞬、真樹の表情がわずかに固まる。
言おうとしたことが、喉の奥で形を変えるのが分かる。
「……いえ、なんでもないです」
真樹はそう言って、扉を閉めた。
閉まる音が、やけに静かだった。
松沢教授はカップを口元まで運び、飲まずに置いた。
トントン、ともう一度。
「今のだ」
教授は紙に一行書いた。
『観測:非共感状態における再共感の発生条件/言語・身体表現による通常交流への復帰可能性』
三宮は何も言わない。資料の角を指で揃え直した。
教授は、嬉しそうに少しだけ笑う。
「君が回す授業で、もっと綺麗に見える。……さあ、準備しよう」
「ですね……煙草吸ってきます」
三宮は教授のようにこの事態を愉しめてはいなかった。調和の輪の外側にいながら、常に目に見えない針で神経を突き刺されているような、逃げ場のない摩耗に苛まれていた。
廊下に出て、深く息を吸う。
冷えた空気が心地いい。
三宮が煙草を取り出し、ライターを探す。
真樹はその背中に、呼びかける。
「……三宮先生」
振り返った目は、教授室の中よりも現実の温度をしていた。
「これ……戻せるんですか、戻すつもりあるんですか?」
三宮の指が止まる。火のつかない煙草の先を見つめ、ゆっくり息を吐いた。
「……戻したいのか」
「……当然です!」
真樹は言ってしまってから、自分の声の大きさに怯えた。
三宮は、火をつけないまま煙草を持ち替える。
「そのうち壊れるさ。長く続くもんじゃない」
ライターを擦る音が、数回苛立ちのような音を立てて煙草に火がともる。
深く息を吸い、煙が吐かれる。
真樹には、それが苛立ちに見えた。
三宮が何かを嫌がっている。
それだけで真樹は救われ、緊張がゆるむ。
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