境界の音

迷い人

文字の大きさ
30 / 67
2章 囀り

11.楽しみ

 教授室は、昼の光が薄く伸びていた。
 ブラインドの隙間から落ちる線が机の上を撫で、紙の白さだけが妙に際立つ。
 松沢教授は、上質な原稿用紙を一枚引き寄せた。指先で紙の端をなぞり、微かなざらつきを確かめた。

 万年筆の尻を机に当てる。トントン、と乾いた音が、静まり返った部屋でメトロノームのように正確なリズムを刻んだ。それは思考の歩調というより、獲物を待つ蜘蛛の鼓動のようにも聞こえるのは、不穏な表情を浮かべているためだろう。

「……いいね」

 教授の小声。
 ボソリとした一言。

 なのに、その一言だけは妙にはっきりと部屋に広がっていく。

 三宮はソファの端に腰をかけ、膝の上に資料を置いていた。紙束の角は揃っているのに、視線だけが落ち着かない。

 松沢教授はそれを見て、わずかに口角を上げる。
 研究素材を前に二十歳は若返ったかのように生き生きとしていた。

「君が落ち着かないのもまた現象でしょうね。次の段階に入った証拠……と言うやつです」

 松沢教授は笑っていた。

 “わかる”の集団から弾かれて、声が届かないと昨日まで嘆いていたのにだ。

 呆れ混じりに三宮が息を吐いた。
 教授と同じようにテーブルをトントンと当てるのは煙草。

「段階、ですか」

「浅い同調が終わりかけている。揃うことに慣れた人間は、その先で“相性”を選ぶ。……争わずにね」

 教授は万年筆を走らせた。紙の上を滑る音が、ひどくよく響く。

 一行書いて、止める。トントンと音を立てて考える。
 また一行。トントン。

「グループセッションを行って見ましょう。三宮くん任せますね」

 教授は視線を上げずに言った。

「私は観測だけ。何しろ記録に忙しいですから」

 三宮が資料をめくり、淡々と確認していく。

「思想ごとに集まったグループを分解し、違う者同士を集めテーマを与えて、会話を見る……と?」

「全ては同調の内側にある。だが、種類の違う者同士を同席させたとき、新しい同調は始まるのか?それとも、言語による協調が行われるのか?」
「……それ、結構悪趣味ですよね。同種の同調以外を拒む傾向がみられるんですから」

 三宮の声が小さく硬くなる。

 松沢教授は、ペン先を紙から離した。
 トントン、と指で机を叩く代わりに、今度は万年筆の尻を軽く当てる。

「だから興味深い。分かり合うが、より深い同調に進むことで、通常以上の反発が起こるか、新しい状態に突入するのか」

 ふふふふふふ。

 教授の純粋なる好奇心に三宮は肩を竦めた。

 教授は顔を上げた。目だけが、妙に澄んでいる。

「恐怖の学習が共有されているため、別種のグループ同士では接触を避ける傾向がみられる」

 トントン。

「だが、人として生きる以上意見の違いは消えない」

 トントン。

「結果は分岐だ。静かな分断。接触の消失。“次”に何がくるんでしょうかね?」

 教授が思考に耽りだす。
 ドアを叩く音が響く。
 三宮が煙草をテーブルに転がし、扉を開く。

「失礼します」

 訪れたのは真樹だった。

 教授室に入ってきた真樹は、トレイを両手で支え、足音を立てないように歩いた。
 真樹が運んできたカップの中の黒い液体が、窓からの光を飲んで静かに揺れている。量産品の厚手の陶器には、場違いなほど長閑な木漏れ日のマークが印字されていた。

「ご注文の……」

 三宮がシーと人差し指を立てた。

 真樹が机に近づく瞬間、真樹の視線が紙の上に落ちる。万年筆の字は整っているのに、どこか呼吸が早い筆跡だった。

 松沢教授は言葉を止めたままだった。

 トントン。
 一拍置く。

 まるで、観測対象が入室したときの癖みたいに。

 真樹の脳裏に浮かぶ疑問。
 それでも、邪魔をしてはいけないと沈黙を通していた。

「コーヒー、ありがとうございます」

 ボソボソとした小さな教授の声。だが、どこか浮かれた様子で早口になっていた。

 教授はカップの縁に指を添える。

 香りが広がる。
 室内の空気が、ほんの一瞬だけ和らいだ。

 真樹は軽く会釈し、出ていこうとして、足を止めた。

「……先生」

 呼びかけた声が、すぐに続かない。

 三宮が真樹を見た。目が合う。
 その一瞬、真樹の表情がわずかに固まる。
 言おうとしたことが、喉の奥で形を変えるのが分かる。

「……いえ、なんでもないです」

 真樹はそう言って、扉を閉めた。

 閉まる音が、やけに静かだった。

 松沢教授はカップを口元まで運び、飲まずに置いた。

 トントン、ともう一度。

「今のだ」

 教授は紙に一行書いた。

『観測:非共感状態における再共感の発生条件/言語・身体表現による通常交流への復帰可能性』

 三宮は何も言わない。資料の角を指で揃え直した。
 教授は、嬉しそうに少しだけ笑う。

「君が回す授業で、もっと綺麗に見える。……さあ、準備しよう」

「ですね……煙草吸ってきます」

三宮は教授のようにこの事態を愉しめてはいなかった。調和の輪の外側にいながら、常に目に見えない針で神経を突き刺されているような、逃げ場のない摩耗に苛まれていた。

 廊下に出て、深く息を吸う。
 冷えた空気が心地いい。

 三宮が煙草を取り出し、ライターを探す。
 真樹はその背中に、呼びかける。
「……三宮先生」

 振り返った目は、教授室の中よりも現実の温度をしていた。

「これ……戻せるんですか、戻すつもりあるんですか?」

 三宮の指が止まる。火のつかない煙草の先を見つめ、ゆっくり息を吐いた。

「……戻したいのか」
「……当然です!」

 真樹は言ってしまってから、自分の声の大きさに怯えた。
 三宮は、火をつけないまま煙草を持ち替える。

「そのうち壊れるさ。長く続くもんじゃない」

 ライターを擦る音が、数回苛立ちのような音を立てて煙草に火がともる。

 深く息を吸い、煙が吐かれる。

 真樹には、それが苛立ちに見えた。
 三宮が何かを嫌がっている。
 それだけで真樹は救われ、緊張がゆるむ。
感想 4

あなたにおすすめの小説

心霊タクシーでおかえりなさい

黄鱗きいろ
ホラー
十八歳の少女、凪は、 心霊タクシーの噂を頼りに片田舎のロータリーを訪れる。 そこで出会った心霊タクシーの運転手に 凪は札束を突きつけて頼み込んだ。 「お願いします。このお金で、行けるところまで私を連れて行ってください! 両親を探してるんです!」 おっさん運転手と訳あり少女の 優しくて少し哀しい心霊譚。 ※他サイトにも掲載しています。

「お前のカメラ、ずっと映ってるよ」〜ホラースポット配信者が気づいた時には、もう遅かった〜

まさき
ホラー
ホラースポット専門のYouTuber・桐島悠は、霊も怪異も一切信じない合理主義者だ。 ある廃病院での配信中、今まで感じたことのない「違和感」を覚えた。しかし撮影は無事終了。その後も普通に配信を続け、あの夜のことなど忘れかけていた頃——深夜、金縛りにあう。 疲れてるだけだ。 しかし、それは始まりに過ぎなかった。 記憶の空白。知らない足跡。動画に毎回映り込む、同じ女の姿。そして——「やっと、見つけた」という声。 カメラが映し続けていたのは、心霊スポットではなかった。もっとずっと、近いところにいるものだった。

愛していました。待っていました。でもさようなら。

彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。 やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

私がみた夢の話を誰かきいてくれませんか?※これはあくまでフィクションです。

芝 稍重
ホラー
私は子供の頃から夢日記を書いています。 この話には続きがありますが、ここでは書きません。この話でピンときた人は、コメント欄で知らせてほしいです。 (※このあらすじは、本文にでてくる「夢日記」投稿当時のものを復刻した内容です) 表紙はぱくたそのフリー写真です

お二人共、どうぞお幸せに……もう二度と勘違いはしませんから

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【もう私は必要ありませんよね?】 私には2人の幼なじみがいる。一人は美しくて親切な伯爵令嬢。もう一人は笑顔が素敵で穏やかな伯爵令息。 その一方、私は貴族とは名ばかりのしがない男爵家出身だった。けれど2人は身分差に関係なく私に優しく接してくれるとても大切な存在であり、私は密かに彼に恋していた。 ある日のこと。病弱だった父が亡くなり、家を手放さなければならない 自体に陥る。幼い弟は父の知り合いに引き取られることになったが、私は住む場所を失ってしまう。 そんな矢先、幼なじみの彼に「一生、面倒をみてあげるから家においで」と声をかけられた。まるで夢のような誘いに、私は喜んで彼の元へ身を寄せることになったのだが―― ※ 他サイトでも投稿中   途中まで鬱展開続きます(注意)

老聖女の政略結婚

那珂田かな
ファンタジー
エルダリス前国王の長女として生まれ、半世紀ものあいだ「聖女」として太陽神ソレイユに仕えてきたセラ。 六十歳となり、ついに若き姪へと聖女の座を譲り、静かな余生を送るはずだった。 しかし式典後、甥である皇太子から持ち込まれたのは――二十歳の隣国王との政略結婚の話。 相手は内乱終結直後のカルディア王、エドモンド。王家の威信回復と政権安定のため、彼には強力な後ろ盾が必要だという。 子も産めない年齢の自分がなぜ王妃に? 迷いと不安、そして少しの笑いを胸に、セラは決断する。 穏やかな余生か、嵐の老後か―― 四十歳差の政略婚から始まる、波乱の日々が幕を開ける。

【奨励賞】初恋のその先で、私は母になる

妄夢【ピッコマノベルズ連載中】
恋愛
第19回恋愛小説大賞にて、奨励賞を受賞いたしました。読者の皆様のおかげです!本当ありがとうございます。 王宮で12年働き、気づけば28歳。 恋も結婚も遠いものだと思っていたオリビアの人生は、憧れの年下公爵と一夜を共にしたことで大きく動き出す。 優しく守ろうとする彼。 けれどオリビアは、誰かに選ばれるだけの人生を終わらせたいと思っていた。 揺れる想いの中で、彼女が選んだのは―― 自分の足で立ち、自分の未来を選ぶこと。 これは、一人の女性が恋を通して自分を取り戻し、母として、そして一人の人間として強くなっていく物語。 ※表紙画像はAI生成イラストをつかっています。

出来レースだった王太子妃選に落選した公爵令嬢 役立たずと言われ家を飛び出しました でもあれ? 意外に外の世界は快適です

流空サキ
恋愛
王太子妃に選ばれるのは公爵令嬢であるエステルのはずだった。結果のわかっている出来レースの王太子妃選。けれど結果はまさかの敗北。 父からは勘当され、エステルは家を飛び出した。頼ったのは屋敷を出入りする商人のクレト・ロエラだった。 無一文のエステルはクレトの勧めるままに彼の邸で暮らし始める。それまでほとんど外に出たことのなかったエステルが初めて目にする外の世界。クレトのもとで仕事をしながら過ごすうち、恩人だった彼のことが次第に気になりはじめて……。 純真な公爵令嬢と、ある秘密を持つ商人との恋愛譚。