境界の音

迷い人

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2章 囀り

12.境界

 助教授の三宮は、黒板に大きく一言だけ書いた。

『境界』

 チョークの粉がふわりと舞い、三宮は生徒たちを振り返る。
 その鋭い視線と続く言葉が、学生たちの“心地よい同調”をわずかに揺らした。

「境界は、争いを避けるための線引きだ。踏み越えた瞬間に歪みが生まれる。……君たちにとっての境界がどこにあるのか、語り合ってみろ。答えに正解はない。それぞれの心の中にある」

 低い声でそう言いながら、三宮の視線は生徒たちの後ろ――松沢教授へと向けられた。

 本当に進めるんですか?
 そんな声なき訴えが、わずかに滲む。

 しかし松沢教授は、子どものように目を輝かせているだけだった。

 生徒側はと言えば、いつものように「わかる~」という軽い声は上がらない。
 生徒達の表情には、不安が浮かんでいた。
 
 言われた内容は理解できる。
 だが、今このテーマを“深く考える”ことが、どこか恐ろしい。
 そう思えば、いつもの言葉は簡単には出てこなかった。

 

 学園内ではすでに「知りたい」「知ってほしい」という表面的な理解の段階は過ぎ、
 もっと深い、個人同士の“内側”に触れる理解へと向かっていた。
 
 かつてあった、溶けるような一体感は失われ、
 今は価値観ごとに小さな集団が生まれ、他との交流を避け始めている。



 三宮は名前を呼び、3~4人の混合グループを作らせた。
 そこには、彼らが“わかる”と感じる相手はいない。

「先生!!嫌です!」

「そうだ」「嫌だ」「ありえない」「無理」

 同調しきれない音が続くが、三宮は聞き流す。
 拒絶の声が波紋のように広がる。

「分かり合える人間とだけ生活できるほど、世の中は甘くない。失敗が許される学生のうちにやっておけ。それに、前は普通に話していただろう?」

 三宮の声も視線も穏やかだった。



 真樹も、そのグループの一つに入れられていた。
 真樹の目の前だけでなく、教室全体が沈黙していた。

 1分、2分、4分、8分……
 誰もが姿勢を正したまま、沈黙が続く。
 “わかる”がそこにないのは、避けるような視線と固い表情から明らかだった。

 わからない私が、このグループで一番“わかっている”ように思えるのが、おかしかった。



 三宮は呆れたように頭をかき、口を開く。

「お互い、自分の意見を“分かるように”書き出せ。それを共有して、同意できるところを箇条書きにしろ。そこからレポートを仕上げろ」

 その言葉に、生徒たちは遠く離れた“自分の輪”を探すように視線をさまよわせ、
 わかりあおうとする仲間を探していた。



「付き合ってられるか!」

 不遜な態度の男子学生が、挑発的に言い放つ。

「俺から言わせてもらう。嘘をつく奴は許せない。嘘だと分かった瞬間、頭に血が上る。侮られた気がしてな。……じゃあ、お前らも話せよ。ちまちま書いてる時間がもったいないだろ。誰にだってあるだろ、触れられたら頭に来ることの一つや二つ」

 それでも、誰も口を開かない。
 真樹も黙っていた。
 麻生と名乗った男は足を組み、ニヤニヤと笑いながらテーブルを叩き始める。

「は、や、くぅ! は、や、くぅ!」

 別のテーブルでも、彼の仲間が同じように叩き始めた。
 机を叩く音が、同じタイミングで重なっていく。

 グループは分かれていても、
 “同調できる相手”同士の安心感はまだ残っているのだろう。
 彼らは自信満々だった。

 他の学生たちは紙とペンを前に、今も動けずにいた。
 書こうとしては消し、また書こうとしては止まる。



 運悪く、真樹は麻生と視線があった。
 ニヤリとした表情が向けられる。

「なぁ、あんたさ。一人なんだろ? えっと……榊、真樹だっけ? 一人って不安? あんたの境界はどこよ。せめて考えるくらいしたらどうだ?」

 ニヤニヤと麻生は笑う。

 真樹は視線を落とし、首を傾げ、そして麻生と視線を合わせることなく静かに答えた。

「そう、……ですね。私は“決めつけられること”に境界を覚えます。
 境界、限界という決めつけ。『お前はそこにいろよ、俺はここだ』と、あなたは今、私とあなたの間に線を引きました。それこそが境界だと思います」

「はんっ! 屁理屈だな」

「人の意見を聞きたいのなら、その脅すような態度をやめてください。それもまた決めつけです。私の心を侵害しています。私は、あなたの嫌う“嘘”はついていません。ですから、あなたも私の境界を踏み越えないでください」

 言い切った瞬間、周囲の視線が一斉に真樹へ向けられる。


 真樹は――ヒビが入るかのような音を感じた。
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