境界の音

迷い人

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2章 囀り

15.蝶に焦がれる花

 あのグループセッションの日から、三日が経っていた。

 麻生は一人で現れては「自分を認めろ」と噛みついてくる。  
 けれど言い合いになると、どこからか“同調可能な誰か”が寄ってきて、今度は麻生のほうが逃げるように去っていく。

 木漏れ日の穏やかな空気。  
 コーヒーの香りに身を任せたいのに、なぜか――三宮の声が、聞くつもりもないのに耳に入ってくる。  
 逆に気になって仕方がなくなる。

 偉い人からお叱りを受けたらしい三宮が、コーヒーを飲みながら酔ったようにグダグダ言っていた。  
 向かいにいるのは吉野教授。

「ご苦労さま。松沢教授は悪い人じゃないんだ。欲望に正直なだけでね。面白い人だよ」

 そんなことを言うから、三宮が拗ねたようになっていて、それが少し面白かった。

「面白くねぇよ。それに、訳の分からない親からの苦情も入ってさ……」

 三宮の顔が真顔になる。

 “お叱り”と言うには曖昧な内容だった。  
 娘が悩んでいて可哀そうだ。せっかく良い友だちもできたのに……良い子なの、本当に良い子なの、余計なことをしないで――というもの。

「嫌な感じだろう」

「ですね。“良い子であってほしい”と聞こえます」

 三宮は火のついていない煙草を弄び、口にくわえる。  
 火をつける気はない。  
 それでも手放せないようだった。

 不穏な会話。  
 そこへ来店を告げる鈴の音。

 視線を上げると、丁野翔――大学の卒業生で、喫茶店での仕事を教えてくれた先輩がいた。

 翔は声を出さず、軽く手を上げてカウンター席に座る。

 窓から差し込む日差しがカウンターを照らす。  
 食器の触れ合う小さな音や、遠くの会話が眠たげに店内へ溶けていき、物騒な会話を穏やかな日常へと引き戻した。

 私は注文を取りに行く。

「翔先輩、お久しぶりですね。お元気でしたか?」

「本当、久しぶりだね。色々と忙しくて……ようやく美味しいコーヒーを飲む余裕ができたって感じかな?」

「おつかれさまです。いつものでいいですか?」

 以前と変わらない笑みを交わす。

「それで頼むよ。久しぶりの故郷の味楽しみだな。それより、随分と忙しそうだな」

 揃いによる集団化の影響で、数人のバイトが辞めていた。

「そうですね」

 私は短く答えた。  
 心配をかけたくなかったから。

 それでも、小さく笑みを浮かべる。  
 私にとっての“木漏れ日の日常”が、ようやく実感できたから。

 店長が翔の“いつもの”を作っている間、私は店内をくるくると巡った。

 三宮と吉野教授はまだテーブルでグダグダしている。  
 苦笑しながらお代わりに対応する。

 通りすがりに聞こえたのは「喫茶店の空気は生徒の数に比例しているみたいだ」という言葉。  
 興味はあるけれど、仕事優先で動く。

 何件目かの来店を告げる鈴の音。  
 不意に、空気が変わった。

 あれは……。

 学部は違うが、同じ大学の女性たち。  
 柔らかい色の服、曖昧な笑み。  
 店に入った瞬間、そこだけ空気がふわりと甘くなった気がした。

 その中にひとり、見覚えのある顔が混ざっていた。

 花沢紀香。

 翔先輩が私の教育係に選ばれた頃、初めて声をかけられた相手だ。

『彼、私の幼馴染なの。私が一番彼のことを理解してるんだからね。彼にちょっと優しくされたからって調子に乗らないでよね。彼は誰にでも優しいの。傷つくのは貴方よ』

 その言葉に矛盾を感じたけれど、追求する気にはならず頷いたのを覚えている。

 翔先輩が卒業するまで、定期的に声をかけられた。  
 “翔先輩のことを聞かせて”と。

 友達という感じではなく、不思議な関係だった。  
 翔先輩の卒業とともに、それは終わった。

「いらっしゃいませ。お席にご案内します」

 視線は合うが、特別な挨拶はない。  
 私は彼女たちをボックス席へ案内した。

「ぁ……」

 紀香がカウンターの翔先輩に気づいたらしい。  
 その瞬間、揃っていた表情が乱れたように見えた。

「真樹ちゃん」

 店長が私を呼ぶ。  
 店長の側には、翔がバイト時代から好物だった“木漏れ日サンドイッチ(Max)”とコーヒーが準備されていた。

「お待たせしました」

「ようやくこの懐かしい味にありつける」

 サンドイッチを手に持ち、翔先輩は私に視線を向ける。

「大げさですよ」

 先輩は一口食べ、少し真顔で聞いてきた。

「大学、相変わらずなのか?」

「相変わらずならいいんですけどね。ちょっと変わった空気が漂っているって感じです」

「ふぅ~ん」

 視線は向け切らないが、紀香のことを気にしているらしい。  
 戸棚のガラス越しに彼女を見ていた。

「花沢紀香とは……その、付き合いはあったか?」

 付き合いというか、時折の会話は“翔先輩には言うな”と言われていた。

「何度か会話した程度ですね。どうかしたんですか?」

「いや、彼女の母親から“様子を気にかけてほしい”って言われてさ。でも子供の頃と違って、今はほぼ付き合いがないからなぁ……。で、その“大学の空気が変”っていうのは、彼女にも関係が?」

「ありますね」

 嘘をつく必要もない。

 ボックス席の紀香たちには、別のバイトが水とおしぼりを出していた。

 感じる視線。  
 振り返れば、誰も見ていない。  
 戸棚のガラス越しには、紀香と“揃い”の女性たちがこちらを見ていた。

 揃って見えるのに、彼女たちは言葉で補っている。

「注文をお願いできますか?」

 少し距離のある私に声がかかる。

「はい」

「ねぇ、何を話していたの?」

 ふわふわ女子の代表が、柔らかな声で聞いてくる。

「何のことでしょう?」

「彼のことよ。少しは分かりなさい」

「先輩後輩としての他愛ない会話ですよ」

 紀香はいらだつ様子で、声を抑えて責めてくる。

「他愛ないって何よ」

「特に意味のない言葉の応酬ですね」

 “あなたのことを気にしていましたよ”なんて言葉は、翔先輩も望んでいないだろうと口を閉ざした。

 丁野翔に向けられる視線。  
 私に向けられる嫉妬らしき感情。

 大人しいと思われていた“ふわふわ女子集団”は、“わかる~”の言葉もなく視線を交わし合い、じれったそうにしている。

 そして、わずかな間をおいて、穏やかな表情になった。

「あぁ、そう、そうなのね」  
「わかるわ」  
「大変だったわね」  
「可哀そうに」

 そして代表は言った。

「彼をこの席に呼んでくれないかしら?」

「私がですか?」

「他に誰がいるの?」

「えっと、そういうお店ではないのですが」

 言いながら、“どういうお店なんだろう?”と考えてしまう。

「どんなことどうでもいいのよ。私たち、彼とも分かり合いたいの」

 代表の言葉に、紀香は「ぇ?」と小さく呟いた。  
 揃いが乱れたのだろう。  
 お互いが顔を見合わせている。

「そういうものでしょう?」

 代表の言葉に、紀香以外が頷いた。

「そうね、私たちはわかりあっているんですもの」

 紀香の戸惑いは、居心地の良い揃いを乱す。

「っ……」

 紀香は顔をしかめ、頭を押さえた。

「大丈夫ですか?」

 私は一応声をかけたが、代表に遮られた。

「そんなことより、彼を呼んできて」

「ですから……」

「呼んできて」

 不毛な繰り返し。

「お客様に迷惑をかけられません」

「お客様? あなたの大切な人なんでしょう。分かるの。あなたの纏う空気が言っている」

 ふわふわとした代表は微笑み、私もまた微笑みで返す。

「大学だけでなく、バイトの先輩ですからね」

 曖昧な応酬は、根負けを狙っているようだった。

 そのやり取りがじれったいのか、紀香が小さく、しかし低い声で言う。

「私の気持ち知っているんでしょう。どうして、貴方は……わかってくれないの」

 苛立ちの混ざる声。

「わかっていますけど、それは――」

 “私に向ける言葉なのですか?”  
 そう問いかける前に、翔先輩が来た。

 私の教育係らしく、私を一歩下がらせ、前に出る。

「彼女に何か?」

 凛とした、責任感のある表情で、紀香たちに向き合っていた。


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