境界の音

迷い人

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2章 囀り

17.境界の情景

 初めてのことだった。  
 定休日の夜に、木漏れ日が“違う顔”を見せたのは。

 昼間は太陽の光が窓から差し込み、観葉植物の隙間を抜けて柔らかく店内に落ち、穏やかな空気を作り出している。

 けれど、深夜に近い今は違う。  
 ランプの灯りだけが、店内を揺らしていた。

 風も吹かない室内でランプが揺れれば、灯りも揺れ動く。

 喫茶店としての表情は失われ、バーのような薄暗闇の中で、客人たちは静かに語り合っている。

 酒は客人の持ち込みで、私はと言えば、グラスと作り置きのつまみを持って歩くだけ。

 不思議な雰囲気。  
 場の空気。

 その空気を崩さないように、私は静かにテーブルを回った。  
 ゆったりと流れる曲に歩幅を合わせるようにして。

 客人たちの輪郭はうまく結ばれない。  
 姿は誰ひとり、はっきりと記憶できない。  
 声は音として認識できるのに、言葉は聞き取れない。

 そんな中、松沢教授、吉野教授、三宮の声だけがはっきりと耳に届く。  
 だからテーブルを回った後は、自然とその場所に戻ってしまう。

「おつかれ」

 小さな声で三宮がグラスを掲げて労う。

 私はテーブルに身体を預けるようにして、三宮の側を“居場所”としていた。  
 そこが一番落ち着くから。

 私は三宮にひそひそと尋ねる。

「酔ってる?」

 無言の苦笑いで、三宮は頷いた。

 松沢教授は、吉野のメモを指先で持ち上げ、面白そうに目を細める。  
 ボソボソと独り言のようにつぶやき、ふらりと音楽に揺れながら酒に口をつける。

「さて……今後どうなっていくんでしょうかねぇ……」

 吉野教授はメモを閉じ、ゆっくりとグラスを揺らした。

「ええ、本当に。人の心は、どうなっていくんでしょうね」

 耳に届く言葉は、繰り返しているのに、意味がわずかにずれている。

 私は小さく笑う。

「恋愛感情が同調を破る。民俗的にはね、場を守る存在って、必ず外側に立っているんですよ」

「興味深いのはそこではなくてね」

 吉野は松沢の言葉を聞いていない顔で、グラスを傾けた。

「不安を共有することで集団が結束する。これは人間の本能に近い。むしろ囀りがなくても、条件が揃えば同じことが起きる可能性がある」

「条件、ね」

 松沢も吉野の言葉を聞いていない顔で、メモの別の箇所を指で叩く。

「声が揃う。身体が揃う。これは場に何かが満ちているからです。民俗的には――」

「同調が破れた後、自発的に戻ろうとする。これは依存ではなく――」

 二人の声は静かに重なっているのに、会話にはなっていない。

 くすっと笑うと、三宮が私を見た。

「会話、なってないよな」

 小さな声でそう言って、三宮も音を立てずに笑った。

「ねっ」

 私は小さく返し、二人の様子を眺める。

 教授たちは現象を全部知っている。  
 声が揃うことも、身体が揃うことも、田村店長が影響を受けないことも。

 なのに、重要な言葉が出てこない。

 ――囀り。

 現象の主で、ツガイの鳥のような存在。

 話を聞けば聞くほど、二人の関心は『囀り』という存在そのものから離れ、現象ばかりへ向かっていく。

 私は三宮の肩を軽く指で突き、耳元に唇を寄せて聞いた。

「教授たちには、鳥のことを伝えていないの?」

 言われて三宮もその事実を初めて思い出したらしく、“あっ”と小さく声を漏らした。

 二人で教授たちを見ると……白熱していて、声をかけにくい。  
 視線だけで「どうするの?」と聞けば、三宮は肩をすくめた。

「場を維持する者は外側にいんだよぉ~!!  
 田村君がいい例だ。あの男、依り代に近い性質を持っている。  
 この現象の主もそうだ。そうに決まっている。なぁ、そう思う……だろう……」

 ふらふらと松沢教授が揺れていた。

「松沢教授、大丈夫ですか? 真樹、水をもらえるか?」

 椅子から倒れそうになる松沢教授を三宮が支え、私は水を注いで飲ませる。  
 三宮は空いたソファ席に教授を寝かせ、私たちは静かに音楽と、言葉にならない音に耳を傾けた。

 三宮は煙草を指で弄びながら時計を見る。  
 吉野教授は、静かに琥珀色の酒を口にしていた。

「いいね、美味しい酒だ。何か聞きたいことがあるのではありませんか?」

 吉野教授が私に問いかける。

「それは……えっと、田村店長って、囀りの影響を受けていないですよね」

「あぁ、影響を受けているようには見えませんよね」

 試すように“囀り”という言葉を混ぜてみたが、吉野教授は当たり前のように聞き流した。

「でも店の中には、影響が来ていますよね」

「そうですね」

「なのに店が完全にはおかしくならないのは……店長がいるから?」

 吉野教授は小さく笑った。

「松沢教授の説明が、少し分かりづらかったようですね。  
 そう、田村店長は“当事者の外”にいる。  
 現象が内側に入ってきても、彼の場は崩れない。そういうことです」

「変ですよね。店の中にいるのに、外にいる?」

「ええ。現象の外にいます。囀りに対しては……」

 その先に何があるのだろう。

 店のあちこちで交わされる、聞こえそうで聞こえない声。  
 そのざわめきに、背筋が寒くなった。
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