境界の音

迷い人

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2章 囀り

18.推論

 空は青かった。  
 風は冷たい。

 学園内の中庭にあるベンチに座り、私は空を見上げていた。  
 あの日見た、空色の鳥がまた姿を見せないかと思って。

 カァ――。

 まるで「いるぞ」と告げるように、カラスが鳴いた。  
 その声に合わせて、周囲のカラスたちが一斉に飛び立つ。

 黒い羽ばたきの群れの中に、空の蒼さがひと筋混ざっている。  
 見えないのに、そこに“いる”と分かる。  
 留まっているのだと、確信できる。

 三宮から渡された資料によれば、あの鳥は渡り鳥――  
 異常が起こる前に去る存在だという。

 なのに、なぜ去らないのだろう。

 真樹が見ている世界は、いつだって“自分とは別の集団”のものだった。  
 だからこそ、これまで自分と他人との違い、隔たりを、特別な出来事として捉えてこなかった。  
 ずっと、そうした空気の中にいたから。

 内側にいる人たちもまた、ただ居心地のよさや仲のよさの延長として、  
 自然に“今”を受け入れているのだろう。  
 今も、そしてこれから先も。

 きっとこのまま、そういうものとして進んでいく。  
 私も、そういう人間として受け入れてしまう――

 違う。  
 違う、違う、違う。

 違った。

 教授たちの会話を聞いたとき、背筋に走ったざわつき。  
 あれは、ただの空気や関係性ではなく、  
 “異常な現象”そのものだったのだ。

 ずっと、そういうものだと思い込もうとしていた。  
 自分がうまく馴染めないだけで、内側にいる人たちは心地よさの延長として受け入れているのだと。

 けれど、それが性質や相性の問題ではないのなら――  
 切り分けられるのなら――

 この気味の悪さを、曖昧なまま飲み込む必要はないのかもしれない。

 空を舞っていたカラスたちは、やがて木々の上へ戻っていった。

 静かだった。  
 人は行き交っているのに、声は相変わらずない。

 真樹は小さく息を吐き、教授棟へ向かって歩き出した。





 松沢教授の部屋――。

 いつもより歩く速度が速かった。  
 胸の奥に熱がこもり、鼓動が落ち着かない。

 扉の前で呼吸を整えていると、中からドアが開いた。

「どうした? いつまでも入ってこないで。用事があるんだろう?」

 三宮が軽く笑って声をかけてきた。  
 けれど私は、笑い返す余裕がなかった。

「教授に、お話があります!」

「今日は――」

 三宮の制止を押し切り、私は半ば強引に部屋へ踏み込んだ。

「……お話が、あります」

 声を荒げないように、必死で自分を抑える。

 松沢教授はソファに深く沈み、こめかみを押さえていた。  
 机の上には飲みかけの水と、開いたままのノート。

「おや、榊君……。今日はまた、ずいぶんと……あれ、アレだね……。あ~、水、取ってもらえるかな」

 真樹の覚悟とは裏腹に、教授はソファに溶けてしまいそうなほど緩かった。

 深呼吸をひとつ。  
 私はテーブルの水を教授に渡し、そのまま切り込む。

「松沢教授。この現象は、どこで起こっているんですか?」

 教授は頭を押さえたまま、ゆっくりと顔を上げた。

「どこ、とは……大学全体に広がっているでしょう。範囲で言えば――」

「違います」

 私は遮った。

「範囲じゃなくて、起点です。どこから始まっているのかを聞いています」

「……起点、ね。それはまた難しい質問だ。現象というのはね、範囲が先にあって――」

「教授」

「――起点を特定するには、まず広がりの形を見なければ――」

「教授っ」

 教授は気持ちよさそうに話を続ける。  
 三宮が小さく息を吐いた。

「……榊、諦めろ。二日酔いの教授に起点の話は無理だ」

 教授は二日酔いの薬を飲み、視線を上げた。

「失礼だな。私に起点の話が無理なのではなく、まだ情報が揃っていないだけだよ」

 ふらついた様子なのに、その笑みだけは――  
 まるで獲物を見つけた捕食者のようだった。



 私は、範囲としての状況調査を任されていた。

 “わかる”“揃う”“読める”“集団化の変化”  
 そうした事象に、どんな人間が囚われているのか――  
 それを調べてこいという指示だった。

「さすがに、榊一人じゃ無理ですよ」

「いや、傾向は出ているよ。教授側は大きな影響はない。特に理系、体育系は、一部の講師が初期の理解力が高まって指導しやすい、という程度だ。逆に学生課の事務員には影響が大きく、教務課には少ない」

 二日酔いのせいか声はぼそぼそなのに、内容だけは妙に明瞭だった。

「ちょっと待ってください」

 三宮が大学構内の地図をネットから引っ張り出す。

「まったく、今の若いものは何でもかんでも……」

 教授のぶつぶつは無視して、三宮はポイントを地図に落としていく。

「俺の認識だが……理系の生徒には“わかる”現象は、文系ほど強く及んでいないな」

 除外ポイントが浮かび上がる。

「体育会系はもともと仲間意識が強いので分かりにくいですが、別物でしょうね」

 完全に無影響ではないが、“わかる”程度で留まっている。

 そうして地域を分けていくと――

 食堂、文系教室、学生課。  
 その出入りが多い人々に影響が強い。  
 特に食堂は顕著だった。

 だけど。

「食堂が原因なんですか?」

「いえ……それより――」

 三宮が線を引いていく。  
 食堂、文系教室、学生課、広場。  
 影響の大きな場所を繋ぐと、自然と囲まれる形になる地点があった。

 図書館だ。

 学生が出入りする場所のひとつ。  
 なのに、職員も利用者も――揃っていない。

 影響の枠の中にあるのに、影響されていない。

「こっちの方が、怪しくありません?」

 私は図書館を指差した。





 榊真樹による観測記録・抜粋

 対象:学内における現象分布の偏り  
 観測日時:〇月〇日 午前九時頃~午後六時頃

 記録:
 当該現象は大学全域に均一に出現しているわけではなく、明確な濃淡を伴って分布している。  
 影響が比較的強く確認されたのは、文学系校舎、図書館、食堂、学生課、広場を含む一帯である。  
 とくに文学系学生の動線と重なる他学科の生徒には、発話の変調、判断の遅延、落ち着きの欠如など、軽度ながら共通した反応が複数認められた。

 一方、教授棟における影響は限定的であり、理系校舎群では同種の反応はほとんど確認されなかった。  
 ただし体育会系学生については、競技施設そのものではなく、食堂、広場、共通授業で用いる教室を介して散発的に影響が及んでいる。

 考察未満の所見:
 以上の分布からみて、当該現象は不特定多数へ無差別に拡散しているのではなく、一定の生活動線、あるいは活動圏を中心として強度を増している可能性が高い。  
 文学系校舎、食堂、広場を含む一帯では影響が強く確認された。  
 一方、図書館は強い影響の範囲内に位置しながらも、例外的に影響が及んでいない地点として観測された。
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