境界の音

迷い人

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2章 囀り

21.閉架室

 図書館の奥深く、閉架の置かれた場所へと向かった。

 訪れた先は、コンクリート造の図書館の内側に、そこだけ古い木造の部屋が取り残されているような空間だった。

 これは……?

 私は窓から見える木造の建物を覗き込むが、中は見えない。

「嫌な感じ……」

 動かせない“何か”が中にある――そう考えた瞬間、背筋がひやりとした。
 歩みは自然と遅くなり、私は三宮の後ろへそっと下がる。

「何? どうした?」

「どうもしない。早く先に行ってよ」

「へいへい」

 コンクリートの建物につけられた扉は、厳重すぎるほど重く分厚い木の扉だった。
 その扉を開くと、さらにもう一つ、重々しい扉が立ち塞がる。
 預かった鍵の束を使い、三宮は二つ目の扉を開けた。

 三宮はためらいもなく一歩先に入る。
 床板が低く軋み、その音だけが妙に奥まで響いていった。

「電気、どこだ……?」

 壁際へ手を伸ばしながら、三宮が薄闇の中を見回す。
 私は半歩遅れて入口に立ち、開いた扉の隙間から中をうかがった。

 外側はコンクリートなのに、内側は古い木の匂いが濃い。
 閉じ込められていたぬるい空気が、息を吸うたび喉にまとわりつく。

「来ないのか?」

「……行くけど……暗いし……」

 そう言いながらも、視線は奥へ伸びたままだった。
 暗がりの中、本棚とも壁ともつかない影が重なり、部屋の広さが掴めない。
 静かなのに、暗闇が蠢いているような気がした。

 口の中が渇く。

 ぱち、と乾いた音。  
 少し遅れて、白い蛍光灯がぶつぶつと瞬きながら点く。

 浮かび上がったのは、天井まで届く書架と、その足元に積まれた段ボールの山――そして、現実感。

「……なんか、思ってた感じと違う」

 私の言葉に、三宮が振り返り、からかうように言う。
 けれど目は笑っていなかった。

「それは冒険の予感ってやつか?」

「樟脳とカビの匂い……」

 籠る匂いに私はハンカチで口元を覆った。

 森先輩、よくこんなところに毎日来るよね。
 でも、こんな場所だからこそ長居はしないのかもしれない。
 森先輩の行動に矛盾はない。
 けれど、疑いが晴れるわけでもない。

 私だったら、こんな場所、毎日来たくない。

 不機嫌そうに明滅する蛍光灯の下、人が通った跡だけが床の上に浮かび上がっていた。

「あ~~」

 小さく、長く声を出した。
 音の響きがおかしい。
 吸い込まれるようで、留まるようで、前に進まない感じ。

「どうした? 急に」

「音が変」

「空気の流れがないからだろう?」

「でも、何かの息遣いが聞こえるみたいで……」

「怖いんだ」

「そりゃぁ、まぁ……」

「まぁ、大丈夫だ。俺は勘がいい。そう悪いものはないから安心しろ」

 閉架室内は予想以上に広かった。

 天井まで届く本棚が整然と並び、その間を縫うように通路が作られている。
 しかし目を引くのは、やはり段ボールの山だ。
 壁際に積まれたそれらは、明らかに最近運び込まれたばかりで、埃ひとつない。

 中を迷路のようにしている本棚よりも、重ねられた段ボールの山が気になった。

 埃の溜まっていない段ボールを、三宮は適当に開いて見ていた。

 進むことができず、立ち止まったまま私は視線を巡らす。

「一番古い本はどれくらい前のものなんでしょうね」

 床には、人がよく通る場所の癖が出ていた。
 埃の薄い筋、擦れた木目。
 書架の間を抜ける足取りと、壁際へ向かう動線。

 段ボールの一角だけが新しい。
 箱に埃がなく、持ち込まれて日が浅いと分かる。

 真樹は視線だけで、その位置関係をなぞる。

 人が歩く場所。
 荷物が運ばれた場所。
 触れられている場所と、放置されている場所。
 新しい箱、古い箱、重ねられた順。

「あれ? 新しい箱が下になってる?」

 真樹がようやく歩き出した――その瞬間。

 リーン。

 音がないのに、空気が震えた。
 振り向くと、三宮が葡萄の房のように鈴が連なった古い飾りを手にしていた。

「な、何?」

「いや、怪しいものがあったから」

「脅かさないでよ!!」

「いや、音は鳴ってないだろう。ほれ」

 鈴は振られ、部屋が音もなく震える。
 何かがいる――そんな気配がした。

「ちょ、止めなさいよ。危ないかもしれないでしょう」

「いや、危なくない危なくない。鈴の音で散らすものらしい。この説明書にそう書いてある。それに音が鳴らないなら、影響もないだろう?」

 そう言って、また音の鳴らない鈴を振った。

「そういう問題じゃない……ぁ、えっと、もう一度、鳴らしてもらえる?」

「どうかしたのか?」

「人の歩いた跡、古い箱を乗せた真新しい箱が揺れていたような……」

 目の端に捉えた現象。

「そうなのか?」

「えぇ……」

 鈴は振られ、部屋が震えた。
 音はしない。それなのに空気だけが揺れる。

 やがて、三宮の手が止まった。
 その動きが急で、私は振り返った。

 ほんの一瞬だったけれど、余裕を纏ったあの三宮が、何かを確認するように閉架室の奥を見たように見えた。

 何があるのか聞くのが怖くて視線をそらした先――  
 真新しい箱が揺れた。
 そっちの方は怖いとは思わなくて、近寄る。

 鈴を振ってもいないのに、箱が震えた。

「三宮、コレ!!」

 逃げた方がいいのでは――そう問いかけようとした瞬間、
 古い段ボール箱がぐらりと落ちそうになり、三宮が支えた。

「ぇ、あ……その、ありが、とう」

「大丈夫か?」

「へ、平気。それより逃げなくていいのかな?」

 そう問いかけたとき、揺れはおさまっていた。

「これか?」

 三宮は手にした古い段ボールを床に置き、
 下になっていた新しい段ボールも降ろして中を開ける。

 本と本の隙間に見えたのは巻物。
 明らかに違和感のあるそれに、私は手を伸ばした。

「急に手を出すな。危ないものだったらどうするんだ」

 三宮の声に緊迫感はなかった。
 だから、平気なのだろうと思った。

「平気でしょ?」

 私の質問に答えず、三宮は笑う。 
 私はそれを無視して巻物を解いた。

 そこに描かれていたのは、空色の――あの日ガラス窓を叩いていた鳥。

 それだけなら、あの鳥を見た人が描いたのだと思える。
 けれど、その鳥は巻物の中で動いていた。

 水彩で描かれた優美な木、池、空……  
 そして、マジックで書かれた鳥籠。

 鳥は籠に飛びついてくる。
 音はない。

「明らかに、このマジックで書かれた籠、おかしいよね?」

 まるで「出してくれ」と言わんばかりに、鳥は籠に飛びつき、脚でしがみつき、籠に噛みついている。

 それがどういう現象かは理解できなかったが――

 ぱちっと蛍光灯が鳴る。
 白と黒、蛍光灯が部屋の色を入れ替えるたび、何かが騒いでいる気がした。

「ねぇ、もう外に出ようよ」

「そうだな……ちょっと先に戻っていてくれるか?」

「ぇ、何するの?」

「いいから……」

 パチッと激しい音が鳴り、私は衝動的に部屋の外へ向かった。
 掛け軸を手にしたまま。

 三宮はついてこなかった。

 外から中を覗けば、三宮は段ボールを元通りに丁寧に重ね直していた。

 重ねて……  
 部屋を出る真樹を確認し、ポケットに入れていた鈴を箱と箱の間にそっと置いた。

「三宮!!」

「今、行く」

 蛍光灯は消され、三宮が部屋を出てきた。
 興奮状態の“何か”が、音もなく騒めいている……気がする。

 ガチャリ。

 閉架室の扉の鍵がかけられる。
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