境界の音

迷い人

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2章 囀り

22.囲い

 鍵が掛けられた扉の奥で、ガタッと存在を示すような音が鳴った。

 私は衝動的に三宮に縋りついた。

「な、何?」

「何か落ちたんだろう?」

 三宮の口元は笑っていたが、その意味を問いただす余裕はなかった。
 私はただ、この場を離れたくてたまらない。

 怖がりすぎだ、と自分に言い聞かせる。
 こんな場所で本気で怯える方がおかしい――そう思えば思うほど、逆に頭の芯がじりじりして、正気が削れていく気がした。

 私は掛け軸を粗雑に鞄へ押し込み、足早にその場から逃げ出した。

「それで、どこに行くんだ?」

 閉架室の鍵を返した三宮が、私に問いかける。

「どこって……」

 言い返しかけて、私は口をつぐんだ。

 外に出れば人目がある。
 図書館に留まれば、森清正が来るかもしれない。
 教授のところへ行けば、あの調子で主導権を奪われて面倒だ。

 考えて、考えて、結局まともそうな行き先として残ったのは――喫茶店くらいだった。

「喫茶店……」

 そう答えた自分の声は、ひどく頼りなかった。



 図書館の外に出ようとした時、パート上がりの沙織さんと出会った。

「今から帰りですか?」

「そうなの。最近は仕事の進みがスムーズで、定時で帰れるのよ」

 他愛ない雑談を交わしながら歩き出す。
 少し離れた位置で、三宮は後をついてきていた。

「ねぇ、アレって……」

 沙織さんがニヤニヤしながら私の袖を引いた。

「ぇ?」

 視線の先には、森清正先輩がいた。

「ちょ、止めてくださいよ。変なこと言うのは……私はその、彼がどんなテーマで論文を書いてるのか気になっただけで」

「はいはい」

 そんな会話をしているうちに、森先輩と視線が合い、軽く会釈してすれ違った。

 森先輩が図書館に入ったところで、三宮がスマホを手に私を呼び止める。

「榊! ちょっと待ってくれ」

「ぇ、あ、どうしたの?」

「あら、私バスの時間があるから、先に失礼するわね」

「はい、沙織さん。今日はありがとうございました」

 そう言って見送り、私は三宮の元へ戻った。

「何よ」

 スマホを手にしているのに、通話している気配はない。

「何よ」

 繰り返しの問いかけ直後。
 館内の奥から短い悲鳴が響いた。

 私は肩を跳ねさせ、反射的に振り返る。
 その隣で、三宮が口元に笑みを浮かべているのを見てしまった。

「……何したのよ」

 じとりと睨むと、三宮は肩を竦めた。

「箱を少し倒れやすくしただけだ」

「は?」

「中を確かめたくなるような人間は、どうしても触るだろう」

 呆れながらも、すぐに意味は分かった。

 森清正は閉架室で何かを探ろうとして、封じられた箱に触れたのだ。
 掛け軸とは無関係に、あの部屋に押し込められていた“何か”を刺激してしまったのだろう。

「最低……」

「褒め言葉として受け取っておこう」

 そう返されて、私はますます顔をしかめた。

 カァー。

 カラスの声。過る影。

 空を見上げれば、夕空の上をカラスたちが円を描くように旋回している。
 あれに囀りが混ざっているかは分からない。
 ただ、視線を逸らしたいのに逸らせない、切ないような気持ちが胸をよぎった。

 私は鞄の肩紐を握りながら三宮に視線を向ける。

「早く行こう」

「そうだな」

 三宮も真剣に、私と同じ空を眺めていた。



 図書館へ向かう足が急いでいた。

 思考の共有、揃い――
 それらは論文において、他者の脳を外部補助として利用できる。
 同じ場所にいることが条件とされるが……

 自分と他人の一体感。
 他者と自分の境界を曖昧にすることで、他者を思いやれる。
 争いがなくなる。
 素晴らしいことだと思っていた。

 なのに――負担が多い。

 境界が失われたことで、俺への要求が増えた。
 論文を書くための思考のサポートを、拒否できない。

 早くしなければ、図書館の開館時間が終わる。

 急いでいるところに、あの女――揃うことを受け入れなかった女に会った。  
 元々よく図書館に顔を出す子だった。
 彼女は揃いの外で日々を取り戻したのだろう。

 可哀そうな奴。

 そう思いながらも、自由な彼女が羨ましいと……どこかで思い、そして否定し、歩みを早めた。
 他に目を向ける余裕などなかった。

 早く触れなければ……また削られるだけになってしまう……。

 早く行かなければ時間が――。

「今日は遅かったのね」

 年の近い、年上の司書の女性が嬉しそうに声をかける。

「今日もお願いできますか?」

「えぇ、少し待っていてくださいね」

 時間の進みが早い。
 鍵は届かない。

 職員の一部は仕事を終え、見回りに向かっていた。

 事務室に向かって声をかける。

「どうかしたんですか?」

 催促しようとする声を必死に抑えた。
 いつもの女性司書が困った様子で顔を出す。

「それが……」

 一瞬視線を泳がせ、重い口を開いた。

「教授がね、閉架にしまってある本を見たいって、鍵を借りて行ったようなのよ」

 それだけで説明は終わった。
 森もそれ以上は踏み込まない。
 ただ、胸の奥に小さな引っかかりだけが残る。



 閉架室に入った森は、蛍光灯をつけなかった。
 懐中電灯の細い光だけを前に向け、暗がりの間をゆっくり進んでいく。

 いつもの場所。
 慣れた足取りに迷いはない。

 狭い通路を進みながら、森は懐中電灯の光を棚の隙間へ滑らせる。
 紙と埃の匂いは変わらない。
 閉架室はいつも通り静かで――だからこそ、胸の内に残った引っかかりだけが妙に大きく感じられた。

 教授が鍵を借りた。
 それだけのことだ。 
 本来なら、それで終わる話のはずだった。

 だが、光を向けた先で、箱のひとつがわずかに傾いているのが見えた。

 森は足を止めた。

 こんな置かれ方をしていただろうか。

 記憶にある形と、ほんの少しだけ違う。
 たったそれだけのことが、胸の奥のざらつきを強める。

 教授が見たのか。
 あるいは、誰か別の人間がここへ入ったのか。

 考えても答えは出ない。
 けれど、確かめなければ落ち着かなかった。

 懐中電灯を脇に挟み、箱へ手を伸ばす。
 指先が触れた拍子に、重心の崩れた箱がかすかに傾いた。

 次の瞬間、小さな何かが床へ落ちた。

 森は息を止めた。
 反射的に耳を澄ます。

 音はしない。

 確かに何かが落ちたのを見た。
 だが、その重さが音にならず、緊張感だけが身体の内側を走っていく。

 懐中電灯の灯りを床へ向け、落ちたものを探した。

 鈴のようなものだろうか。
 神社で舞を奉納するとき、巫女が手にしていたものに似ている。

 手を伸ばそうとした、その時だった。

 閉架室の奥で、何かがざわりと身じろぎした。

 森は顔を上げ、懐中電灯を気配の方向へ向ける。

 細い光は棚の角と、積み上げられた箱の輪郭しか照らさない。
 その外側――光の届かない暗がりの中で、確かに何かが動いた気がした。

 気のせいだ。
 そう思った。そう思おうとした。

 だが、一度ざわついた気配は静まらない。

 押し込められていたものが息を吹き返すように、  
 あちらこちらで低く軋む。

 紙が擦れる音にも似た、カタカタという音が閉架室の奥で重なり合っていく。

 森の喉がひくりと鳴った。

 あり得ない。
 こんなことは、あるはずがない。

 懐中電灯を握る手に汗が滲む。
 足を引けばいいだけなのに、身体がその場に縫い留められたように動かない。
 暗がりの向こうを見てはいけないと分かっているのに、視線だけが吸い寄せられていく。

 閉架室が大きく揺れた。

 次の瞬間、暗がりの奥で、誰かが忍び笑うような声がした。

 ひとつではない。
 ケタケタ、と乾いた笑いが重なり、
 あはは、うけけ、と濁った声が閉架室いっぱいに反響する。

 ざわめきは一段大きく膨れ上がり、
 笑い声は耳ではなく、頭の内側で増幅していく。

「っ――」

 次の瞬間、森は耐えきれず悲鳴を上げていた。

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