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第三章 ダンシング・ドルフィン

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◇三峯瞬/城ヶ崎湾沖合、瞬の従兄弟・三峯恒太郎所有のボート『オロチ号』船上

 悪夢のような――いや、悪夢そのものの一夜が過ぎ、憎らしいほどに晴れ渡った空の下、波間を縫って進むボートの上にぼくはいた。
 ぼくの従兄弟・三峯恒太郎が所有するトーイングボート(ウェイクボード専用の牽引ボート)の船尾からは、W字型に曳き波ウェイキーが伸び、べた凪の海上にささやかな起伏を刻んでいる。
「しかし、助かったぞ――瞬」
 ボートのサイドシートに腰掛け、手にしたライフル――M4A1カービンの装弾を確認しながらそう言ってきたのは真琴さんだ。
 真琴さんの長いつややかな黒髪が海風にたなびき、朝の日差しを浴びてきらきらと輝いている。
 真琴さんは昨夜と同じ、黒いパンツスーツに黒のコートという格好で、白波を立てて海上を進むボートの上ではいかにも暑苦しい。実際、真琴さんは時々、透明なイエローのシューティンググラスを外し、汗をぬぐっていた。
 真琴さんみたいな大人の女性が、海上を進むボートの上で黒髪をたなびかせながら銃の照準を確かめている姿はまるで映画のようだったが、当の真琴さん自身はみずからの容貌にはほとんど頓着する気配がない。美奈恵さんが、自分の容姿とそれが異性にもたらす効果を計算し、把握し尽くしているのとは対照的だ。
「え? ……ああ、ボートのことですか?」
「そうだ。わたしも事前に船をチャーターしておいたんだが、まさか当日になって貸し出しを拒否されるとはな」
「やっぱり、久瀬倉家からの圧力……ですか?」
「おそらくはな。まったく、わたしも焼きが回ったものだ」
「しかたないですよ。城ヶ崎市に久瀬倉家の息のかかってない組織なんてないんですから。それに――」
「それに?」
「ぼくを助けたせい……ですよね?」
「……まあ、な」
 久瀬倉家の別邸で真琴さんがぼくを助けてくれたのはまったくの偶然だった。真琴さんとしては、自分たちの正体が久瀬倉家に知られてしまうことは避けたかったはずだし、ぼくを助けたりしなければそれは十分に可能だったはずだ。だから、船をチャーターするにあたっても、本来なら久瀬倉家の圧力を心配する必要などなかったはずなのだ。
「それに、こんな危険なことを依頼するんですから、ぼくが何もしないわけにはいかないでしょう。まあ、このボートはぼくのじゃなくて、ぼくの従兄弟のものなんですけど」
 ぼくの従兄弟の恒兄こうにいは、ぼくとは打って変わったアウトドア派で、夏はサーフィン、冬はスノーボード、それ以外の時期にはフットサル……というスポーツマンなんだけど、その恒兄が最近ハマっているのがウェイクボードだ。
 ウェイクボードというのは、大雑把にいえば、ジェットスキーのスノーボード版、といったスポーツだ。波がない場所でもサーフィンができないか、という発想から生まれた比較的歴史の浅いマリンスポーツで、足に専用のボードを固定し、専用のボートや水上バイクにラインと呼ばれる牽引用のロープを結びつけ、その後端にあるハンドルを握って水上ゲレンデを滑走しながら、スノーボードのハーフパイプ競技のようなトリックを決める、というものだ。
 このスポーツの肝となるのは、ライダーを牽引するボートや水上バイクの生み出す曳き波ウェイキーだ。ライダーは曳き波ウェイキーを雪上における瘤やジャンプ台のように利用して空中に飛び上がり、アクロバティックなトリックを決めていく。
 このボートはウェイクボード専用に作られたトーイング(牽引)ボートで、ラインを接続するためのタワーと呼ばれる専用のバーが船体をまたぐようにして上部に渡されているほか、バラストタンクに海水を注入することで重さを調整し、トリックを決めるのに最適な曳き波ウェイキーを作り出す機能も備えている。
 もちろん、それに乗って戦うことなど想定していない娯楽用プレジャーボートなので、船速や外装の丈夫さなどに不安は残るが、真琴さんによれば「目立たない分、かえっていいかもしれない」とのこと。
 ボートの定員は八名で、ぼくと真琴さんと美奈恵さんの三人なら楽に乗れる。
 クルージングボートとちがって屋根はなく、オーニングと呼ばれる日よけと、操縦席コクピット前面のウィンドシールドだけが船体上部を覆う構造で、イメージとしては海上のオープンカーといった感じだ。
 操縦席と後部の空間は仕切られていて、後部にはサイドシートやリアクッションに囲まれた快適な搭乗スペースが用意されている。
 前に恒兄に乗せてもらったときは、ウェイクボードを楽しむ恒兄の友達やその彼女さんたちがライディングの合間におしゃべりをしたり、持ち込んだ食べ物やドリンクを食べたり飲んだりしていた。ひとりだけ年の離れたぼくは彼女さんたちにちょっかいをかけられて対処に困った。
 しかし――今。そのスペースを占めているのは、真琴さんの持ち込んだ銃器・弾薬の数々だった。
 出発前、銃器を確認する真琴さんをながめていると、
「……こういうのに興味があるのか? かわいい顔をしてても男の子か」
 ぼくはどちらかというと真琴さんのことを見ていたのだが、そうも言えないのであいまいにうなずいた。
「今日のために忌累機関から借り出した装備だ。まだ銃弾は装填してないから、触ってもいいぞ」
 ぼくはこわごわと真琴さんの持ち込んだ銃器を手に取った。
 無骨だが絞り込まれた銃身のライフルで、映画やニュースで外国の兵士が装備していたのはこれだったと思う。リアサイトと一体化したキャリーハンドルとかまぼこ状の放熱板入りハンドガードが特徴的なライフルで、銃口のそばにフォアグリップが装備されている。
「それは米軍をはじめ世界の軍隊や特殊部隊が使用している騎兵銃カービン――M4A1だ。汎用性の高さが魅力だな」
 ぼくは別の銃を手に取る。今の銃――コルトM4A1カービンにくらべると銃身が短く、フォアグリップがない。伸縮式の銃床と大きなハンドガード、そして弓なりに湾曲したバナナ型のボックスマガジンが特徴的だ。
「MP5――サブマシンガンの名銃だ。狭い空間での制圧力に長け、警察系の特殊部隊が好んで使う」
 正確にはMP5A5だが、と断りつつ、真琴さんはジャケットの中から昨日も見た自動拳銃を取り出した。
「マガジンは違うが、同じ種類の弾を使用しているからな。支給される弾薬に限りがある衛視としては重宝する」
 取り出した自動拳銃――シグ・ザウエルP226はすでに装填済みだということで触らせてはくれなかったが、マガジンを排出したり、撃鉄を起こしてからデコッキングしたりして、銃の操作方法を教えてくれた。
 細い手で無骨な拳銃をとりまわす真琴さんの手つきは熟練したもので、危うさはまったく感じられない。
「大きくないですか?」
「ああ、たしかに女性向けの銃ではないな。が、射撃精度と威力、装弾数などを考えると、やはりこのくらいの銃はほしかったからな。最初は苦労したが、もう慣れたよ」
 他にも真琴さんは、持ち込んだ銃器について、実戦経験者ならではのおもしろい話を聞かせてくれた。とくに映画におけるガンアクションの現実性については、ぼくも映画好きなこともあって盛り上がってしまった。
 昨夜のことでぼくが落ち込んでいると思って気を遣ってくれたのかもしれない。
 そこに、
「ぶーっ。二人とも、なんであたしのこと無視するのぉ~?」
 割って入ってきた美奈恵さんから、ぼくはすっと視線をそらした。
 見ると、真琴さんも不機嫌な顔で手元の銃に視線を落としている。
 美奈恵さんは、昨日同様、花柄のワンピース、カーディガン、編み上げのブーツサンダルというカジュアルにも程がある出で立ちで、緊張感に欠けることこのうえない。
「もう。昨夜はあんなに熱く愛し合ったのにぃ♪」
「わっ! や、やめてください……」
 抱きついてくる美奈恵さんをふりほどこうと暴れるが、こんな時の美奈恵さんにはどうあがいてもかなわないと、昨日のことで思い知っていた。
 美奈恵さんはぼくを後ろから抱きしめたまま言ってくる。
「これ、トーイングボートってやつだよね?」
「え、ええ……。よく知ってますね」
「昔の彼氏が同じの持ってたんだ~。国内メーカーがはじめてつくった専用艇だって言ってた」
「そ、そうですか……」
 昨日あんなことがあった相手に向かって平気で昔の彼氏の話ができるだなんて、いったいどういう神経をしてるんだろう? じろりと睨んでみるが、美奈恵さんはぼくの視線などおかまいなしに、突然顔を輝かせると、ぱちんと手を叩いた。
「あ、そうだぁ! ね、ね、これ、あたしが操縦してもいい?」
「え? 操縦……できるんですか? 免許要りますよ?」
「持ってるよぉ? 一級小型船舶操縦士免許ぉ。特殊小型もあるよ♪」
 ウインクしながらピースする美奈恵さん。
 小型船舶操縦士免許は二〇トン未満の船舶を操縦するのに必要な免許で、一級なら外洋まで航行することもできる。特殊小型(船舶操縦士免許)は、水上バイクなどのPWC(パーソナル・ウォーター・クラフト)を操縦するのに必要となる免許だ。
 もっとも、ぼくらの場合、免許以前に真琴さんの銃器を見られる方がよほどまずいのだが。
「美奈恵、そんなものを持っていたのか?」
「うん♪ 彼氏と一緒に取ったんだぁ」
「……またそれか」
 はあ、と嘆息する真琴さん。
「男がいると、世界が広がるよぉ?」
「おまえの世界は余計な方向にばかり広がっていくようだがな」
「なによう。今回はこうして役に立ってるじゃないのよぅ」
 美奈恵さんが頬をふくらませる。
「まあいい。わたし一人で操縦と警戒をこなすのは難しいと思っていたんだ。いいか、瞬」
「え、ええ……」
 ちょっと――いや、かなり不安だけど、危なかったら真琴さんに代わってもらえばいいだろう。免許はないけど、ぼくも一応、ひととおりの操縦は知ってるし。
 というわけで、今ボートの操縦席に座っているのは――美奈恵さんだった。
「本日は晴天なり~! ようそろぉ~!」
 ぼくと真琴さんの危惧に反して、美奈恵さんの操船は上手かった。
 それに正直、美奈恵さんが運転席に着いてくれて助かった。真琴さんが運転していたら、ぼくは美奈恵さんと一緒に後部座席で待機するはめになっただろう。気まずいのももちろんだけど、暇をもてあました美奈恵さんがいったい何をやりはじめるか――想像するだに恐ろしい。
 真琴さんにしても、行為の最中に美奈恵さんが電話でいたずらしてくれたせいで、顔を合わせているのがちょっと気まずいのだが、当の本人と差し向かいになるよりは全然いい。
「〈じま〉――と言いましたか」
 ぼくが言うと、真琴さんは手にしていた海図から顔を上げ、
「ああ。城ヶ崎湾から三海里ほどの地点にある、地図に載らない島――通称・忌み島。久瀬倉家の所有するその島こそが、久瀬倉家の秘祭〈万代〉の行われる聖域であり、古代の鬼が封じられているとされている場所だ」
「久瀬倉さんも……そこに?」
「おそらく――いや、確実にいるだろう。なにせ〈万代〉はもう今夜に迫っているんだからな」
「久瀬倉さん……」
 日直で一緒にゴミを捨てに行ったときの笑顔――深夜、ぼくの部屋から出て行くときに見せた寂しげな顔。
 ぼくのやろうとしていることは、久瀬倉さんにとってはただのお節介なのかもしれないが――それでも、ぼくは久瀬倉さんを助けたい。久瀬倉さんが太古の鬼に蹂躙されるだなんて絶対に許せない。それが鬼を封じておくために必要なことで、そうしなければ大変なことになるということがわかってもなお、納得することなどできなかった。
 でも――
「……ぼくは、間違ってるんでしょうか?」
「間違ってる?」
「ええ。〈万代〉が鬼を封じておくために必要な儀式だとわかっていても、ぼくは久瀬倉さんを生け贄になんてしたくない。久瀬倉さんが殺されて、それで世の中の平和が守られたとしても、そんな平和の中で生きていくことを、ぼく自身が許せないんです」
 真琴さんはサイドシートに置いたナップザックから紙の束を取り出した。Wクリップで止められたA4の書類で、粒子の粗い背景の上に崩し字が書き付けられている。古文書をコピーしたものだろう。今回の件に関する資料だと真琴さんは言っていた。
 真琴さんは資料に目を落としながらそっけない口調で言った。
「べつに、いいんじゃないか?」
「……え?」
 投げやりとも思える言葉に、ぼくは思わず真琴さんの顔をうかがった。
 真琴さんは資料からわずかに顔を上げて覗きこむような視線を向けてきた。
「人はみな、それぞれに切迫した事情を抱えながら生きているものだ。だから時として、自分の問題を解決するために、どうしても他人を犠牲にしなければならないこともある。それを気にしていては生きていけない」
「でも……」
「たしかに、久瀬倉春姫を助ければ――いや、違うな。久瀬倉春姫が贄姫としての役を全うしようとするのを妨害すれば、〈万代〉は破綻し、久瀬倉家によって封じられてきた鬼は解き放たれ、この街に――あるいはこの国、場合によってはこの世界に、破滅的な災厄が降りかかるかもしれない。おまえ以外のほとんどの人間は、事情を知れば、おまえを諦めさせようとするだろうな」
「でも、真琴さんは――」
「わたしがおまえの依頼を受けたのは、別の事情だ。わたしは忌門なんてものがこの世に存在するのが許せないんだ。そんなものははじめから存在しなかったことになればいいのに――不合理だとわかっていても、そんな感情をぬぐいきれない」
「じゃあぼくは、真琴さんの気持ちを利用してるんですか?」
「そうだ」
「そうだって……」
「だが、なぜそれがいけない?」
「なぜって、そんなの……」
 人を利用するのは悪いことだ。無条件にそう信じていたけれど、相手が望んでいることと、自分が望んでいることが重なっていて、両者にとってメリットがあるのならば、利用し、利用されることに善も悪もないことになる。
「おまえは、久瀬倉春姫を助けたいんだろう?」
「……はい」
「その一方で、おまえは、正しいことをしたいと思っている。いや、悪いことをしたくないと思っているのか。どちらでもいい。世の中の言う正しさ、悪さに逆らいたくないと思っている」
「……そう、ですね」
「が、久瀬倉春姫を助けることは、世の中の基準で言えば悪だ。悪とまでは言わないまでも、愚かな無分別ではある。その無分別は、社会に対して多大なコストを要求しかねないような無分別だ。到底、正当化できるものではない」
「それは……」
「おまえがわたしに慰めを期待しているのなら、諦めた方がいいぞ。慰めがほしいのなら、ベッドの上で美奈恵にでも甘えればいい。あいつは自分の官能を満たすためなら、白を黒と、黒を白と言いくるめる程度、朝飯前にやってのける」
 真琴さんは海風になびく髪をうっとうしげにかきあげ、空を見上げた。快晴の空を、小さな海鳥がゆっくりと旋回している。陽光の影になっているせいで、鳥の種類はよくわからない。
「だが、おまえは久瀬倉春姫を助けると決めたんだろう? たとえそれが本人の意思に背くことであろうとも――世界の大多数の人に指弾されるようなことであろうとも」
「そうです……ね」
「ならばおまえは、選んだ行為に随伴する結果を受け入れなければならない。なにも失わずになにかを得ることはできない、とまでは言わないが、なにかを失わずにはなにかを得られない場合が、時にあるものだ。おまえが昨夜――美奈恵に身体を売ったようにな」
「――っ」
「おまえはもう踏み出した。ならば、その道を疑わずに進んでいけ。後悔なら後ですればいい」
 真琴さんは空を見上げた姿勢のままだ。
 その横顔に寂しさを見るのは、ぼくの勝手な妄想なのだろうか。
 真琴さんの言葉は、決して口先だけのものではなく、真琴さん自身のこれまでの人生に根ざしたものなのだと思う。
 昨日会ったばかりのぼくに、ここまで真剣に語ってくれる真琴さんの優しさと、その言葉の厳しさとのギャップは、真琴さんがこれまで歩んできた人生がまったく平坦なものではなかったことを物語っているように思えた。
 と――真琴さんが、不意に表情を厳しくした。
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