鬱乃森椿はつながりたくない

天宮暁

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「鬱乃森さんのことは気になっていたんですよ」

 生徒指導室に着くなり、田邊は俺たちにお茶を淹れ、席に着くよう促した。
 そして、この一言だ。

「鬱乃森のことに気づいてたんですか?」

 俺が聞く。

「ええ。担当するクラスの生徒は、名前と顔が一致するようにしています。昔は、それが常識だったんですが、最近の教師は生徒との関係が希薄になっている」

「グルチャに参加したりして、仲良くやってるようですけど」

「気に入った生徒だけと仲良くするのは、教師の取るべき態度ではありません。えこひいきがあっては、他の生徒はどう思います。その想像力が、ここ十年ほどでなくなりました」

「なんででしょうか」

 興味が湧いたのか、鬱乃森が聞いた。

「LIMEでつながるからですよ。グルチャにあまり参加しない生徒のことが視界から漏れるのです。ましてや、グルチャに登録すらしてない生徒なんて、いることすら気づかないのでしょう。
 そんなていたらくで、グルチャを真に受け、昨日まで存在すらあいまいだった生徒に、何を指導するというのです。とんだお笑い種だ」

「いいんですか、生徒にそんなこと言って」

「君たちはLIMEに書き込んだりはしないでしょう。気楽なものです」

 田邊が、皮肉っぽく笑った。

「意外ですね」

 俺の思って言わなかったことを、鬱乃森がずばりと言った。

「そうかね。じゃあ、君にも知らないことがあったということです」

「どうして、わたしのことを放っておいたんですか?」

「そのほうがよかったのでしょう? それとも、クラスメイトと仲良くできるようにお節介を焼くべきでしたか?」

「いえ⋯⋯ありがとうございます」

 珍しく、鬱乃森のほうが折れた。

「でも、僕の授業はあまりサボらないでほしいですけどね」

 田邊の言葉に、俺は冷や汗をかいた。

 だが、言われたら言い返すのが信条のやつが隣にいる。

「それなら、きちんと移動の連絡くらいするべきよ」

 鬱乃森が言った。

「ん? 事前にクラス委員に伝えているはずですが……」

「LIMEでしか流れていませんよ」

 俺が言うと、

「なんですって?」

 田邊がため息をついた。

「……それはすみませんでした」

 田邊が鬱乃森に謝罪する。

「なぜ僕が生徒の不評にもかかわらず、史跡に連れて行くと思いますか?」

「単調になりがちな歴史の授業にアクセントをつけるため、では?」

「それも否定はしません。
 ですが、それ以上に、スマホ越しではない本物を見てほしいからです。足を使って移動し、実物を見る。そこには必ず、スマホで検索する以上のことがあります。自分たちの生活する地域に何があり、どんな歴史があったのか。それを身を以て感じてほしい。僕はそう思ってるんです」

「立派なことね。効果のほどはともかくとして」

「鬱乃森さんは気持ちのいい生徒ですね」

 鬱乃森の辛辣なコメントに、田邊はおかしそうに笑った。

 鬱乃森が聞く。

「皮肉ですか?」

「いえ、本心ですよ。まどろっこしい空気の読み合いって、はっきり言って僕は大嫌いなんです」

 田邊がそこで言葉を切る。

「あらゆる情報がネットで手に入る時代になりました。
 しかし、僕たちが今ここにいるという事実は絶対に揺るがすことができないのです。
 僕たちが今ここにいるのはただの偶然です。でも、僕たちの個性というのは、そのような偶然の中でしか生まれないのです。
 それ以外のことは、この情報化時代、必ずどこかに自分と同じような存在が見つかりますよ。いい大学に入ろうと、いい会社に入ろうと、難しい資格を取ろうと、同じことです。必ず似たような人間がいる。似てるだけじゃなく、自分より恵まれてる人も、まず確実にいるでしょう。
 それでは、生きていて面白くないじゃないですか。他の誰とも違う、自分自身でありたいと思いませんか」

「でも、史跡巡りは実際問題として退屈だし、受験の役にも立たないわ。
 それだけじゃ、あなたの言っていた、国が求める独創性のある人材になることもできないでしょうね」

「お、おい!」

 さすがに言いすぎだと思って鬱乃森を制する。

 が、田邊は苦笑し、

「これは手厳しいですね。
 でも、国のためというのは、もちろん方便というものです。僕が話してるのは、個人の内面の問題です。
 鬱乃森さんは、きちんと理解しているくせに、挑発的な質問を投げかけてくる」

「その方便で、職員室ではまわりを動かしてるというわけね。なかなかのマキャベリストだわ」

「お褒めいただきどうも。
 自分は面白おかしい授業ができるようなタイプではありません。原理原則にこだわり融通が利かない。言わなくてもわかるでしょうが、職員室でも浮いています」

「べつに、気にするほどのことじゃないんじゃないかしら」

「さすがは鬱乃森さんだ。僕はもうすこしヘタレなので、それなりに対応はするのです。
 鬱乃森さんも、いずれはどこかに適応しなければならない時が来る。どこに適応するかは選択の余地がありますが、適応しないという選択肢はありません。その時には反面教師にしてください。
 まぁ、僕は定年まで逃げ切れれば十分ですよ。LIMEの魔の手からね」

 田邊の言葉に、鬱乃森がぴくりと反応した。
 何かを言おうとして呑み込んだような感じだ。
 何を言おうとしたのかは、俺にはまったくわからなかったが。

「クラスTシャツなんて着たくない。結構なことだと僕は思います。ロックではないですか」

「ロック?」

 田邊の言葉に、驚いて聞く。

「もう流行らないんでしょうね。今の若い人の歌を聴くと、僕は頭が痛くなります。何の主張もなく、ただ仲間、家族、絆……極めつけには『産んでくれてありがとう』です。彼らには歌に込めることでしか発散できない心の叫びなんてないんでしょう。僕の愛したロックは死んだ」

 田邊が、ふと思いついたように聞いてくる。

「君たち、軽音楽をやりませんか? 鬱乃森さんならいい線いくと思いますよ。度胸があるし、声もいい」

「そういや軽音部の顧問でしたね」

 似合わないと思っていたが、そんなことはなかったらしい。

「音楽も、最近はパソコンで一から十まで作れてしまいます。人間の声だって合成で再現できるんです。
 でも、客の前で演奏するのは生身の人間です。ロボットに演奏させたってしょうがない。
 人が、人に音楽を聴かせる。それは、その場所でしか体験できないことなのです」

 田邊はそう言って立ち上がる。

「君たちにはきっちりお灸を据えたと言っておきますよ。適当なタイミングで教室に戻りなさい」

 田邊はそう言い残して生徒指導室を出て行った。

 俺と鬱乃森は顔を見合わせた。

「田邊先生のこと、見直したぜ。授業は眠いけどな」

「史跡のうんちくもつまらないけどね。いつも、さっきみたいな話をすればいいのに」

「だな」

「わたしがいないことにも気づいていたのね」

「懐が深いのか、単に面倒だから放っておいたのかわかんねえけどな」

 問題は何も解決しちゃいなかったが⋯⋯なぜだろう、少し気が楽になった気がするな。
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