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夜の続き 2
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周りから聞こえてきた溜息は、二人の甘さに当てられた客の男達だった。この店に集まるのは同性しか好きになれない、または同性も異性も愛せるという男達ばかりなのだ。
二人のキスはギャラリーの視線を最後まで集めて息を飲ませていた。
黒崎の整った顔立ちは人の視線を集める。しかし客たちの関心は途中からその隣へと移っていた。不慣れながらも懸命に熱を受け止め、切なく甘い匂いを放つように上気する理人にごくりと喉を鳴らしていたのだ。
「このまま、始めちゃうのかと思ったわ……」
店主にそう言われて、理人を胸に抱えた黒崎はまさかと笑うが、ここが違う場所だったら当然そうなっていただろう。
「可哀想にな……理人。お前はだまされやすい……」
耳元に、自分を憐れむ黒崎の声がかすかに聞こえた。
自分は可哀想ではないとは、とても反論できない。今の理人は自分がこの世で一番可哀想だと思ったからだ。
それよりも、騙されやすいとは何だろう。
僕が騙される……
それが一番ぴたりとはまるのは、当然一人だけしか思い当たらない。
僕を騙すのは黒崎さんだけだ。
騙すとは優しくすると言う事。黒崎は優しい人のふりをして理人を抱きしめてくる。
同情と憐れみを含んだキスだったが、黒崎はまた恋人のように扱ってくれた。
それでも嬉しいんだ。
静かに涙を流しながら、理人は黒崎の中で微睡んだ。
腕に伏せていた顔を上げると、黒崎の働く姿があった。目覚めてすぐにわかった。店で眠り込んでしまったのだ。
スツールに座りカウンターに伏せながら眠ったのだが、飲み過ぎて覚悟した頭痛などは感じられない。本格的に眠ってしまう前に無理矢理飲まされた水が多少はきいたのだろうか。
顔をさするとしっかりシャツの跡が残っているようで、肌がぼこぼこしていた。
「悪い、うるさかったか?」
黒崎はジャケットを脱ぎシャツの袖をざっくりと巻き上げ、カウンターの中でグラスを洗っていた。目覚めた理人を見ると、また手を動かし始めた。
店内の窓は一か所。すりガラスの上に小さく、そこから入る光から時間を予測するのは難しい。
「朝、ですか?」
「そろそろ五時って所だな」
照明の落ちた店内を見渡すと、店主がテーブル席で腕を組んで眠っていて、その周りにも潰れてしまった様子の男性が二人めいめいのポーズで崩れて眠っていた。
その人達を起こしてしまわないよう、声を潜める。
「眠っちゃってすいません。それで黒崎さんも帰れなくなっちゃんですよね」
「いや、俺も落ちたから気にするな」
「もしかして、黒崎さんの仕事って飲食関係?」
「そうだったらいいけど、残念ながら違う」
黒崎は楽しそうに笑う。
後にずらりと並ぶ酒瓶に違和感なく溶け込んでいる黒崎の姿は、人に見られる事に慣れているように見えた。だからカウンターという舞台が似合いしっくりとしている。
「一晩世話になったんだから、洗い物くらいはな」
「だったら僕も手伝います」
理人は椅子から降り、まだ片付けられていないテーブルのグラスやピッチャー、瓶を音に気を使いながら回収する。ひと通りカウンターに並べると、黒崎から絞ったクロスが投げられる。
それを胸元でしっかり受け取り、各テーブルを拭いた。それが終わると思い切ってカウンターに入り、黒崎の隣に並び、水気の切れたステンレスから拭きあげていく。
「僕、何か粗相しませんでしたか?」
「何もしなかったよ。ビービー泣いて崩れたらすぐにホテルに連れこむつもりだったのに、ちょっと時間が悪かったな。俺もダウンした」
「また……嘘ばっかり」
「本当だよ。お前の泣き顔みてると興奮して、もっと泣かせたくなる」
黒崎は目を合わせても、すぐに手元に視線を戻してしまう。冗談なのか本気なのか、どちらとも判断できない。
自分は泣いたし、何度もキスした……
黒崎の薄い唇ばかりに目がいきそうになる。
理人はしっかり覚えている。酒を飲んで眠っても記憶を失くすタイプではなかったようだ。
黒崎は自分を可哀想だと何度も言い、優しく壊れ物のように扱ってくれた。
心と体は別、そんな感覚が持てない自分は体に引きずられているのだろうか。一度肌を合わせてしまって、優しいキスをされて、情が湧いているのだろうか。
誰にでもそういう慰め方をしているのだろうか。そう思うと理人の心は複雑に揺れた。
店内で眠っていた人達が起きだすと、もう電車が動く頃だと黒崎に言われ店を出る事になった。
黒崎はもう少し手伝ってから店を出るといい、店主と言葉を交わしていたので、ここで無理に自分が残るのも気まずいと一足先に帰るしかなかった。
やっちまったと、昨夜の事を後悔してはいない。
朝の空気は澄んでいて、町はこれから始まる一日への期待に満ちているように見える。
肌を撫でる空気は冷たく、身をすくめて両手をコートのポケットに突っ込む。
全部が終わった……
かすかに息が白くなる。
ここからは、蓮と楓、そして黒崎に惑わされない日を始めなければいけない。
少し胸に残っている悔いがあるとするのなら、蓮に対してではなく、黒崎への未練なのかもしれない。
弱っている時に向けられる優しさは、特別心にしみてくる。だから一時的な感情に流されるのは間違いだ。流されてしまえばそこからは正常な判断ができなくなるだろう。
この切ない気持ちは勘違いだ。失恋したばかりなんだし。
理人は自分の思いをそう結論づけ、蓋をするしかなかった。
二人のキスはギャラリーの視線を最後まで集めて息を飲ませていた。
黒崎の整った顔立ちは人の視線を集める。しかし客たちの関心は途中からその隣へと移っていた。不慣れながらも懸命に熱を受け止め、切なく甘い匂いを放つように上気する理人にごくりと喉を鳴らしていたのだ。
「このまま、始めちゃうのかと思ったわ……」
店主にそう言われて、理人を胸に抱えた黒崎はまさかと笑うが、ここが違う場所だったら当然そうなっていただろう。
「可哀想にな……理人。お前はだまされやすい……」
耳元に、自分を憐れむ黒崎の声がかすかに聞こえた。
自分は可哀想ではないとは、とても反論できない。今の理人は自分がこの世で一番可哀想だと思ったからだ。
それよりも、騙されやすいとは何だろう。
僕が騙される……
それが一番ぴたりとはまるのは、当然一人だけしか思い当たらない。
僕を騙すのは黒崎さんだけだ。
騙すとは優しくすると言う事。黒崎は優しい人のふりをして理人を抱きしめてくる。
同情と憐れみを含んだキスだったが、黒崎はまた恋人のように扱ってくれた。
それでも嬉しいんだ。
静かに涙を流しながら、理人は黒崎の中で微睡んだ。
腕に伏せていた顔を上げると、黒崎の働く姿があった。目覚めてすぐにわかった。店で眠り込んでしまったのだ。
スツールに座りカウンターに伏せながら眠ったのだが、飲み過ぎて覚悟した頭痛などは感じられない。本格的に眠ってしまう前に無理矢理飲まされた水が多少はきいたのだろうか。
顔をさするとしっかりシャツの跡が残っているようで、肌がぼこぼこしていた。
「悪い、うるさかったか?」
黒崎はジャケットを脱ぎシャツの袖をざっくりと巻き上げ、カウンターの中でグラスを洗っていた。目覚めた理人を見ると、また手を動かし始めた。
店内の窓は一か所。すりガラスの上に小さく、そこから入る光から時間を予測するのは難しい。
「朝、ですか?」
「そろそろ五時って所だな」
照明の落ちた店内を見渡すと、店主がテーブル席で腕を組んで眠っていて、その周りにも潰れてしまった様子の男性が二人めいめいのポーズで崩れて眠っていた。
その人達を起こしてしまわないよう、声を潜める。
「眠っちゃってすいません。それで黒崎さんも帰れなくなっちゃんですよね」
「いや、俺も落ちたから気にするな」
「もしかして、黒崎さんの仕事って飲食関係?」
「そうだったらいいけど、残念ながら違う」
黒崎は楽しそうに笑う。
後にずらりと並ぶ酒瓶に違和感なく溶け込んでいる黒崎の姿は、人に見られる事に慣れているように見えた。だからカウンターという舞台が似合いしっくりとしている。
「一晩世話になったんだから、洗い物くらいはな」
「だったら僕も手伝います」
理人は椅子から降り、まだ片付けられていないテーブルのグラスやピッチャー、瓶を音に気を使いながら回収する。ひと通りカウンターに並べると、黒崎から絞ったクロスが投げられる。
それを胸元でしっかり受け取り、各テーブルを拭いた。それが終わると思い切ってカウンターに入り、黒崎の隣に並び、水気の切れたステンレスから拭きあげていく。
「僕、何か粗相しませんでしたか?」
「何もしなかったよ。ビービー泣いて崩れたらすぐにホテルに連れこむつもりだったのに、ちょっと時間が悪かったな。俺もダウンした」
「また……嘘ばっかり」
「本当だよ。お前の泣き顔みてると興奮して、もっと泣かせたくなる」
黒崎は目を合わせても、すぐに手元に視線を戻してしまう。冗談なのか本気なのか、どちらとも判断できない。
自分は泣いたし、何度もキスした……
黒崎の薄い唇ばかりに目がいきそうになる。
理人はしっかり覚えている。酒を飲んで眠っても記憶を失くすタイプではなかったようだ。
黒崎は自分を可哀想だと何度も言い、優しく壊れ物のように扱ってくれた。
心と体は別、そんな感覚が持てない自分は体に引きずられているのだろうか。一度肌を合わせてしまって、優しいキスをされて、情が湧いているのだろうか。
誰にでもそういう慰め方をしているのだろうか。そう思うと理人の心は複雑に揺れた。
店内で眠っていた人達が起きだすと、もう電車が動く頃だと黒崎に言われ店を出る事になった。
黒崎はもう少し手伝ってから店を出るといい、店主と言葉を交わしていたので、ここで無理に自分が残るのも気まずいと一足先に帰るしかなかった。
やっちまったと、昨夜の事を後悔してはいない。
朝の空気は澄んでいて、町はこれから始まる一日への期待に満ちているように見える。
肌を撫でる空気は冷たく、身をすくめて両手をコートのポケットに突っ込む。
全部が終わった……
かすかに息が白くなる。
ここからは、蓮と楓、そして黒崎に惑わされない日を始めなければいけない。
少し胸に残っている悔いがあるとするのなら、蓮に対してではなく、黒崎への未練なのかもしれない。
弱っている時に向けられる優しさは、特別心にしみてくる。だから一時的な感情に流されるのは間違いだ。流されてしまえばそこからは正常な判断ができなくなるだろう。
この切ない気持ちは勘違いだ。失恋したばかりなんだし。
理人は自分の思いをそう結論づけ、蓋をするしかなかった。
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