子豚の魔法が解けるまで

宇井

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31 帰りたい場所

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 日が沈む前の奇妙な静けさと、室内に伸びる夕の色が視界に入る。
 レーンと喋った時には周りが目に入らなかったけど、ここはゆとりのある個室だった。ベッドがあって、その横には棚がある。棚の上には水差しとグラス。足元にはベンチタイプのソファ。
 高そうな部屋だな。
 ひと眠りから目覚めた時に最初に思ったのがそれなんだから、俺の育ちを象徴しすぎている。
 だけど一番に飛び込んできたのは、会いたくて仕方なかった、ジェイクとベニーの姿だった。
 ベッドの脇にいるのではなく、ベニーが病室の垂直な壁に上ろうとしているのを、ジェイクが後ろから脇に手をいれ補助している。
 小さなベニーといえどもずっと持ち上げていれば重いだろう。そしてベニーは手足をばたつかせて小さな悲鳴を上げている。何をしてるんだかと思ったけれど、とっても楽しそうだ。
 二人の後ろ姿を見ながら知らずに微笑んでいた。
 なのに、時間が悪いのかな、何だろう……
 水で溶いたような赤紫色が滲む室内では、微笑ましい父親と幼い子供の姿が俺にはやるせなく映って、胸を掻き毟りたくなった。

「トモエ……気付いたか」
「ともともっ」

 ジェイクより先にべにーが駆け寄り、べッドに上がれないとわかると、ジェイクの手をぺしぺしと叩き急かす。
 抱っこされたベニーの小さな手が俺のどこを触ろうかと迷った末に頬を叩く。
 ぺちっ。
 もう一度ぺちっと叩いたまま、俺の目を見つめて動かなくなった。まるで俺の回復具合を探るような真剣な目つきだ。
 その気持ちがわかって、じーんと内側に響いてくる。見た所ベニーはまったく変わりがない。体と顔の見える部分には傷ひとつない。

「ベニー……元気すぎ」
「ともっ、おはよ。大丈夫? 痛い?」
「おはよう。俺はもう平気だから、そんなに心配するな」

 起き上ろうとして、やっぱり挫折した。
 最初に目覚めた時よりも体は軽い気がする。それでも肩の上からら何かに押さえられているように動かない。
 ギリギリと音がなる腕を動かして、ベニーの手の甲に自分の手を重ねる。
 ほんの少ししか離れていなかったのに、なんだか懐かしい柔らかさ。大好きで守りたかった子。ふかふかの手。

「ベニー、ごめんな。ジェイク、ごめん」
「何を謝る」

 不服そうにジェイク言って、表情をなくす。

「だってジェイク……酷い顔してる。せっかくの男前が三割減なんだけど」

 皮膚が薄いのかな。疲れが目にでるタイプなのか目の下に隈がある。
 どんなに忙しくても、こんな顔してた事はなかったのに。

「二人とも、心配かけてごめん。それから、ベニーに怖い思いさせた。子供の頃の記憶って案外大人になってからも影響するから、今は平気でも時間を置いてから恐怖が蘇るかもしれない。眠れないとか、夢に出てくるとか」

 トラウマとか、PTSDと言われる症状だ。

「今のベニーにはそんな症状は出ていないから安心して。眠ったままのトモエの姿に驚いていたが、泣く事にも飽きて、ここで大人しく見守っていたんだ。トモエは何も考えなくていい。自分の体の事だけを考えてくれ」
「わかったよ。ベニーもジェイクも、ずっと側にいてくれたんだね。嬉しい」

 手をベニーの頭に移動させて、ちょっと力を加えて撫でる。
 もっと『いいこいいこ』してくれと頭の角度を下げるから、こっちの気が済むまで撫でたくる。
 本当は抱っこしてギューッとしたいけど、それはもっと先の事になりそうだ。
 ジェイクは脇の椅子を二つ引いてベニーを降ろし隣に自分も座る。
 
「ジェイク、これからもベニーの事、気を付けてみてあげて。忘れた頃に怖かった事が蘇ってくるの、俺、昔にだけど経験してるんだ」
「たとえば、怖くて、眠れなかった事があると言うのか?」
「うん、すごい寝汗で一度目が覚めたらもう眠れなかった」
「それは今も続いてる?」
「ううん、全然。生まれ変わってからこっちの生活が忙しすぎて、楽しくて」
「私の元で生まれかわってからって事だね」
「うん、もちろんそう。ジェイクに拾われてからの生活が幸せすぎてって事」

 悪夢を見る事が一切なくなった。
 あ、今なら言えるかもしれない。全部じゃなくても少しだけ。
 俺は直感的にそう思った

「あのさ、俺、ずっと黙ってたけど……本当は十七歳まで生きた記憶があるんだ。奇妙な事を言いだして、頭打って混乱してるって思われても仕方ない。だけど、ジェイクには知っていてほしい。今は八歳に戻ってるけど、十七だった頃の俺は、父親の暴力に悩まされて、家を出て別の場所を求めてた。ふらふらして、本当に危なっかしかったと思う」
「それは……過去世の記憶か?」

 過去世って前世と考えていいんだろうか。
 ここにもそんな概念あるのなら、俺の言いたい事も伝わりやすいかもしれない。

「えっと、正確に言うと違うけど、でもそう思ってもらうのが一番わかりやすいのかも。この体になる前の記憶が残ってる。この世ではない場所にも行った事がある。怪しい事言ってるのはわかってるんだ。俺の言う事わかるかな? 通じてる?」
「ああ、通じているよ。トモエは過去世を持っている。私はそれを信じる」
「ありがとう。言ってよかった」

 そこまで言うとジェイクが声を落とし、指で俺の眉をなぞってくる。くすぐったい。
 ベニーは話についてこられなくなったのか飽きたのか、椅子を降りると床にあぐらをかいて膝の上で本を開き読み始めたてしまった。

「過去世を持っていて、現世の記憶は飛んでいる。それでも、辛い過去にも記憶にも、トモエは歪められる事がなかった」
「俺、そんな立派なもんじゃないよ。だけどさ、ここで暮らして毎日笑ってると、過去の嫌な事が少しずつリセットされていく感じがするんだ」

 それでも、忘れられない事もあるけどさ。
 流れる涙をジェイクの指がすくってくれる。そして手を包むように重ねてくれた。

「トモエ、過去世の話は、他の誰にもしないいと約束してくれ」

 ジェイクが言うには、以前、同じ魂で何度も生まれ変わると説く宗教家がいたらしい。
 しかし、早く次の世に転生したいと自殺者が増えた事もあって、悪魔の宗教と言われ弾圧された過去がある。
 危険な考えを封じるように、転生しても犯した罪を償うために思念は残留する、自死はその循環から外れると改められたというけれど、「過去世」などと気軽に口にすると奇異な目で見られるのは必至らしい。

「わかった。絶対に口にしない」
「その話を共有できるのは私とトモエだけ。トモエが落ち着いたら、また聞かせてくれるか?」
「うん。わかった。二人の秘密だね」
「いい子だ。しかし記憶を持ったままとは、辛いな」
「悪い事ばかりじゃないよ多分。いい思い出だって覚えていられるし、勉強してきた事も役に立つかもしれない。前向きに考えるならそうなるよ。ジェイクはそう思わない?」
「私は全てを忘れたい。子供の頃から腹を空かした事がないし暴力も受けていない。とても恵まれた生活だったと言えるだろう。それでも、ずっと一人だった。忘れたくても忘れる事のできない記憶は、死ぬまで抱えて生きていく覚悟がある。しかし死んだ後でまで付き合うつもりはない。無になって消えるのが一番だ」

 父親母親、兄弟、友達。ジェイクにはいなかったのだろうか。それとも、いても頼っていい相手ではなかったのだろうか。

「ジェイクには頼りになる家族がいなかったの……」
「私にはベニーと、トモエがいる」

 ジェイクは俺の問いに薄く笑っただけで、それきり何も口にしない。だけど、それでも充分に伝わった。

「……だったら俺と同じだ」

 ジェイクは俺よりマシな生活をしていたと思うけど、普通の幸せとしてイメージできる家庭環境にはいなかった。
 王族って特殊すぎて想像もできないけど、金や名誉や地位が集まる場所って、どろどろした面があるんだろう。命の危険だってあったのかもしれない。
 そうか、ジェイクもひとりだったんだ。

「レーンが難しい話をして惑わせたようだな。私はトモエに言っていない事もあるし、謝らなければいけない事ばかりだ。そうだな、まずは……ロイに直接謝罪させたようと思ったが、あいつも頑なだった。対面させてもまたトモエを傷つけるのは目に見えていた。それに、私自身も二度とあの女とトモエを会わせたくなかった。だから早々に決着を付けてしまった」
「それはもういいよ。ロイが駆け付けたからファルが捕まって、ベニーが助かったのは本当だし、俺はそれだけで充分。もう、ロイのことは全部忘れる。ファルの事も」

 優しくしてくれたことも、楽しかったことも、って言ってもそれほど思い出なんてないし。きっとすぐに思い出さなくなる。これだって楽しい思い出の上にかぶせて、泡のようにパチンと消してしまえばいいんだ。

「ねえ~」

 ずっと大人しくしてくれていたベニーが声を上げる。ずっと口を挟まないでいるのは大変だっただろう。

「ねえ、ともとも。後で、鏡みて」
「ん? どうして」
「すごい顔になってる。じぃっと見てると……いたいよ……」

 ベニーが顔をしかめる。
 俺、顔すったな、そう言えば。
 言われた途端に鼻の表面がヒリヒリしてきたのはその為だ。
 おうとつのない顔でもやっぱり出っ張った所が負傷しているのが、手触りでわかる。鼻と眉間だ。
 こんなカッコ悪い怪我するのは子供の頃もなかったかも。
 それからジェイクに頼んで一度ベッドの上に体を起こすと、そこからは思ったより自由に体が動かせた。寝そべっている所から体を起こすのが一番の難関らしい。
 だけど脳からどぱどぱホルモンが出てきて、痛みを紛らわしてくれてくれている感じがしてきた。これってそばにジェイクとレーンがいるからだ。
 前合わせの病衣をちょっと捲るって様子を見ると、そこには綺麗な肌色の方が少ないんじゃないかってほど、青黒く色を変えた皮膚が面積を占めていた。黄色もある。
 これはもう自分でも見たくなってほどキモくて、ベニーがヒュッと息をのむのがわかって、慌てて合わせを閉じた。
 ロイには二、三度やられた記憶しかなかったけど、その一つひとつが重くて範囲が広かったらしい。あと最初にファルにも一撃くらったんだっけ。
 それを忘れてしまうほどに、後に受けた尻への蹴りの衝撃もなかなかだった。

「ねえ、ジェイク、外が見たい。レーンが言ってたんだ、ここから町が見下ろせるって」

 何も今でなくていいのはわかっているけど、俺は強請ってみた。
 抱き合げられる時は思わずアギャって色気のない声が出たけど、ジェイクが気を取られずに持ち上げてくれたから少しの最少の痛みで済み、お姫様抱っこをされた。
 俺達がいるのは五階の病室だった。それもあって見晴らしがいい。
 病室の大きいとは言えない窓から眼下に広がる町。
 山からの景色までとはいかないけれど、平地から見るより遥かに眺めはいい。
 三角屋根の続く景色、その向こうにある木々。昼中の活気が落ち着いているかと思っていたけれど、道を行き交う馬は朝より急ぎ足に見える。

「ねえ、家ってどっちにあるの?」

 探すように視線を移動させるが見つからず、自分で探すつもりだったけれどジェイクにヒントを貰う。

「遠すぎて、私にもわからないが、あの辺りか」

 軽く指をさす範囲は広すぎるけれど、集中してそこを探せば、それらしき屋根が見つかった。
 ジェイクには見えなくても、目のいい俺にははっきりくっきり見ることができる。建物が並んでいるから見つけにくいけれど、ミニチュアの我が家ははっきり特別に映った。

「ねえ、ジェイク。早くあそこに帰りたいよ。色々あったけど、やっぱりあそこがいい」
「そうだな。ここよりも、元の環境に戻る方が治りもいいかもしれない。でももう少し我慢だ」

 何の説明も受けていないけれど明日、明後日の退院は無理だろう。

「ねえベニーの世話は? 仕事は大丈夫なの?」
「仕事は休み」
「そっか、そうだったね。忘れてた」

 ジェイクは一週間休みと言っていた。本来なら今頃は三人で遠出しているはずだったんだ。
 くっそ、惜しい事した。
 くうっと唸っていると、ジェイクが苦笑いする。

「私が作った薬を取り寄せてある。それを飲んで、早くよくなれ。私が願うのはそれだけだよ。トモエ、早く以前のお前に戻ってくれ」

 唇を頬に寄せられ、次にこめかみへ。何だか恥ずかしくてぼおっとしてしまう。
 こんな軽いのは普段ならどうってことないはずなのに、いつもと体調が違うせいか、労わりを持ったキスが俺の頬を染めた。
 なんか最悪なことが続いたけれど、ジェイクのキス一つでまあいいかと思えてしまった。
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