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「では私がジイに出した条件の一つを教えよう。まず、私は面倒に巻き込まれるのはご免だ。私のそばにいることで変に野望を持たれても困る。だからその者には親兄弟、親戚、頼りになる友人や仲間がいないこと。ただの一人もいないこと。その者自身にも権力や厄介なしがらみがないこと。これが私のそばにいるための最も重要な条件だ」
「僕、それに当てはまります。天涯孤独で一人です。親の顔を知りません。親類も友達もいません」
まさにそれは自分だと、コウは嬉しくなってしまう。
「本当にそうなのか? 十六年も生きていれば、仲のいい友の一人はいたのではないか」
「いえ、友達はいたことがありません。友達とそうでない人とを、どう区別したらいいのかわかりませんが、僕を守ってくれる人や仲良くしてくれる人は、いませんでした」
コウは堂々と言ってしまう。寂しいことではあるが、もうそれを恥ずかしいとは思っていない。
しかしアスランは表情を固めてしまっている。
「あれ……もしかしたら僕にも友達がいたことが、あったのかもしれないです。毎日小鳥さんに声をかけていたのですが、それは友達でしょうか。でも返事はなくて……あれ、だったら違うのかな、混乱して、友達というのが何か、わからなくなってしまいました……」
「いや、もういい、コウの言いたいことはわかった。きっとお前には友達はいなかった。とりあえず、もう喋るな」
一喝したのではないのに、コウはピクリと肩を震わせ、口を固く結んだ。アスランを恐れたのではなく、これまでの生活で身に着けた反射だろう。
コウには友達はいなかった、これは本当だろうとアスランは判断した。
友達という存在がいたのであれば、こうも言葉の意味をこねくり回して混乱することはないはずだ。
親も親戚もいない。悲しいことだが、そんな状況におかれてしまった人間はいる。
しかし、友達も仲間もいないとは、一体どんな生活をしてきたのか。こういったことをコウ自らの口で語らせるのは、酷い拷問と同じではないのかと思えてくる。
「……条件は合致しているな」
「はい、合っています。嬉しいです。ぜひ別の条件も教えてください」
コウは許しをもらったように喜んで返事をした。親がいない、自分を守ってくれるべき存在がないのは、もはやコウを苦しめるべき事情ではないのだ。
早くはやく、そう急かすようにコウはアスランの目から視線を外さない。
脆いようでいて強い。不思議な青年だとアスランはコウを見る。
「健康体で風邪ひとつ引いたことがない者」
「風邪をひいたことないです。怪我をしても仕事を休んだことはありません」
「健康なのはいいことだが、怪我をしても無理をするのは障りがあるだろう。仕事より自分の体を大切にするのは当たり前のことだ」
「そうなんですね。これからはそうします」
まるでわかっていない様子でコウは言う。病気であっても働くのがコウの国での当たり前の常識なのだ。これはじっくり時間をかけて教えるしかないと溜息をついた所で、アスランは慌ててそれを否定する。
いかんっ。
コウをこのまま受け入れて、ジイの思い通りになるわけにはいかないのだ。アスランはジイに向かって適当に吐いた言葉を思い出しながら、また咳払いする。
「……その者は、贅沢になることなく、命が尽きる時まで清貧に甘んずる覚悟があること。清貧というのは、貧しい生活で常に質素であるという意味だ」
「清貧は得意です。生まれてからずっと清貧をやってきましたので」
「ああ、それは聞かずともわかる……まさに筋金入りだろう」
親がいない時点で大きなハンデになるのがこの世の中だ。しかも崖の上の国でも血の繋がりを大事にし、血を巡る縦横の繋がりが重要だと聞いている。そして続く内戦で内側から弱っている。
その中でもこの蝙蝠は、ずっと弾かれながら生きてきたのだろう。
着ている服は大きすぎな上に、元の色がわからないほど汚れている。どうしてか靴を履いておらず足の裏は真っ黒だ。指先も黒い。
枝のように細いコウ。アスランのいた国にも貧しい者はいた。しかしコウの貧しさはそれを遥に越えている。
「あまり食べられていないのか」
「……運がよければ二食。夕はだいたい燕麦粥を食べています。たまに菜っ葉の炒め物がつきます。その中に干し肉のかけらが入っている時があって、それが楽しみで」
コウは干し肉の味を思い出して微笑んでしまう。しかしアスランは逆に表情を硬くしていった。
つまり、毎食ろくに食べられず、最高の一品が干し肉の欠片となるからだ。
アスランの国でも燕麦を栽培しているが、ほとんどは馬や牛の飼料として使われている。それがコウの国では貴重な主食となっているのだ。
アスランの困惑が伝わって、コウはどうしていいかわからなくなる。
鳥に混じって畑をつつき虫食いの豆まで食べていたとは、流石のコウも恥ずかしくて黙っていた。いつも鍋底をなんとかすくい、時には拾い食いをしていた自分を思い出してしまって、つい頬が赤くなる。
「お前は私の想像の遥か上を行く。頭が痛くなりそうだ」
実際にアスランは目を細め、眉間を押さえて揉んでいた。
「すみません」
「謝るな」
「すみませ、あっ……すみません……」
コウと話をしているとアスランの調子が狂う。
「文句を何一つ言わない、嫌な顔をしない。料理上手で、他の家事にも手を抜かないこと。ジイが何もかもを確認済で連れてきたんだ。この条件もやはりコウならば合うのだろう」
「家の掃除はできると思います。ですが、料理はまったくできません。野菜を洗って剥いてはしていましたけれど、調理の経験はなくて」
コウはわかりやすく意気消沈するが、アスランは続ける。
「控えめででしゃばらず、かと言って黙っているだけはつまらない。必要な時には会話が楽しめる者がいい。健康的で素直で笑顔が花のように明るい、美しい者。それが私の理想だ」
「あ……無理、ですね、違います。美しさは僕にはないものです。それに僕は明るくない。条件のほとんどを満たしていなかったみたいです」
えへっとコウは笑うが、頬が引きつっていた。
「あまり人と関わってきていなので社交性がなくて、お喋りがたまに一方的になるんです。さっき風邪を引いたことがないって言いました。だけど体はいつも痛いし、健康ではないんです。嘘をついてごめんなさい」
コウはようやく立ち上り、少しふらついた後、謝罪のようにペコリと頭を下げた。
今になって自分の身なりが気になって、少しでも隠すように身体を小さくする。
「僕は……どこも……醜いから……」
コウの掠れた声にならない声にアスランは驚く。コウが自分の容姿を認めていないことに。
確かにコウの体は細い。しかしコウの容姿は悪くない。
目が大きく瞳は輝いている。ぎょろっとした印象があるのは、隈があり頬がこけているからであって、あるべき体重にさえなれば一番魅力を持つ場所になるだろう。
鼻は小さいがすうっと通り、その下にある唇はかさついているものの、ふっくらとしている。
美しいとされる人を多くみていたアスランだが、それでもコウはその人達に比べても遜色がない。化粧や着る物の誤魔化しがない分、素のよさがわかる。
しかしコウは自分を醜いと思っている。
コウは昔から鉄板や鏡が嫌いだった。ガリガリでそれでいて目だけが生に執着してギラリと光っているようで、自分の顔が怖かった。
工場では煤で顔が汚れて自分の目も誤魔化すことができて、少しだけ気が楽になった。
自分は醜い。身元もはっきりせず信用できない。だから誰も相手をしないのだと思った。
自分の顔をこれまでまともに見て来なかった。
たまに映り込んでしまう池や水たまりなら正視できる。水鏡のように表面が揺れて、曖昧ではっきりしない位がコウには丁度よかった。
正面から自分を見るのは、もっともコウが避けていたことだ。人であっても蝙蝠であっても、コウは自分に何かの価値をつけられなかった。
自分を見せつけられる鏡は嫌いだ。
「僕は飛膜に穴が空いてます。ぼろぼろです。お腹が痛いのは眠れば治ったけれど、これだけは治りませんでした。飛んでもバンラスが取れなくて……」
「仕事で負った傷か」
「多分違います。もしかしたら、栄養が足りないの、かな……」
「しかしコウは働いて収入を得ていたのだろう。工場ではどんな仕事をしていたのだ」
「今は機械の下で埃を取ったり、とっての調整をしたり、蒸気口が下にあったから年中熱くて、頑張っていても気が散ることもありました。だから部品を壊すんだって言われて、何度か弁償していました。きっと不器用なんです」
「その仕事をずっとしていたのか」
「はい、子供の頃から。十の頃から。機械の下に入るようになったのは、もっと後ですけれど」
アスランの顔が一層険しくなる。
労働環境が悪く、労働年齢も低い。弁償だ費用だとの名目で搾取するのも、そういった工場にいる不届き者の常套だろう。身寄りのないコウはいわば金蔓であり、使い捨てだったのだ。
「しかし、そんなコウがどうしてジイと知り合いうことになったのだ?」
「えっと、僕は同じ蝙蝠にも嫌われていて、それで、追われて……逃げて、崖から飛んでいました。そこを声の主様に拾われたのです」
「なるほど、そういうことがあったのか。悪いがそのボロボロだと言う翼を見せてもらえるか?」
「でも、とてもお見せできるような……あの……わかりました」
倒れそうなほど顔色を悪くしても、コウは断ることを知らない。アスランはそれをわかった上で言った。
コウを雇うわけにいかないと思っていたのに、コウの負った傷をどうしてもこの目で確かめてみたかったのだ。
戻るのに動作もタイミングもないのだろう。コウは自分の顔を両手で隠すと、その体を上下に貫く直線の光が走る。
変異する時、これほど光ることはそうない。
漏れだす光は、通力が無駄になっていると言う証のようなものだ。
これもコウは本能のまま変わっているだけで、効率的なやり方を誰にも教わっていないからだろう。
本来なら親や仲間が時間をかけすべきことを、この年までコウはほっておかれたままなのだ。そして工場でもただ搾取されるだけだった。
コウは一秒ほどで蝙蝠の姿になる。
翼を動かしアスランの前で滞空していたが、体は傾いでふらついている。そのまま墜落してしまのではと、思わず手を出したくなるほど頼りない。
コウも限界を感じたのだろう。
少し離れた地面に降りたち、何かを覚悟した後、右の翼だけを広げた。
しかしアスランはその場に片膝をついて、問題の部分をしっかりと見た。
そこはコウが申告した通り、ボロボロになっている。当初は針で突いたように小さくとも、今ではそこだとわかるほど広がっている。乾いた土が表面からポロポロと剥がれるように、飛膜は薄くなっている。
可哀想に。
言うのは容易いが、コウを傷つけてしまうと思えば何の言葉もでない。アスランに弱い者を痛めつける趣味はないし理解できない。しかしそれを楽しみ悦ぶ者が幾らでもいるのを知っている。
運が悪かった。
そんなひと言では片付けられない。
不運が重なって重なって、それでもコウは生きてきた。
蝙蝠となったコウは、キュと鳴いた。それでアスランに何かを言っているようだが通じない。
キュキュ。
続けて鳴いたあと、コウは木立に消えていく。
「待て、行くなっ、コウッ!」
アスランは声を上げたが、追い掛けはしなかった。
コウのあのスピードなど軽く追いついて、その動きを止めるのも軽くできるというのにしなかった。
コウの気持ちを少しでも思いやるなら、しばらく一人の時が必要だと、勢いいさんで出した一歩だけで踏みとどまったのだ。
森へと消えてしまいながら、コウは恥ずかしさでいっぱいだった。
『見せてもらえるか?』
それは強い命令ではなかった。だから最後に見せると判断したのはやっぱり自分だ。だけど、これを見てアスランはどう思ったのだろう。彼は何も言わなかった。ただ自分がその痛みを共有しているみたいに眉間にぐっと力を込めていた。
これは僕だけが背負う傷でいいのに……
余計な荷物を負わせてしまったし、何より恥ずかしかった。
こんな自分を見せるのは恥ずかしい。あの美しい人に、周りにも美しさを望む人に、わかっていて晒してしまった。
アスラン様はいい人だ。
こんな酷い格好をしたコウをまっすぐに見据え、嫌な顔をしなかった。これまでコウが接してきた誰とも違う反応だった。
あの人に仕えられたら、自分は幸せだろう。
コウは今まで人に仕えたことはないけれど、そう思った。
声の主様は断られても粘れと言っていたが、ここは一時撤退させてもらうしかない。
『今日は突然来てしまってしみません。また明日来ます』
蝙蝠のコウが発した言葉がアスランに伝わっていないことは頭になかった。
「僕、それに当てはまります。天涯孤独で一人です。親の顔を知りません。親類も友達もいません」
まさにそれは自分だと、コウは嬉しくなってしまう。
「本当にそうなのか? 十六年も生きていれば、仲のいい友の一人はいたのではないか」
「いえ、友達はいたことがありません。友達とそうでない人とを、どう区別したらいいのかわかりませんが、僕を守ってくれる人や仲良くしてくれる人は、いませんでした」
コウは堂々と言ってしまう。寂しいことではあるが、もうそれを恥ずかしいとは思っていない。
しかしアスランは表情を固めてしまっている。
「あれ……もしかしたら僕にも友達がいたことが、あったのかもしれないです。毎日小鳥さんに声をかけていたのですが、それは友達でしょうか。でも返事はなくて……あれ、だったら違うのかな、混乱して、友達というのが何か、わからなくなってしまいました……」
「いや、もういい、コウの言いたいことはわかった。きっとお前には友達はいなかった。とりあえず、もう喋るな」
一喝したのではないのに、コウはピクリと肩を震わせ、口を固く結んだ。アスランを恐れたのではなく、これまでの生活で身に着けた反射だろう。
コウには友達はいなかった、これは本当だろうとアスランは判断した。
友達という存在がいたのであれば、こうも言葉の意味をこねくり回して混乱することはないはずだ。
親も親戚もいない。悲しいことだが、そんな状況におかれてしまった人間はいる。
しかし、友達も仲間もいないとは、一体どんな生活をしてきたのか。こういったことをコウ自らの口で語らせるのは、酷い拷問と同じではないのかと思えてくる。
「……条件は合致しているな」
「はい、合っています。嬉しいです。ぜひ別の条件も教えてください」
コウは許しをもらったように喜んで返事をした。親がいない、自分を守ってくれるべき存在がないのは、もはやコウを苦しめるべき事情ではないのだ。
早くはやく、そう急かすようにコウはアスランの目から視線を外さない。
脆いようでいて強い。不思議な青年だとアスランはコウを見る。
「健康体で風邪ひとつ引いたことがない者」
「風邪をひいたことないです。怪我をしても仕事を休んだことはありません」
「健康なのはいいことだが、怪我をしても無理をするのは障りがあるだろう。仕事より自分の体を大切にするのは当たり前のことだ」
「そうなんですね。これからはそうします」
まるでわかっていない様子でコウは言う。病気であっても働くのがコウの国での当たり前の常識なのだ。これはじっくり時間をかけて教えるしかないと溜息をついた所で、アスランは慌ててそれを否定する。
いかんっ。
コウをこのまま受け入れて、ジイの思い通りになるわけにはいかないのだ。アスランはジイに向かって適当に吐いた言葉を思い出しながら、また咳払いする。
「……その者は、贅沢になることなく、命が尽きる時まで清貧に甘んずる覚悟があること。清貧というのは、貧しい生活で常に質素であるという意味だ」
「清貧は得意です。生まれてからずっと清貧をやってきましたので」
「ああ、それは聞かずともわかる……まさに筋金入りだろう」
親がいない時点で大きなハンデになるのがこの世の中だ。しかも崖の上の国でも血の繋がりを大事にし、血を巡る縦横の繋がりが重要だと聞いている。そして続く内戦で内側から弱っている。
その中でもこの蝙蝠は、ずっと弾かれながら生きてきたのだろう。
着ている服は大きすぎな上に、元の色がわからないほど汚れている。どうしてか靴を履いておらず足の裏は真っ黒だ。指先も黒い。
枝のように細いコウ。アスランのいた国にも貧しい者はいた。しかしコウの貧しさはそれを遥に越えている。
「あまり食べられていないのか」
「……運がよければ二食。夕はだいたい燕麦粥を食べています。たまに菜っ葉の炒め物がつきます。その中に干し肉のかけらが入っている時があって、それが楽しみで」
コウは干し肉の味を思い出して微笑んでしまう。しかしアスランは逆に表情を硬くしていった。
つまり、毎食ろくに食べられず、最高の一品が干し肉の欠片となるからだ。
アスランの国でも燕麦を栽培しているが、ほとんどは馬や牛の飼料として使われている。それがコウの国では貴重な主食となっているのだ。
アスランの困惑が伝わって、コウはどうしていいかわからなくなる。
鳥に混じって畑をつつき虫食いの豆まで食べていたとは、流石のコウも恥ずかしくて黙っていた。いつも鍋底をなんとかすくい、時には拾い食いをしていた自分を思い出してしまって、つい頬が赤くなる。
「お前は私の想像の遥か上を行く。頭が痛くなりそうだ」
実際にアスランは目を細め、眉間を押さえて揉んでいた。
「すみません」
「謝るな」
「すみませ、あっ……すみません……」
コウと話をしているとアスランの調子が狂う。
「文句を何一つ言わない、嫌な顔をしない。料理上手で、他の家事にも手を抜かないこと。ジイが何もかもを確認済で連れてきたんだ。この条件もやはりコウならば合うのだろう」
「家の掃除はできると思います。ですが、料理はまったくできません。野菜を洗って剥いてはしていましたけれど、調理の経験はなくて」
コウはわかりやすく意気消沈するが、アスランは続ける。
「控えめででしゃばらず、かと言って黙っているだけはつまらない。必要な時には会話が楽しめる者がいい。健康的で素直で笑顔が花のように明るい、美しい者。それが私の理想だ」
「あ……無理、ですね、違います。美しさは僕にはないものです。それに僕は明るくない。条件のほとんどを満たしていなかったみたいです」
えへっとコウは笑うが、頬が引きつっていた。
「あまり人と関わってきていなので社交性がなくて、お喋りがたまに一方的になるんです。さっき風邪を引いたことがないって言いました。だけど体はいつも痛いし、健康ではないんです。嘘をついてごめんなさい」
コウはようやく立ち上り、少しふらついた後、謝罪のようにペコリと頭を下げた。
今になって自分の身なりが気になって、少しでも隠すように身体を小さくする。
「僕は……どこも……醜いから……」
コウの掠れた声にならない声にアスランは驚く。コウが自分の容姿を認めていないことに。
確かにコウの体は細い。しかしコウの容姿は悪くない。
目が大きく瞳は輝いている。ぎょろっとした印象があるのは、隈があり頬がこけているからであって、あるべき体重にさえなれば一番魅力を持つ場所になるだろう。
鼻は小さいがすうっと通り、その下にある唇はかさついているものの、ふっくらとしている。
美しいとされる人を多くみていたアスランだが、それでもコウはその人達に比べても遜色がない。化粧や着る物の誤魔化しがない分、素のよさがわかる。
しかしコウは自分を醜いと思っている。
コウは昔から鉄板や鏡が嫌いだった。ガリガリでそれでいて目だけが生に執着してギラリと光っているようで、自分の顔が怖かった。
工場では煤で顔が汚れて自分の目も誤魔化すことができて、少しだけ気が楽になった。
自分は醜い。身元もはっきりせず信用できない。だから誰も相手をしないのだと思った。
自分の顔をこれまでまともに見て来なかった。
たまに映り込んでしまう池や水たまりなら正視できる。水鏡のように表面が揺れて、曖昧ではっきりしない位がコウには丁度よかった。
正面から自分を見るのは、もっともコウが避けていたことだ。人であっても蝙蝠であっても、コウは自分に何かの価値をつけられなかった。
自分を見せつけられる鏡は嫌いだ。
「僕は飛膜に穴が空いてます。ぼろぼろです。お腹が痛いのは眠れば治ったけれど、これだけは治りませんでした。飛んでもバンラスが取れなくて……」
「仕事で負った傷か」
「多分違います。もしかしたら、栄養が足りないの、かな……」
「しかしコウは働いて収入を得ていたのだろう。工場ではどんな仕事をしていたのだ」
「今は機械の下で埃を取ったり、とっての調整をしたり、蒸気口が下にあったから年中熱くて、頑張っていても気が散ることもありました。だから部品を壊すんだって言われて、何度か弁償していました。きっと不器用なんです」
「その仕事をずっとしていたのか」
「はい、子供の頃から。十の頃から。機械の下に入るようになったのは、もっと後ですけれど」
アスランの顔が一層険しくなる。
労働環境が悪く、労働年齢も低い。弁償だ費用だとの名目で搾取するのも、そういった工場にいる不届き者の常套だろう。身寄りのないコウはいわば金蔓であり、使い捨てだったのだ。
「しかし、そんなコウがどうしてジイと知り合いうことになったのだ?」
「えっと、僕は同じ蝙蝠にも嫌われていて、それで、追われて……逃げて、崖から飛んでいました。そこを声の主様に拾われたのです」
「なるほど、そういうことがあったのか。悪いがそのボロボロだと言う翼を見せてもらえるか?」
「でも、とてもお見せできるような……あの……わかりました」
倒れそうなほど顔色を悪くしても、コウは断ることを知らない。アスランはそれをわかった上で言った。
コウを雇うわけにいかないと思っていたのに、コウの負った傷をどうしてもこの目で確かめてみたかったのだ。
戻るのに動作もタイミングもないのだろう。コウは自分の顔を両手で隠すと、その体を上下に貫く直線の光が走る。
変異する時、これほど光ることはそうない。
漏れだす光は、通力が無駄になっていると言う証のようなものだ。
これもコウは本能のまま変わっているだけで、効率的なやり方を誰にも教わっていないからだろう。
本来なら親や仲間が時間をかけすべきことを、この年までコウはほっておかれたままなのだ。そして工場でもただ搾取されるだけだった。
コウは一秒ほどで蝙蝠の姿になる。
翼を動かしアスランの前で滞空していたが、体は傾いでふらついている。そのまま墜落してしまのではと、思わず手を出したくなるほど頼りない。
コウも限界を感じたのだろう。
少し離れた地面に降りたち、何かを覚悟した後、右の翼だけを広げた。
しかしアスランはその場に片膝をついて、問題の部分をしっかりと見た。
そこはコウが申告した通り、ボロボロになっている。当初は針で突いたように小さくとも、今ではそこだとわかるほど広がっている。乾いた土が表面からポロポロと剥がれるように、飛膜は薄くなっている。
可哀想に。
言うのは容易いが、コウを傷つけてしまうと思えば何の言葉もでない。アスランに弱い者を痛めつける趣味はないし理解できない。しかしそれを楽しみ悦ぶ者が幾らでもいるのを知っている。
運が悪かった。
そんなひと言では片付けられない。
不運が重なって重なって、それでもコウは生きてきた。
蝙蝠となったコウは、キュと鳴いた。それでアスランに何かを言っているようだが通じない。
キュキュ。
続けて鳴いたあと、コウは木立に消えていく。
「待て、行くなっ、コウッ!」
アスランは声を上げたが、追い掛けはしなかった。
コウのあのスピードなど軽く追いついて、その動きを止めるのも軽くできるというのにしなかった。
コウの気持ちを少しでも思いやるなら、しばらく一人の時が必要だと、勢いいさんで出した一歩だけで踏みとどまったのだ。
森へと消えてしまいながら、コウは恥ずかしさでいっぱいだった。
『見せてもらえるか?』
それは強い命令ではなかった。だから最後に見せると判断したのはやっぱり自分だ。だけど、これを見てアスランはどう思ったのだろう。彼は何も言わなかった。ただ自分がその痛みを共有しているみたいに眉間にぐっと力を込めていた。
これは僕だけが背負う傷でいいのに……
余計な荷物を負わせてしまったし、何より恥ずかしかった。
こんな自分を見せるのは恥ずかしい。あの美しい人に、周りにも美しさを望む人に、わかっていて晒してしまった。
アスラン様はいい人だ。
こんな酷い格好をしたコウをまっすぐに見据え、嫌な顔をしなかった。これまでコウが接してきた誰とも違う反応だった。
あの人に仕えられたら、自分は幸せだろう。
コウは今まで人に仕えたことはないけれど、そう思った。
声の主様は断られても粘れと言っていたが、ここは一時撤退させてもらうしかない。
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