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26 記憶の中の
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佐保さんの友人だと言う支配人さんの言動はおかしかった。
出迎えはあれほどにこやかにしていたのに、バックヤードの小部屋では俺を見て目を潤ませ、郁也を見ては小さな頃の俺にそっくりだと言った。
この人は、昔の俺に会っている。だったらいつ頃? 一体俺の何を知っているんだ?
疑問に思ったけれど、何だか怖くなって口を閉ざしてしまった。詳しく聞きたいけれど、どうしてもその勇気が持てなかった。
これほど洒落た店に来た記憶はない。佐保さんに連れられてランチに来た時には、この支配人とは会っていなかった。
違う……考えるべきはそこじゃない。
自分は何かを感じている。それは形がはっきりしないくせに、濡れた紙のように脳ミソにくっついて、べたべたのまま離れてくれない。
まとわりつく疑問を引きずったまま、気持ち悪いまま、みんなが待つ個室に戻った。
「どうして……」
自然に口が開いて、佐保さんに疑問を投げかけていた。
佐保さんはさっと立ち上がり、俺の方へと歩み寄る。その途中で郁也が走り出し佐保さんの足にしがみつく。次には両手を広げて抱っこをねだった。
俺の様子が変で不安になったのだろうか。そして信頼できるαに駆け寄って行ったのだろうか。
素直に駆けだせる郁也が羨ましかった。素直な気持ちのまま求めたら抱っこしてもらえる。それを当然とする郁也をずるいと思った。
いいな。
それははっきりとした嫉妬だった。自分の子供である郁也に対して瞬間怒りに似た気持ちが湧いた。こんな感情は初めてだ。でも佐保さんの言葉が俺を鎮めてくれた。
「ごめんね、郁也君。抱っこは、待っていてくれるかな?」
佐保さんは郁也の頭を撫で、そっと言い聞かせた。子供に見せる優しい顔だった。
なんだ、なんだ、なんだ。
混乱した。佐保さんのそんな顔は何度も見てきたはずなのに、今のこの時だけは酷く混乱した。
その佐保さんの顔に、何かが重なろうとするが、上手くいかない。気持ちがそれを拒否する。
何か言った方がいいのかもしれない。だけど何も出ない。
顔をふって室内を見渡し、天井を見上げた時、ぼやけていた物が重なって焦点が合った気がした。
ああ……そうだ。
俺はここを知っている。以前にランチできた時は庭が見える席だったけれど、ここは天井の高い大きな個室だ。
天井は水色の壁紙より派手で賑やかだった。垂れさがるシャンデリアの根元には装飾の板があって、縁は波模様を描いて一周している。
くるんくるんと、クリームを絞り出した時のような滑らかな縁取りを、美味しそうと言ったのは俺。まだ小さかった頃の俺。クリーム色じゃなくて、淡いピンク色だったのが幼心に響いた。
あれはマシュマロの味、いちごの味、どっちだろう。
とにかくこの店は昔から細かな装飾までメルヘッチックで、来る度に何かしら新しい発見があって面白いのだ。
上ばかり見ていたから、口の端からつうっと何かが、デザートのソースが垂れた。
そして……それを横に座る父が、笑いながら指先で拭って、そして、俺の口の中に突っ込んできたんだ。
『史がようやくこっちを見た』
びっくりする俺を愉快そうに見ている。
俺の意識をこっちに戻す方法だったのかもしれないけれど、まさか父がそんな事をするなんて思ってもなくて。
ぽかんとして見上げた時の父のお茶目な笑顔がキラキラしていて、自分はすごく父親が好きなんだと自覚した。
あまり家にいない父、あまり自分との遊びが得意でない父。でもここへ来る為に着替える時には服を選んでくれた。そしてまたこの触れ合いで不器用なりの愛情表現があるのだと知った。
『パパは、史のことが好きなの?』
『もちろん好きだよ』
『そうなんだぁ。そっかぁ』
嬉しくて恥ずかしくて、父の腕を取り大好きな匂いにすりよって甘えた。俺を丸ごと包み込む事ができる大きな体。逞しい肩に厚みのある手。
思い出した。そうだ。これは俺のαだ。
ずっとずっと焦がれてきた、父の匂い。大きくて優しい父の匂い。ある突然、奪われた匂い。だから郁也、どうか取らないでくれ、俺の父さんを。
「俺の……父さんは、俺だけのものだ……今だけは、それでいいじゃん……俺は、完璧じゃない。大人だけど、どうしても大人になりきれない。それに、父親の前でくらい、子供でいたい……」
大好きな人だから、自分の子供にだって譲りたくない。
べそべそ泣きながら俺は手を伸ばした。その手を佐保さんが取ってくるだろうか、なんて疑う必要ない。
だって佐保さんは俺の父さんだろ。郁也は孫だろ。だったら間にいる俺に優先権があるだろ。何よりも誰よりも俺を優先するのが親の仕事だろ。
じゃないと泣いちゃう。ってか泣いてる。
俺の手が行き場を失ったのは、佐保さんに丸ごと包まれていたから。ぎゅっと抱きしめられて懐かしい香りがする。
さっきも嗅いだのに、どうして気付かなかったんだろう。ずっと隣にいたのに。よおく嗅いだら、とっても懐かしくて、大好きな父さんの香りだってわかったはずなのに。
俺の体がポンコツじゃなければ、すぐにわかったのかな。何度も会ってたのに、何で気付かなかったのかな。
「ぱぱ……でしょ?」
「史君、史君、史……ごめんね。ずっと君を救えなくてごめんね。大好きだって言っておきながら、君を幸せにできなくて、置き去りにして、不幸にして、ごめんね。ずっと本当の事が言えなくて……ごめん」
「……そんな事、ない」
「私さえしっかりしていれば、君に起こった不幸はなかった。ずっと市東史として、私の息子として生きられた。必要のない苦労をさせる事はなかった」
佐保さんの懺悔が続いた。だけど俺はそんなの欲しくない。ただ佐保さんが抱きしめてくれるのが嬉しい。父親が佐保さんだったことが嬉しい。だけど俺の中にいる小さな俺が表に出てきて悲しみ始める。
「俺……は、いっ……つ……だって。でも、まってたんだよ。パパのこと、ずっと。なのに、なんで……っ、どうしてっ……」
しゃくりあげてしまって声が出ない。自分はずっと、本当はずっと待っていた。それを伝えたかった。
「迎えに行けなくてごめん。全部が私の怠慢だった。史……私はいつまでも駄目な父親だけど、それでもやっぱり史が好きなんだ。愛しているのは史だけだ……誰よりも、幸せになってほしいのは史なんだよ」
佐保さんまで泣き出して、静かな室内には俺と佐保さんの泣き声だけが続いた。
こんなだったなあ。佐保さんに初めて会った時、その時もこんな呼吸困難みたいな泣き方をしていた。そんな事を思い出した。
「パパ……パパの事は、今だって好きだよ。辛い時はいつもパパを呼んでた。ママは嫌いだったけど、パパは好きだった。パパがいたから、優しかったから、俺は壊れる前に、またここに戻って来られたんだよ」
だって、自分の心が身体から分離してふわふわしてた時だって、パパの記憶は持っていた。指を吸っていると、その顔が思い出せそうで、思い出せなくて、どうにも止める事が出来なくなった。
でもそれがあったから、心と身体が細い線で繋がることができていた。時間がかかっても自分を取り戻すことができた。
だからこの父を今さら責める気なんてない。ただ、自分がどれだけ辛かったか、苦しかったか、優しくしてほしかったか、それを伝えなければ小さな俺が不憫でならない気がした。
佐保さんは俺の過去をある程度知っているのだろう。でも俺の過去をこの世で一番知られたくない人は、父である佐保さんだ。
「いつか、俺の、話。むかしの話、聞いてほしい。それまで待っていてくれる?」
「もちろんだよ。私は史のすべてを受け入れる。それを覚えておいて」
その言葉にさめざめと泣いた。
俺達が抱き合っている時間はそれほど長くなかったと思う。佐保さんに頭をぽんぽんってされて顔をずらしたら、子供達全員が滝みたいな涙を流して互いを励ますように寄り添って立っている。
いつも大人っぽく見える上の三人なのに、この時ばかりは年相応の子供にしか見えない。光流の足に抱き付いている郁也だけが、状況を飲み込めずにいるようだ。
急に恥ずかしさが出てくる。
「えーっと、あーんと……光流、空、怜、郁也。突然泣いちゃって、みんなを驚かせちゃって、ごめん。実は、ってかその様子だと多分事情は伝わってるのか。なんかよくわかんないけど、佐保さんは俺の父親なんだ。つまりみんなの祖父ちゃんって事になる、かな」
言ってもよかったよね? と見上げると佐保さんは頷いてくれた。
「ええっ! 佐保さんって僕のおじいちゃん? 本物?」
俺の告白に驚いたのは郁也だけだった。残りはしっかり頷いているだけ。
あれ……? もしかして知ってたって事? どういう事? もっとこう、びっくり! みたいな反応がないわけ? 質問とかないの?
郁也が不思議そうに兄達を見渡し、光流のズボンを引っ張る。
「ねえ、佐保さんは僕のおじいさまなの?」
「うん、僕と空と怜と郁也の、本当のおじい様だよ」
「うそぉ」
「本当だよ」
「だったらすごい、すごいです。僕のおじいさま。僕にもおじいさまがいたのですね。兄さま達にはおじいさまがいたのに、僕にだけいなかったのは、佐保さんが、おじいさまだったから……そっかぁ。そうだったのかぁ」
泣いてしまった郁也を空が一番に抱きしめる。
これまでずっと口にしないだけで、ずっと心にあった疑問を、この時になってようやく郁也は吐き出した。
はっとしたのは郁也以外の全員だ。
宗賀の父には笑いかけられた事も、抱かれた事もない郁也。赤ん坊の頃から人なつっこい郁也にとって、宗賀の父は怖い人だった。兄達との差を感じる機会は何度もあったはずだ。
幼いから覚えていないだろう、なんて大人の言い分は通じない。郁也は自分だけ違う扱いをされているのに気づいて疑問を持っていた。
誰も説明してくれないから、自分だけお祖父ちゃんがいないと、思うようになったのかもしれない。
俺は佐保さんの胸の中から抜け出して、郁也の手を取り足元に膝をついていた。だけど何の声もかけられない。郁也はとっても賢い子で、誰にも悟られず黙ってきた。自分なりの解釈でその柔らかい心を守ってきた。いつかの俺みたいに。
佐保さんまでやってきて俺の横で膝をつく。
「郁也君、昔の私は息子である史君を大事にできませんでした。大切な人を忘れて放置するような酷い人間でした。でも今は心を改めています。ずっと黙っていたのですが、史君は私の息子で、郁也君は私の孫なんです。よければ、私の事をおじいちゃんだと、認めてくれませんか?」
とても丁寧な言葉だった。対等な扱いを受けた郁也はきちんと涙を拭いて佐保さんに向き合った。
「佐保さんは、母さまのお父さまで、僕のおじいちゃんです。優しいおじいちゃんです。ずっと一緒にいる家族です」
「ありがとうございます。郁也君のおじいちゃんとして、精一杯郁也君を愛します。これまで以上に史君と郁也君、光流君、空君、怜君を大切にしたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします」
「はいっ、よろしくお願いします」
佐保さんは郁也の涙をぬぐって頭を撫でた。
残った食事とケーキはパックに詰めて持ち帰ることになった。マチのある紙袋が四つ。結構な量だ。
胸がいっぱいになったのは俺だけじゃなくて、なんと、底なし胃袋の持ち主である空まで、これ以上は食べられない! と言い出す異常事態だった。
帰り支度をしているのに、郁也のテンションは振りきれていた。
佐保さんがおじい様になった事だしとベタベタするのかと思いきや、俺にひっついて隠れてしまい、向こう側にいる佐保さんをじっと見つめている。
最後にトイレに行こうと誘っても、俺の足にしがみついて石のように動かない。
でも興奮しているからか、その場でもじもじ、お尻だけをふりふりしている。そして隠れてまた佐保さんの観察。郁也は壊れた。
佐保さんが父さんだとわかった感動より、郁也の頭の中が心配になってしまう。
小休止なのか、ようやく俺から離れたと思ったら、郁也はちょこちょこと、遠慮がちに、歩幅小さく、佐保さんに近付き囁く。
「佐保おじい様は家族です。家族は一緒のお家で暮らすものです。なので僕は、今から佐保さんを連れて帰ろうと思います」
「連れて帰る。私を?」
「はい。佐保さんは一人で一人のお家に帰ります。だったら僕達と一緒に多美さんアパートに来てもいいと思うのです」
郁也が興奮していたのはこれか。言いたくても言い出しにくい言葉を伝えるタイミングを計っての数々の奇行だったのだ。そしてそのアイデアはとてもいいと思う。
「あの、どうでしょう。今夜だけでもアパートに来ませんか? 郁也だけじゃなくて俺も、佐保さんともう少しお話したいし、離れたくないし」
俺も佐保さんともう少し一緒にいたい。気持ちは郁也と同じだ。
気持ちを伝えって誘うって照れる。俺まで郁也みたいに体を揺らして、佐保さんの反応を待ってしまった。
「……うっ……ううっ……もちろんです。今夜お邪魔させてもらいます。よろしくお願いします」
また泣き出した佐保さんの背に手を添えて、みんなで促すように店を出た。
見送りに出て来た支配人さんはやっぱり泣いていた。
運転手さんの車でアパートまで移動すると、佐保さんがいる事に多美さんが驚いた顔をしていた。
そして店での顛末、俺と佐保さんは親子だったと話すと、声を詰まらせて泣いていた。
どうやら佐保さんと多美さんは以前からの知り合いだったらしい。気が抜けたのか佐保さんの事を「ほおちゃん」呼びして、何だかよくわからないけれど最後に喝を入れていたし。
何だか俺の知らない事が多すぎるみたいだから、これから部屋に戻ったらその辺りの説明もしてもらいたい。
その後は風呂の用意をしたり、佐保さんの下着や歯ブラシを出したり、朝食は何にするか何時に起きるか相談したり、ばたばたとしたまま終わってしまった。
俺が聞きたい、確かめたいって事は、睡眠時間を削ってまでしなきゃいけない事じゃない気がした。
佐保さんは謝罪してくれたし、言ってくれた。これからも俺たちを愛して守るって。
今はそれで苦しいほど胸が満たされている。これ以上なにかを詰め込むと俺はパンクしてしまうだろう。
その晩は佐保さんと郁也と俺で、川の字なって手を繋いで眠った。ちなみに川の真ん中が俺。壮年のαの匂いに包まれて、数年振りにぐっすりと深い眠りについた。
出迎えはあれほどにこやかにしていたのに、バックヤードの小部屋では俺を見て目を潤ませ、郁也を見ては小さな頃の俺にそっくりだと言った。
この人は、昔の俺に会っている。だったらいつ頃? 一体俺の何を知っているんだ?
疑問に思ったけれど、何だか怖くなって口を閉ざしてしまった。詳しく聞きたいけれど、どうしてもその勇気が持てなかった。
これほど洒落た店に来た記憶はない。佐保さんに連れられてランチに来た時には、この支配人とは会っていなかった。
違う……考えるべきはそこじゃない。
自分は何かを感じている。それは形がはっきりしないくせに、濡れた紙のように脳ミソにくっついて、べたべたのまま離れてくれない。
まとわりつく疑問を引きずったまま、気持ち悪いまま、みんなが待つ個室に戻った。
「どうして……」
自然に口が開いて、佐保さんに疑問を投げかけていた。
佐保さんはさっと立ち上がり、俺の方へと歩み寄る。その途中で郁也が走り出し佐保さんの足にしがみつく。次には両手を広げて抱っこをねだった。
俺の様子が変で不安になったのだろうか。そして信頼できるαに駆け寄って行ったのだろうか。
素直に駆けだせる郁也が羨ましかった。素直な気持ちのまま求めたら抱っこしてもらえる。それを当然とする郁也をずるいと思った。
いいな。
それははっきりとした嫉妬だった。自分の子供である郁也に対して瞬間怒りに似た気持ちが湧いた。こんな感情は初めてだ。でも佐保さんの言葉が俺を鎮めてくれた。
「ごめんね、郁也君。抱っこは、待っていてくれるかな?」
佐保さんは郁也の頭を撫で、そっと言い聞かせた。子供に見せる優しい顔だった。
なんだ、なんだ、なんだ。
混乱した。佐保さんのそんな顔は何度も見てきたはずなのに、今のこの時だけは酷く混乱した。
その佐保さんの顔に、何かが重なろうとするが、上手くいかない。気持ちがそれを拒否する。
何か言った方がいいのかもしれない。だけど何も出ない。
顔をふって室内を見渡し、天井を見上げた時、ぼやけていた物が重なって焦点が合った気がした。
ああ……そうだ。
俺はここを知っている。以前にランチできた時は庭が見える席だったけれど、ここは天井の高い大きな個室だ。
天井は水色の壁紙より派手で賑やかだった。垂れさがるシャンデリアの根元には装飾の板があって、縁は波模様を描いて一周している。
くるんくるんと、クリームを絞り出した時のような滑らかな縁取りを、美味しそうと言ったのは俺。まだ小さかった頃の俺。クリーム色じゃなくて、淡いピンク色だったのが幼心に響いた。
あれはマシュマロの味、いちごの味、どっちだろう。
とにかくこの店は昔から細かな装飾までメルヘッチックで、来る度に何かしら新しい発見があって面白いのだ。
上ばかり見ていたから、口の端からつうっと何かが、デザートのソースが垂れた。
そして……それを横に座る父が、笑いながら指先で拭って、そして、俺の口の中に突っ込んできたんだ。
『史がようやくこっちを見た』
びっくりする俺を愉快そうに見ている。
俺の意識をこっちに戻す方法だったのかもしれないけれど、まさか父がそんな事をするなんて思ってもなくて。
ぽかんとして見上げた時の父のお茶目な笑顔がキラキラしていて、自分はすごく父親が好きなんだと自覚した。
あまり家にいない父、あまり自分との遊びが得意でない父。でもここへ来る為に着替える時には服を選んでくれた。そしてまたこの触れ合いで不器用なりの愛情表現があるのだと知った。
『パパは、史のことが好きなの?』
『もちろん好きだよ』
『そうなんだぁ。そっかぁ』
嬉しくて恥ずかしくて、父の腕を取り大好きな匂いにすりよって甘えた。俺を丸ごと包み込む事ができる大きな体。逞しい肩に厚みのある手。
思い出した。そうだ。これは俺のαだ。
ずっとずっと焦がれてきた、父の匂い。大きくて優しい父の匂い。ある突然、奪われた匂い。だから郁也、どうか取らないでくれ、俺の父さんを。
「俺の……父さんは、俺だけのものだ……今だけは、それでいいじゃん……俺は、完璧じゃない。大人だけど、どうしても大人になりきれない。それに、父親の前でくらい、子供でいたい……」
大好きな人だから、自分の子供にだって譲りたくない。
べそべそ泣きながら俺は手を伸ばした。その手を佐保さんが取ってくるだろうか、なんて疑う必要ない。
だって佐保さんは俺の父さんだろ。郁也は孫だろ。だったら間にいる俺に優先権があるだろ。何よりも誰よりも俺を優先するのが親の仕事だろ。
じゃないと泣いちゃう。ってか泣いてる。
俺の手が行き場を失ったのは、佐保さんに丸ごと包まれていたから。ぎゅっと抱きしめられて懐かしい香りがする。
さっきも嗅いだのに、どうして気付かなかったんだろう。ずっと隣にいたのに。よおく嗅いだら、とっても懐かしくて、大好きな父さんの香りだってわかったはずなのに。
俺の体がポンコツじゃなければ、すぐにわかったのかな。何度も会ってたのに、何で気付かなかったのかな。
「ぱぱ……でしょ?」
「史君、史君、史……ごめんね。ずっと君を救えなくてごめんね。大好きだって言っておきながら、君を幸せにできなくて、置き去りにして、不幸にして、ごめんね。ずっと本当の事が言えなくて……ごめん」
「……そんな事、ない」
「私さえしっかりしていれば、君に起こった不幸はなかった。ずっと市東史として、私の息子として生きられた。必要のない苦労をさせる事はなかった」
佐保さんの懺悔が続いた。だけど俺はそんなの欲しくない。ただ佐保さんが抱きしめてくれるのが嬉しい。父親が佐保さんだったことが嬉しい。だけど俺の中にいる小さな俺が表に出てきて悲しみ始める。
「俺……は、いっ……つ……だって。でも、まってたんだよ。パパのこと、ずっと。なのに、なんで……っ、どうしてっ……」
しゃくりあげてしまって声が出ない。自分はずっと、本当はずっと待っていた。それを伝えたかった。
「迎えに行けなくてごめん。全部が私の怠慢だった。史……私はいつまでも駄目な父親だけど、それでもやっぱり史が好きなんだ。愛しているのは史だけだ……誰よりも、幸せになってほしいのは史なんだよ」
佐保さんまで泣き出して、静かな室内には俺と佐保さんの泣き声だけが続いた。
こんなだったなあ。佐保さんに初めて会った時、その時もこんな呼吸困難みたいな泣き方をしていた。そんな事を思い出した。
「パパ……パパの事は、今だって好きだよ。辛い時はいつもパパを呼んでた。ママは嫌いだったけど、パパは好きだった。パパがいたから、優しかったから、俺は壊れる前に、またここに戻って来られたんだよ」
だって、自分の心が身体から分離してふわふわしてた時だって、パパの記憶は持っていた。指を吸っていると、その顔が思い出せそうで、思い出せなくて、どうにも止める事が出来なくなった。
でもそれがあったから、心と身体が細い線で繋がることができていた。時間がかかっても自分を取り戻すことができた。
だからこの父を今さら責める気なんてない。ただ、自分がどれだけ辛かったか、苦しかったか、優しくしてほしかったか、それを伝えなければ小さな俺が不憫でならない気がした。
佐保さんは俺の過去をある程度知っているのだろう。でも俺の過去をこの世で一番知られたくない人は、父である佐保さんだ。
「いつか、俺の、話。むかしの話、聞いてほしい。それまで待っていてくれる?」
「もちろんだよ。私は史のすべてを受け入れる。それを覚えておいて」
その言葉にさめざめと泣いた。
俺達が抱き合っている時間はそれほど長くなかったと思う。佐保さんに頭をぽんぽんってされて顔をずらしたら、子供達全員が滝みたいな涙を流して互いを励ますように寄り添って立っている。
いつも大人っぽく見える上の三人なのに、この時ばかりは年相応の子供にしか見えない。光流の足に抱き付いている郁也だけが、状況を飲み込めずにいるようだ。
急に恥ずかしさが出てくる。
「えーっと、あーんと……光流、空、怜、郁也。突然泣いちゃって、みんなを驚かせちゃって、ごめん。実は、ってかその様子だと多分事情は伝わってるのか。なんかよくわかんないけど、佐保さんは俺の父親なんだ。つまりみんなの祖父ちゃんって事になる、かな」
言ってもよかったよね? と見上げると佐保さんは頷いてくれた。
「ええっ! 佐保さんって僕のおじいちゃん? 本物?」
俺の告白に驚いたのは郁也だけだった。残りはしっかり頷いているだけ。
あれ……? もしかして知ってたって事? どういう事? もっとこう、びっくり! みたいな反応がないわけ? 質問とかないの?
郁也が不思議そうに兄達を見渡し、光流のズボンを引っ張る。
「ねえ、佐保さんは僕のおじいさまなの?」
「うん、僕と空と怜と郁也の、本当のおじい様だよ」
「うそぉ」
「本当だよ」
「だったらすごい、すごいです。僕のおじいさま。僕にもおじいさまがいたのですね。兄さま達にはおじいさまがいたのに、僕にだけいなかったのは、佐保さんが、おじいさまだったから……そっかぁ。そうだったのかぁ」
泣いてしまった郁也を空が一番に抱きしめる。
これまでずっと口にしないだけで、ずっと心にあった疑問を、この時になってようやく郁也は吐き出した。
はっとしたのは郁也以外の全員だ。
宗賀の父には笑いかけられた事も、抱かれた事もない郁也。赤ん坊の頃から人なつっこい郁也にとって、宗賀の父は怖い人だった。兄達との差を感じる機会は何度もあったはずだ。
幼いから覚えていないだろう、なんて大人の言い分は通じない。郁也は自分だけ違う扱いをされているのに気づいて疑問を持っていた。
誰も説明してくれないから、自分だけお祖父ちゃんがいないと、思うようになったのかもしれない。
俺は佐保さんの胸の中から抜け出して、郁也の手を取り足元に膝をついていた。だけど何の声もかけられない。郁也はとっても賢い子で、誰にも悟られず黙ってきた。自分なりの解釈でその柔らかい心を守ってきた。いつかの俺みたいに。
佐保さんまでやってきて俺の横で膝をつく。
「郁也君、昔の私は息子である史君を大事にできませんでした。大切な人を忘れて放置するような酷い人間でした。でも今は心を改めています。ずっと黙っていたのですが、史君は私の息子で、郁也君は私の孫なんです。よければ、私の事をおじいちゃんだと、認めてくれませんか?」
とても丁寧な言葉だった。対等な扱いを受けた郁也はきちんと涙を拭いて佐保さんに向き合った。
「佐保さんは、母さまのお父さまで、僕のおじいちゃんです。優しいおじいちゃんです。ずっと一緒にいる家族です」
「ありがとうございます。郁也君のおじいちゃんとして、精一杯郁也君を愛します。これまで以上に史君と郁也君、光流君、空君、怜君を大切にしたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします」
「はいっ、よろしくお願いします」
佐保さんは郁也の涙をぬぐって頭を撫でた。
残った食事とケーキはパックに詰めて持ち帰ることになった。マチのある紙袋が四つ。結構な量だ。
胸がいっぱいになったのは俺だけじゃなくて、なんと、底なし胃袋の持ち主である空まで、これ以上は食べられない! と言い出す異常事態だった。
帰り支度をしているのに、郁也のテンションは振りきれていた。
佐保さんがおじい様になった事だしとベタベタするのかと思いきや、俺にひっついて隠れてしまい、向こう側にいる佐保さんをじっと見つめている。
最後にトイレに行こうと誘っても、俺の足にしがみついて石のように動かない。
でも興奮しているからか、その場でもじもじ、お尻だけをふりふりしている。そして隠れてまた佐保さんの観察。郁也は壊れた。
佐保さんが父さんだとわかった感動より、郁也の頭の中が心配になってしまう。
小休止なのか、ようやく俺から離れたと思ったら、郁也はちょこちょこと、遠慮がちに、歩幅小さく、佐保さんに近付き囁く。
「佐保おじい様は家族です。家族は一緒のお家で暮らすものです。なので僕は、今から佐保さんを連れて帰ろうと思います」
「連れて帰る。私を?」
「はい。佐保さんは一人で一人のお家に帰ります。だったら僕達と一緒に多美さんアパートに来てもいいと思うのです」
郁也が興奮していたのはこれか。言いたくても言い出しにくい言葉を伝えるタイミングを計っての数々の奇行だったのだ。そしてそのアイデアはとてもいいと思う。
「あの、どうでしょう。今夜だけでもアパートに来ませんか? 郁也だけじゃなくて俺も、佐保さんともう少しお話したいし、離れたくないし」
俺も佐保さんともう少し一緒にいたい。気持ちは郁也と同じだ。
気持ちを伝えって誘うって照れる。俺まで郁也みたいに体を揺らして、佐保さんの反応を待ってしまった。
「……うっ……ううっ……もちろんです。今夜お邪魔させてもらいます。よろしくお願いします」
また泣き出した佐保さんの背に手を添えて、みんなで促すように店を出た。
見送りに出て来た支配人さんはやっぱり泣いていた。
運転手さんの車でアパートまで移動すると、佐保さんがいる事に多美さんが驚いた顔をしていた。
そして店での顛末、俺と佐保さんは親子だったと話すと、声を詰まらせて泣いていた。
どうやら佐保さんと多美さんは以前からの知り合いだったらしい。気が抜けたのか佐保さんの事を「ほおちゃん」呼びして、何だかよくわからないけれど最後に喝を入れていたし。
何だか俺の知らない事が多すぎるみたいだから、これから部屋に戻ったらその辺りの説明もしてもらいたい。
その後は風呂の用意をしたり、佐保さんの下着や歯ブラシを出したり、朝食は何にするか何時に起きるか相談したり、ばたばたとしたまま終わってしまった。
俺が聞きたい、確かめたいって事は、睡眠時間を削ってまでしなきゃいけない事じゃない気がした。
佐保さんは謝罪してくれたし、言ってくれた。これからも俺たちを愛して守るって。
今はそれで苦しいほど胸が満たされている。これ以上なにかを詰め込むと俺はパンクしてしまうだろう。
その晩は佐保さんと郁也と俺で、川の字なって手を繋いで眠った。ちなみに川の真ん中が俺。壮年のαの匂いに包まれて、数年振りにぐっすりと深い眠りについた。
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