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第四章「総力戦」

──リリス

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 そこは真っ暗な空間だった。
 誰もいないし、何も存在していない。
 見渡す限りの黒。完全なる虚無の世界。
 これは夢だ。これまで私が、何度も見てきた夢──。
 ふと、私の名を呼ぶ、女の声が聞こえた。
 彼女の名前を、私は知っている。

 ──リリス。

 彼女の名が言霊となって零れようとしたその時、私の心の声が警鐘を鳴らす。
 その声に耳を傾けてはいけない。
 決して、手を差し伸べてはいけない。
 彼女の手を握りしめた瞬間、私の存在すべてが闇に飲み込まれて消えてしまうのだから。

 だから、まだごめんね。あなたの声を聞くわけにはいかない。

 そうだ。思い出した。この過酷な運命から逃れるため、私は記憶を封じて、この世界に閉じこもっていたんだ。誰もいない、一人ぼっちの──夢の世界に。

* * *

 私は知っていた。魔族の遺伝子を組み込む実験に身をさらしたあの日以降、自分の中に、もうひとつの魂が宿ったことに。私は彼女の存在を拒んだ。私は私なのだからと。でも、同じ夢を見続けているうちに、とある疑問が首をもたげてくる。
 それは最早、私の中でひとつの確信に変わりつつある。

『肉体とは所詮器。もう一人の魂であるリリスもまた、等しく私の一部なのだ』

 あなたの存在は日に日に強くなっている。私という存在はやがて消えてなくなり、あなたに器を渡す時が迫っているのかもしれない……。
 刻一刻と。


 第四章 ──「総力戦」


* * *

 そうして、ルティスの目は覚めた。見慣れた天井が視界に入る。

「こ……こは……?」

 身じろぎすれば、自分が固い寝台の上に横たわっているのだとおぼろげに理解した。どんよりと頭の中が曇っているようで、記憶が判然としない。身体に布団と毛布が丁寧に掛けられており、部屋の中は暖かい。
 窓からオレンジ色の夕日が射し込んでいる。部屋の壁が同じ色に染まっている。
 そうか、診療所、とルティスは思う。
 いったい何時から私はここで寝ているんだろう。まるで長い夢を見ているようだった。思えば、大好きな仲間たちに囲まれて暮らす日々にすっかり浸ってしまい、随分と長いこと、この場所に留まってしまった。私には、なすべきことがあるというのに──。
 その時、水面を漂うように浮き沈みしていた意識が完全に覚醒方向に浮上し、ルティスは左手を布団から出して掲げた。

「どうして、左腕があるの?」

 違和感が総出で彼女を襲う。熱線砲を受け止めきれず、左手のみならず半身を吹き飛ばされたはずなのに。
 彼女の体は驚異的な治癒力を備えてこそいるが、それは、あくまでも左手の宝石があればこそだ。

 そもそもの話──。
 生きているはずがないのだ。
 いっそあのまま死なせてくれれば良かったのに。そうしたら、自分の運命はここで終わりを迎えられたのに。
 ゆっくりと体を起こしてみたが、痛みは感じない。布団を捲り、着ていた病衣の前をはだけてみても、やはり傷ひとつなかった。

「ようやく、お目覚めのようね」

 耳に馴染んだ声が聞こえ、ぎょっとして目を向ける。離れた場所にある机で書き物をしていたらしいリオーネが顔をあげた。

「リオーネがボクを助けてくれたのですか……?」

 普段通りの口調で話すと、あはは、と乾いた声でリオーネが笑う。

「もうキャラ作んなくたっていいわよ。私とアンタの間柄じゃない」
「……そうでしたね」とルティスから自嘲の笑みが零れる。「では、あらためて問いましょう。どうして私を助けたのですか? 帝国との繋がりを失い、ヒトとしての心を持たないあなたに、私を保護する理由はもはや無いのでは?」
「あんまり見くびらないで欲しいものね。私は確かに密偵ではあったけれど、同時に一人の医師でもあるの。運ばれてきた重傷患者を見捨ててしまうほど、人でなしでもないわ」

 不満そうに口角を歪め、「ま、ヒトではないけどね」とリオーネは口添えた。手元の資料を引き出しに仕舞うと、懐から煙草を出して火を点ける。

「……丁度、二日と半日ほど眠っていたのかしらね。本当に酷い状態だったのよあなた? 千切れていた左腕の縫合になんとか成功すると、そこからはあっという間。あなたの肉体、どんどん復元していくんだもの。……やることがないのは楽でいいけど、医師としては張り合いがないわ」
「すいません。でも」
「そう。私だけでは到底救えなかった」

 その時、病室の扉ががちゃりと開いて、腰に刀を帯びた青年が入ってくる。名は確か、タケルといっただろうか、とルティスは思う。

「おう。どうやら目が覚めたようだな。元気そうでなにより」
「ちょうどいい所に。呼びに行く手間が省けたわ」

 リオーネの言葉にタケルが苦笑いを浮かべた。

「魔族の気配が強くなったからな。嫌でもわかる」
「感謝しなさい。そこに居る彼が、左腕も一緒に回収して来てくれなければ、あなた確実に死んでいたのよ」
「俺には魔族の気配を察知するという特殊な能力があってね。ブレストの街中を巡回している時、強い気配を感じたんだ。それで気配の出どころに向かったところ、ちょうどお嬢ちゃんが吹き飛ばされる現場に遭遇した、とまあ、そんなところだ」
「……だとしたら、当然わかっていたはずでしょう? 私がいかに、邪悪な存在であるのか。バカなのか物好きなのか知らないけど、そのまま放っておいてくれれば、楽に死ぬことができたのに」

 彼の好意を踏みにじる言葉だということは理解していた。それでも、薄汚い皮肉が漏れ出してくるのをルティスはとめられない。

「見損なうなよお嬢ちゃん。俺だって当初は、君のことを邪悪な存在だと決め付けていた。けどな、リンから色々話を聞いて、そういった古い考え方を改めるべきなんだろうな、と感じていたところなんだ」

 それに、とタケルはなおも続ける。

「お嬢ちゃんは、この街を護るために盾になってくれたんだろうが?」
「それは……まあ」

 とそこまで言ったところで、忘れかけていた事実を思い出して愕然となる。

「鈴蘭亭は? みんなは、どうなったんですか……!?」
「全壊したわ」

 タケルの代わりに発言したリオーネの淡白な物言いに、ルティスは目の前が真っ暗になった。

「……それだけでは、流石に言葉が足りんだろう」

 タケルが苦笑混じりに口を挟むと、「ああ」とリオーネは付け加えた。

「鈴蘭亭の二階部分を掠め屋根を吹き飛ばした光線は、明け方だったこともあり、幸いにも無人だった中央広場に着弾。周辺にある家屋の多くが爆風で倒壊した。二階部分が吹き飛んだ鈴蘭亭も、その後に起こった火災で、結局は全焼してしまったわ。みんな頑張って消火活動をしてくれたけれど、火の手を食い止めることができなかったの」
「そんな……」
「着弾した場所近辺では、さすがに犠牲者もでた。それでも、広場に大穴を穿つほどの威力だったにしては、奇跡としか言いようがないほど少ない人数で済んだのだけどね。それと、虫の知らせって奴かしら。第六感が鋭いリリアンが、素早く宿泊客を外に退避させたのと、最後まで粘り強く非難誘導にあたってくれたこともあり、鈴蘭亭での犠牲者はゼロだった。もっともそのせいで、リリアンはちょいとばかり酷い火傷を負ってしまったけれど」

 それに、とリオーネは意味あり気にルティスの目を見つめた。

「あなたの体に当たって方向が変わらなければ、鈴蘭亭──か、いずれにしても住宅街を直撃していた」
「ま、そういうことだ。お嬢ちゃんは、身を挺してみんなを守ろうとしてくれたんだろう? そんな英雄様を、魔族だなんだという理屈で見殺しにすることなんて、できるわけがないんだよ。言うならば、当たり前のことをしたまでよ。それと──」

 そう言ってタケルは近づいて来ると、ルティスの唇にそっと指先を触れる。

「これだけは覚えておきな。気を失い倒れている女性を見かけたら、聖人君子たる者、お持ち帰りするのが性分なのよ。……お嬢ちゃんも大人になれば、そのうちわかる」

 バカにされたと感じたのか、ルティスはキッと彼を睨み返した。

「ほう? 怒った顔もなかなか可愛いじゃないか。そうだな、そんな感じに、もう少し喜怒哀楽を表に出したほうがいいと思うぜ」

 そのまま部屋を出て行こうとしたタケルだったが、足を止めて一言だけ残した。

「俺はバカだから? この世界の命運だとか、の正体だとか、そういった小難しい事情には興味がなくてね。恩を売ったというつもりもないし、ただ単純に、俺がやりたいようにやっただけのことだから気にすんな。──じゃ・あ・な」

 背を向けて右手を掲げると、ひらひらと振りながら彼は部屋の外へ出て行った。その段階になってルティスは、感謝の言葉を伝え忘れていたことに気がついた。
 やっぱり私の正体に気づいていたのね、とリオーネが口角を上げた直後、閉じた扉の向こうから、ドタバタと物音が聞こえてくる。

「……リン! ここで会ったが百年目! ……ぐえっ」
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