「ハンコ押せと言った夫へ ― 40年の結婚、最後の逆転」

かおるこ

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第10話 40年の答え

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 朝の光が、庭にやわらかく落ちていた。

 秋の終わりの空気は澄んでいて、どこか少しだけ冷たい。
 窓を開けると、土の匂いと花の匂いが一緒に流れ込んできた。

 和子はゆっくり松葉杖をつきながら縁側に出た。

 足はまだ完全には治っていない。
 けれど、もう痛みはほとんどなかった。

「お母さん、寒くない?」

 後ろから美咲の声がした。

 振り向くと、湯気の立つマグカップを持っている。

「コーヒー」

「ありがとう」

 和子は受け取った。

 カップの温かさが、指先にじんわり広がる。

 庭のツツジはもう花が落ち、代わりに小さなパンジーが咲いていた。
 黄色、紫、白。

 風に揺れている。

「きれいね」

 和子が言うと、美咲が笑った。

「お母さんが植えたんでしょ」

「そうだったかしら」

「そうだよ」

 美咲は縁側に座った。

 家の中は静かだった。

 あれから一週間。

 この家の空気は、少しだけ軽くなった。

 

 あの日。

 テーブルの上の離婚届を見つめたまま、修一は長い間黙っていた。

「……本気か」

 低い声だった。

 和子は答えた。

「ええ」

「四十年だぞ」

「そうね」

 静かな声。

「長かったわ」

 修一は顔をしかめた。

「冗談だろ」

「冗談じゃない」

 和子はゆっくり言った。

「あなたが始めたのよ」

 修一の拳がテーブルの上で震えた。

「家は……」

 その言葉を言いかけて、止まる。

 美咲が腕を組んで言った。

「言ってみなよ」

「……」

「家、誰のもの?」

 修一は何も言えなかった。

 和子は静かに言った。

「名義、知ったんでしょう」

 その瞬間、修一の顔色が変わった。

「……」

 沈黙。

 時計の針の音だけが聞こえる。

 カチ、カチ。

 やがて修一が椅子を引いた。

「……わかった」

 声は低かった。

「出ていく」

 その言葉は、思っていたより小さかった。

 和子は何も言わなかった。

 修一は立ち上がる。

 ゆっくり部屋を見回した。

 壁。
 古い時計。
 棚の写真。

 子どもが小さかった頃の写真。

「……」

 何か言いかけて、やめた。

 玄関へ歩く。

 足音が畳に響く。

 ガラリ。

 ドアが開いた。

 外の風が入る。

 修一は振り返らなかった。

 そのまま家を出ていった。

 

 それから。

 家の中は静かになった。

 けれど、不思議と寂しさはなかった。

 朝はゆっくり起きる。
 美咲とコーヒーを飲む。

「お母さん」

 美咲が庭を見ながら言った。

「これからどうする?」

「どうって?」

「人生」

 和子は少し笑った。

「大げさね」

「だってさ」

 美咲は肩をすくめた。

「第二の人生でしょ」

 和子は庭の花を見た。

 パンジーが風に揺れている。

 四十年。

 その数字が、胸の奥でゆっくり広がる。

 若かった頃。
 借金の夜。
 父の声。

 子どもが生まれた日。

 弁当を作った朝。

 義母の介護。

 泣いた夜。

 全部、ここにある。

 和子は小さく息を吐いた。

「……よく頑張ったわね」

「え?」

 美咲が振り向く。

 和子は笑った。

「四十年」

 指先でカップを温めながら言う。

「私」

 風が庭を渡る。

 花が揺れる。

 空は青かった。

 和子は静かに思った。

 後悔はない。

 悲しみも、もうほとんどない。

 ただ一つだけ、はっきりしていることがある。

 和子は空を見上げた。

 そして心の中で、ゆっくり言った。

 **恩を忘れた人と、もう夫婦でいる必要はない。**

 その言葉は、風の中で静かに消えていった。

 庭の花が、やさしく揺れていた。

 完結。

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