私のドレスを切り刻んだお母様、それ国を守る結界だったので伯爵家ごと詰みです

かおるこ

文字の大きさ
9 / 12

第8話:崩壊

第8話:崩壊

 夜の空気は重く、湿っていた。風が吹くたびに土と腐葉の匂いが巻き上がり、屋敷の壁にまとわりつく。かつては結界に遮られていたはずのそれが、今は遠慮なく入り込んでいた。窓の隙間から忍び込む冷気は、肌に触れるたびにじわりと不快な湿り気を残す。

 見張り台に立っていた若い使用人が、ふと顔を上げた。

「……なんだ、あれ」

 遠くの闇の中に、何かが動いている。影が揺れる。だが、それは風ではない。規則性のない、しかし確実にこちらへ近づいてくる動き。

 次の瞬間、耳を裂くような唸り声が響いた。

「う、うわああああ!」

 叫び声が夜を破る。見張りの足がもつれ、階段を転げ落ちる音が続いた。

 屋敷の中にいた者たちが一斉に顔を上げる。

「何事だ!」

「外が……外が変です!」

 扉が乱暴に開かれ、息を切らした使用人が飛び込んでくる。顔は青ざめ、目は恐怖に見開かれていた。

「何があったのよ!」

 マリアが叫ぶ。その声には苛立ちと不安が混じっている。

「魔物です……! 外に……大量に……!」

 一瞬、誰も動けなかった。

 理解が追いつかない。

「ば、馬鹿なことを言わないで」

 マリアはかすれた声で否定する。

「こんなところに来るはずがないでしょう……!」

 だが、その言葉を打ち消すように、外から重い衝撃音が響いた。

 ――ドンッ。

 壁が震え、天井から細かな埃がぱらぱらと落ちてくる。次いで、低く唸るような声がいくつも重なった。

 窓の外を見た使用人が、息を呑む。

「……結界が……ない……」

 ぽつりと漏れたその言葉に、場の空気が凍りついた。

 かつてなら、屋敷の周囲には見えない壁があった。魔物はそこに触れただけで弾かれ、近づくことすらできなかった。

 だが今は――

 何もない。

 闇の中から現れた影が、庭を踏み荒らしている。植物は踏み潰され、黒い液体のようなものが地面に滲む。空気がさらに濁り、鼻を刺す腐臭が強くなる。

「いや……いやああ……」

 誰かが小さく呟いた。

 その直後、窓ガラスが砕け散った。

 鋭い破裂音とともに、破片が室内に飛び散る。冷たい風と一緒に、異様な気配が流れ込んできた。

「きゃあああ!」

 悲鳴が重なる。

 黒い影が、窓から這い込んでくる。歪んだ四肢、濁った目、口から垂れる粘液。人の形をしているようで、どこか決定的に違う。

「来るな……来るなあ!」

 使用人の一人が近くにあった椅子を掴み、必死に振り回す。だが、木がぶつかる鈍い音とともに、その腕は簡単に弾き飛ばされた。

 悲鳴が一段と大きくなる。

「逃げろ! 外に出ろ!」

「どこに行けばいいのよ!」

 叫び声が交錯し、混乱が広がる。

 マリアはその場に立ち尽くしていた。目の前で起きていることが現実だと認識できない。足が動かない。喉が締め付けられ、声も出ない。

 その時、奥の部屋からかすかな声が聞こえた。

「……お母様……」

 ミナの声だった。

 はっとして振り向く。胸が大きく波打つ。

「ミナ……!」

 ようやく体が動く。ドレスの裾を掴み、廊下を駆ける。足元がふらつくが、止まれない。

 扉を開けると、そこには弱々しく横たわるミナの姿があった。顔色はさらに悪くなり、呼吸は細く途切れがちだ。

「お母様……外が……怖い……」

 かすれた声が、かろうじて届く。

 マリアは駆け寄り、その体を抱き起こす。触れた瞬間、ひどく冷たい。体温がほとんど感じられない。

「大丈夫よ……すぐに……すぐに何とかするから……!」

 言いながら、自分の声が震えていることに気づく。

 何もできない。

 その事実が、はっきりと胸に突き刺さる。

 外では再び大きな衝撃音が響いた。壁の一部が崩れ、石が砕ける音が続く。空気がさらに濁り、息を吸うたびに胸が焼けるように痛む。

「いや……来ないで……」

 ミナが小さく首を振る。目はうっすらとしか開いていないが、恐怖だけははっきりと伝わってくる。

 マリアはその手を強く握る。

「大丈夫、大丈夫よ……」

 繰り返す言葉に、何の力もない。

 頭の中に、あの言葉が蘇る。

「それを切り刻んだのは、貴女です」

 エルザの声。

 静かで、逃げ場のない響き。

「……違う……」

 思わず呟く。

「そんな……こんなことになるなんて……」

 だが、否定するほどに現実は重くのしかかる。

 結界があった頃、この屋敷は守られていた。外の脅威は、すべて遮断されていた。

 それを、自分の手で壊した。

 理由は、ただの気まぐれ。

 胸の奥がぎゅっと締め付けられる。

「どうして……」

 問いは、もう遅い。

 外から再び悲鳴が上がる。近い。すぐそこまで来ている。

 使用人たちの足音が遠ざかっていく。誰もが逃げようとしている。

 助けは来ない。

 王宮からの通達はすでに届いている。ここはもはや守るべき場所ではない。切り捨てられた領地の一つに過ぎない。

 かつて頼ろうとした存在は、もういない。

 ミナの呼吸がさらに弱くなる。

「……お母様……寒い……」

 その声に、マリアは思わず体を強く抱きしめた。

「すぐに暖かくするわ……すぐに……」

 だが、部屋の空気は冷たいままだ。外から流れ込む風が、容赦なく体温を奪っていく。

 扉の向こうで、何かが引きずられる音がした。

 ゆっくりと、確実に近づいてくる気配。

 マリアの呼吸が止まる。

 耳の奥で、心臓の音が激しく鳴る。

 逃げなければならない。

 だが、どこへ。

 守るものは、もうない。

 守ってくれるものも、もうない。

 腕の中の小さな体が、かすかに震えた。

 マリアは目を閉じ、歯を食いしばる。

 その瞬間、扉の向こうで何かがぶつかる音がした。

 崩壊は、すぐそこまで来ていた。

感想 0

あなたにおすすめの小説

「存じ上げませんが、どちら様ですか?」——忘れることが、最も残酷な復讐になった

歩人
ファンタジー
伯爵令嬢フィーネは婚約破棄のショックで過去の記憶を全て失った。名前も、家族も、婚約者も——何もかも。保護してくれた辺境の薬師に弟子入りし、「フィー」と名乗る少女として穏やかに暮らし始めた。朝は薬草を摘み、昼は薬を調合し、夕方は師匠の息子——無口だが優しい青年ルカスと一緒に夕焼けを見る。「私、前の自分より今の自分が好きです」。五年後。辺境に一人の貴族が現れた。やつれた顔で「フィーネ、迎えに来た」と。彼女は首を傾げた。「存じ上げませんが、どちら様ですか?」——嘘ではなく、本当に覚えていない。忘れることが、最も残酷な復讐になった。

番ではないと言われた王妃の行く末

にのまえ
恋愛
 獣人の国エスラエルの王妃スノーは、人間でありながら“番”として選ばれ、オオカミ族の王ローレンスと結婚した。しかし三年間、彼に番と認められることも愛されることもなく、白い結婚のまま冷遇され続ける。  それでも王妃として国に尽くしてきたスノーだったが、ある日、ローレンスが別の令嬢レイアーを懐妊させ、側妃として迎えると知る。ついに心が折れたスノーは離縁を決意し、国を去ろうとする。  しかしその道中、レイアー嬢の実家の襲撃に遭い、スノーは命を落とす寸前、自身の命と引き換えに広域回復魔法で多くの命を救う。  これでスノーの、人生は終わりのはずだった。  だが次に目を覚ますと、スノーは三年前の結婚式当日に戻っていた。何度死んでも、何度拒絶しても、結婚式の誓いの瞬間へと戻される。  番から逃れようと、スノーは何度も死を選ぶが――。

<完結>金貨5000枚で売られた王太子妃

ぜらちん黒糖
恋愛
​「愛している。必ず迎えに行くから待っていてくれ」 ​甘い言葉を信じて、隣国へ「人質」となった王太子妃イザベラ。 旅立ちの前の晩、二人は愛し合い、イザベラのお腹には新しい命が宿った。すぐに夫に知らせた イザベラだったが、夫から届いた返信は、信じられない内容だった。 「それは本当に私の子供なのか?」

「お産の手伝いなど下女の仕事だ」と追放された産婆令嬢、公爵夫人の難産を、誰も取り上げられなかった

Lihito
ファンタジー
産婆の技を「まやかし」と蔑んだ宮廷医師に婚約を破棄され、王都を追われたフィリーネ。 山あいの町で医師カールと出会い、産婆不在の地で母子の命を守り始める。 やがて王都では逆子の分娩に失敗した元婚約者が信頼を失い、若い女性医師マルガレーテが自らの意志でフィリーネを訪ねてくる。 三日間の実技指導で産婆術を託されたマルガレーテは王都に戻り、その報告が医学院を動かす。 産婆術は正式な医療技術と認定され、元婚約者は資格を剥奪された。 命を迎える手は、静かな町で今日も温かい。

幼馴染みの婚約者が「学生時代は愛する恋人と過ごさせてくれ」と言ってきたので、秒で婚約解消を宣言した令嬢の前世が、社畜のおっさんだった件。

灯乃
ファンタジー
子爵家の総領娘である令嬢の前に、巨乳美少女と腕を組んだ婚約者がやってきた。 曰く、「学生時代くらいは、心から愛する恋人と自由に過ごしたい。それくらい、黙って許容しろ」と。 婚約者を甘やかし過ぎていたことに気付いた彼女は、その場で婚約解消を宣言する。 前半はたぶん普通の令嬢もの、後半はおっさんコメディーです。

「織物など下女の仕事だ」と蔑まれた令嬢——舞踏会の朝、王都中の仕立て師が匙を投げた

歩人
ファンタジー
侯爵令嬢エレーナは、亡き母から受け継いだ織物の技法で王都の社交界を支えてきた。 だが婚約者ルドルフに「織物など下女の仕事だ」と蔑まれ、追放される。 辺境伯フランツの領地で新たな生活を始めたエレーナは、辺境の羊毛で独自の織物を生み出し、 隣国との交易品として名声を得る。 一方、王都では舞踏会のドレスを仕立てられる者がいなくなり、社交界が崩壊していた。 エレーナの織り機は、もう王都のためには動かない。

不器量令嬢は、婚約破棄の断罪が面倒くさい

あんど もあ
ファンタジー
不器量なマルグリットは、婚約者の美しい第一王子からずっと容姿を貶められる日々。とうとう王立学園の卒業パーティーで王子に婚約破棄を宣言され、「王子から解放される! それいいかも!」となったが、続く断罪が面倒くさくて他の人に丸投げする事にする。

わたくしを追い出した王太子殿下が、一年後に謝罪に来ました

柚木ゆず
ファンタジー
 より優秀な力を持つ聖女が現れたことによってお払い箱と言われ、その結果すべてを失ってしまった元聖女アンブル。そんな彼女は古い友人である男爵令息ドファールに救われ隣国で幸せに暮らしていたのですが、ある日突然祖国の王太子ザルースが――アンブルを邪険にした人間のひとりが、アンブルの目の前に現れたのでした。 「アンブル、あの時は本当にすまなかった。謝罪とお詫びをさせて欲しいんだ」 現在体調の影響でしっかりとしたお礼(お返事)ができないため、最新の投稿作以外の感想欄を一時的に閉じさせていただいております。