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第8話:崩壊
第8話:崩壊
夜の空気は重く、湿っていた。風が吹くたびに土と腐葉の匂いが巻き上がり、屋敷の壁にまとわりつく。かつては結界に遮られていたはずのそれが、今は遠慮なく入り込んでいた。窓の隙間から忍び込む冷気は、肌に触れるたびにじわりと不快な湿り気を残す。
見張り台に立っていた若い使用人が、ふと顔を上げた。
「……なんだ、あれ」
遠くの闇の中に、何かが動いている。影が揺れる。だが、それは風ではない。規則性のない、しかし確実にこちらへ近づいてくる動き。
次の瞬間、耳を裂くような唸り声が響いた。
「う、うわああああ!」
叫び声が夜を破る。見張りの足がもつれ、階段を転げ落ちる音が続いた。
屋敷の中にいた者たちが一斉に顔を上げる。
「何事だ!」
「外が……外が変です!」
扉が乱暴に開かれ、息を切らした使用人が飛び込んでくる。顔は青ざめ、目は恐怖に見開かれていた。
「何があったのよ!」
マリアが叫ぶ。その声には苛立ちと不安が混じっている。
「魔物です……! 外に……大量に……!」
一瞬、誰も動けなかった。
理解が追いつかない。
「ば、馬鹿なことを言わないで」
マリアはかすれた声で否定する。
「こんなところに来るはずがないでしょう……!」
だが、その言葉を打ち消すように、外から重い衝撃音が響いた。
――ドンッ。
壁が震え、天井から細かな埃がぱらぱらと落ちてくる。次いで、低く唸るような声がいくつも重なった。
窓の外を見た使用人が、息を呑む。
「……結界が……ない……」
ぽつりと漏れたその言葉に、場の空気が凍りついた。
かつてなら、屋敷の周囲には見えない壁があった。魔物はそこに触れただけで弾かれ、近づくことすらできなかった。
だが今は――
何もない。
闇の中から現れた影が、庭を踏み荒らしている。植物は踏み潰され、黒い液体のようなものが地面に滲む。空気がさらに濁り、鼻を刺す腐臭が強くなる。
「いや……いやああ……」
誰かが小さく呟いた。
その直後、窓ガラスが砕け散った。
鋭い破裂音とともに、破片が室内に飛び散る。冷たい風と一緒に、異様な気配が流れ込んできた。
「きゃあああ!」
悲鳴が重なる。
黒い影が、窓から這い込んでくる。歪んだ四肢、濁った目、口から垂れる粘液。人の形をしているようで、どこか決定的に違う。
「来るな……来るなあ!」
使用人の一人が近くにあった椅子を掴み、必死に振り回す。だが、木がぶつかる鈍い音とともに、その腕は簡単に弾き飛ばされた。
悲鳴が一段と大きくなる。
「逃げろ! 外に出ろ!」
「どこに行けばいいのよ!」
叫び声が交錯し、混乱が広がる。
マリアはその場に立ち尽くしていた。目の前で起きていることが現実だと認識できない。足が動かない。喉が締め付けられ、声も出ない。
その時、奥の部屋からかすかな声が聞こえた。
「……お母様……」
ミナの声だった。
はっとして振り向く。胸が大きく波打つ。
「ミナ……!」
ようやく体が動く。ドレスの裾を掴み、廊下を駆ける。足元がふらつくが、止まれない。
扉を開けると、そこには弱々しく横たわるミナの姿があった。顔色はさらに悪くなり、呼吸は細く途切れがちだ。
「お母様……外が……怖い……」
かすれた声が、かろうじて届く。
マリアは駆け寄り、その体を抱き起こす。触れた瞬間、ひどく冷たい。体温がほとんど感じられない。
「大丈夫よ……すぐに……すぐに何とかするから……!」
言いながら、自分の声が震えていることに気づく。
何もできない。
その事実が、はっきりと胸に突き刺さる。
外では再び大きな衝撃音が響いた。壁の一部が崩れ、石が砕ける音が続く。空気がさらに濁り、息を吸うたびに胸が焼けるように痛む。
「いや……来ないで……」
ミナが小さく首を振る。目はうっすらとしか開いていないが、恐怖だけははっきりと伝わってくる。
マリアはその手を強く握る。
「大丈夫、大丈夫よ……」
繰り返す言葉に、何の力もない。
頭の中に、あの言葉が蘇る。
「それを切り刻んだのは、貴女です」
エルザの声。
静かで、逃げ場のない響き。
「……違う……」
思わず呟く。
「そんな……こんなことになるなんて……」
だが、否定するほどに現実は重くのしかかる。
結界があった頃、この屋敷は守られていた。外の脅威は、すべて遮断されていた。
それを、自分の手で壊した。
理由は、ただの気まぐれ。
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「どうして……」
問いは、もう遅い。
外から再び悲鳴が上がる。近い。すぐそこまで来ている。
使用人たちの足音が遠ざかっていく。誰もが逃げようとしている。
助けは来ない。
王宮からの通達はすでに届いている。ここはもはや守るべき場所ではない。切り捨てられた領地の一つに過ぎない。
かつて頼ろうとした存在は、もういない。
ミナの呼吸がさらに弱くなる。
「……お母様……寒い……」
その声に、マリアは思わず体を強く抱きしめた。
「すぐに暖かくするわ……すぐに……」
だが、部屋の空気は冷たいままだ。外から流れ込む風が、容赦なく体温を奪っていく。
扉の向こうで、何かが引きずられる音がした。
ゆっくりと、確実に近づいてくる気配。
マリアの呼吸が止まる。
耳の奥で、心臓の音が激しく鳴る。
逃げなければならない。
だが、どこへ。
守るものは、もうない。
守ってくれるものも、もうない。
腕の中の小さな体が、かすかに震えた。
マリアは目を閉じ、歯を食いしばる。
その瞬間、扉の向こうで何かがぶつかる音がした。
崩壊は、すぐそこまで来ていた。
夜の空気は重く、湿っていた。風が吹くたびに土と腐葉の匂いが巻き上がり、屋敷の壁にまとわりつく。かつては結界に遮られていたはずのそれが、今は遠慮なく入り込んでいた。窓の隙間から忍び込む冷気は、肌に触れるたびにじわりと不快な湿り気を残す。
見張り台に立っていた若い使用人が、ふと顔を上げた。
「……なんだ、あれ」
遠くの闇の中に、何かが動いている。影が揺れる。だが、それは風ではない。規則性のない、しかし確実にこちらへ近づいてくる動き。
次の瞬間、耳を裂くような唸り声が響いた。
「う、うわああああ!」
叫び声が夜を破る。見張りの足がもつれ、階段を転げ落ちる音が続いた。
屋敷の中にいた者たちが一斉に顔を上げる。
「何事だ!」
「外が……外が変です!」
扉が乱暴に開かれ、息を切らした使用人が飛び込んでくる。顔は青ざめ、目は恐怖に見開かれていた。
「何があったのよ!」
マリアが叫ぶ。その声には苛立ちと不安が混じっている。
「魔物です……! 外に……大量に……!」
一瞬、誰も動けなかった。
理解が追いつかない。
「ば、馬鹿なことを言わないで」
マリアはかすれた声で否定する。
「こんなところに来るはずがないでしょう……!」
だが、その言葉を打ち消すように、外から重い衝撃音が響いた。
――ドンッ。
壁が震え、天井から細かな埃がぱらぱらと落ちてくる。次いで、低く唸るような声がいくつも重なった。
窓の外を見た使用人が、息を呑む。
「……結界が……ない……」
ぽつりと漏れたその言葉に、場の空気が凍りついた。
かつてなら、屋敷の周囲には見えない壁があった。魔物はそこに触れただけで弾かれ、近づくことすらできなかった。
だが今は――
何もない。
闇の中から現れた影が、庭を踏み荒らしている。植物は踏み潰され、黒い液体のようなものが地面に滲む。空気がさらに濁り、鼻を刺す腐臭が強くなる。
「いや……いやああ……」
誰かが小さく呟いた。
その直後、窓ガラスが砕け散った。
鋭い破裂音とともに、破片が室内に飛び散る。冷たい風と一緒に、異様な気配が流れ込んできた。
「きゃあああ!」
悲鳴が重なる。
黒い影が、窓から這い込んでくる。歪んだ四肢、濁った目、口から垂れる粘液。人の形をしているようで、どこか決定的に違う。
「来るな……来るなあ!」
使用人の一人が近くにあった椅子を掴み、必死に振り回す。だが、木がぶつかる鈍い音とともに、その腕は簡単に弾き飛ばされた。
悲鳴が一段と大きくなる。
「逃げろ! 外に出ろ!」
「どこに行けばいいのよ!」
叫び声が交錯し、混乱が広がる。
マリアはその場に立ち尽くしていた。目の前で起きていることが現実だと認識できない。足が動かない。喉が締め付けられ、声も出ない。
その時、奥の部屋からかすかな声が聞こえた。
「……お母様……」
ミナの声だった。
はっとして振り向く。胸が大きく波打つ。
「ミナ……!」
ようやく体が動く。ドレスの裾を掴み、廊下を駆ける。足元がふらつくが、止まれない。
扉を開けると、そこには弱々しく横たわるミナの姿があった。顔色はさらに悪くなり、呼吸は細く途切れがちだ。
「お母様……外が……怖い……」
かすれた声が、かろうじて届く。
マリアは駆け寄り、その体を抱き起こす。触れた瞬間、ひどく冷たい。体温がほとんど感じられない。
「大丈夫よ……すぐに……すぐに何とかするから……!」
言いながら、自分の声が震えていることに気づく。
何もできない。
その事実が、はっきりと胸に突き刺さる。
外では再び大きな衝撃音が響いた。壁の一部が崩れ、石が砕ける音が続く。空気がさらに濁り、息を吸うたびに胸が焼けるように痛む。
「いや……来ないで……」
ミナが小さく首を振る。目はうっすらとしか開いていないが、恐怖だけははっきりと伝わってくる。
マリアはその手を強く握る。
「大丈夫、大丈夫よ……」
繰り返す言葉に、何の力もない。
頭の中に、あの言葉が蘇る。
「それを切り刻んだのは、貴女です」
エルザの声。
静かで、逃げ場のない響き。
「……違う……」
思わず呟く。
「そんな……こんなことになるなんて……」
だが、否定するほどに現実は重くのしかかる。
結界があった頃、この屋敷は守られていた。外の脅威は、すべて遮断されていた。
それを、自分の手で壊した。
理由は、ただの気まぐれ。
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「どうして……」
問いは、もう遅い。
外から再び悲鳴が上がる。近い。すぐそこまで来ている。
使用人たちの足音が遠ざかっていく。誰もが逃げようとしている。
助けは来ない。
王宮からの通達はすでに届いている。ここはもはや守るべき場所ではない。切り捨てられた領地の一つに過ぎない。
かつて頼ろうとした存在は、もういない。
ミナの呼吸がさらに弱くなる。
「……お母様……寒い……」
その声に、マリアは思わず体を強く抱きしめた。
「すぐに暖かくするわ……すぐに……」
だが、部屋の空気は冷たいままだ。外から流れ込む風が、容赦なく体温を奪っていく。
扉の向こうで、何かが引きずられる音がした。
ゆっくりと、確実に近づいてくる気配。
マリアの呼吸が止まる。
耳の奥で、心臓の音が激しく鳴る。
逃げなければならない。
だが、どこへ。
守るものは、もうない。
守ってくれるものも、もうない。
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マリアは目を閉じ、歯を食いしばる。
その瞬間、扉の向こうで何かがぶつかる音がした。
崩壊は、すぐそこまで来ていた。
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