12 / 12
エピローグ:触れられないもの
エピローグ:触れられないもの
朝は静かに訪れていた。王宮の高い窓から差し込む光は柔らかく、白い石床に長い影を落としている。外では衛兵の足音が規則正しく響き、遠くで鐘の音がゆっくりと空気を震わせていた。
エルザはその光の中に立っていた。机の上には広げられた設計図。細密な線が幾重にも重なり、見る者が見れば理解できるだろう――これはもはや衣服ではない。都市規模の防衛構造、その核となる術式だ。
指先で紙をなぞる。インクは乾いているが、そこに込められた理論はまだ生きている。かつて失われたものとは、似て非なるもの。より広く、より強く、そして――誰にも壊せないように設計されていた。
「進んでいるな」
背後から声がした。
振り返らずとも分かる。
「はい、殿下」
エルザは静かに答える。
アルベールが隣に立つ。視線は設計図に落ちている。
「以前より複雑だ」
「守る対象が増えましたので」
淡々とした言葉。だがその奥には、確かな意思がある。
アルベールは小さく息をつく。
「一人のための結界ではない、か」
「はい」
エルザは頷く。
「個人に依存する構造は、いずれ破綻します」
その言葉に、かすかな沈黙が落ちた。
風が窓を抜ける。紙の端がわずかに揺れる。
「……戻りたいと思うことはないのか」
不意に、アルベールが問う。
その声音は静かだったが、試すようでもあった。
エルザは手を止める。
ほんの一瞬だけ。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「ありません」
即答だった。
迷いはない。
「過去は、構造的に破綻していました」
冷静な言い方だった。まるで一つの理論を説明するかのように。
「修復する価値も、必要もありません」
アルベールはその横顔を見る。そこには怒りも悲しみもない。ただ、切り離された結果だけがある。
「……そうか」
短く呟く。
それ以上は何も言わない。
エルザは再び設計図に視線を戻す。ペンを取り、線を引く。わずかな擦れる音が、静かな部屋に溶けていく。
その手は迷わない。
過去を振り返る必要がないからだ。
窓の外では、陽が少しずつ高くなっていく。城下の屋根が光を受けて輝き、人々の動きがゆっくりと増えていく。
守るべきものは、もう明確だった。
「エルザ」
アルベールが再び呼ぶ。
「今回の設計、どこまで持たせるつもりだ」
その問いに、エルザはわずかに考える。
ほんの一拍。
そして答える。
「壊れない構造にします」
簡潔な言葉。
だが、その意味は重い。
「理論上は不可能だぞ」
アルベールは苦笑する。
エルザは首を横に振る。
「いいえ。不可能ではありません」
静かな声。
「前提を変えればいいだけです」
ペン先が紙に触れる。新しい線が加わる。
「誰にも触れられない位置に配置する」
それは単なる物理的な話ではない。
権限。構造。干渉経路。
すべてを再定義するという意味だった。
アルベールは目を細める。
「……完全な閉鎖系か」
「はい」
エルザは頷く。
「破壊される可能性を前提にした設計ではなく、破壊という概念自体を排除します」
淡々とした説明。
だがそこには、確かな決意があった。
かつて一度、すべてを奪われた者の。
同じ過ちを、二度と許さないという意思。
部屋に静けさが戻る。
ペンの音だけが続く。
アルベールはしばらくその様子を見ていたが、やがて小さく笑った。
「変わらないな」
その言葉に、エルザはわずかに視線を上げる。
「何がですか」
「いや」
アルベールは肩をすくめる。
「君は最初からそういう人間だった」
エルザは何も答えない。
ただ、ほんのわずかに口元が緩んだ。
それは笑みと呼ぶにはあまりにも小さな変化だったが、確かにそこにあった。
窓の外で風が吹く。
旗が揺れる。
今度は、守られる側ではない。
守る側として。
エルザは手を動かし続ける。
もう、誰にも壊されないように。
そして――誰も失わないように。
朝の光は、変わらずそこにあった。
朝は静かに訪れていた。王宮の高い窓から差し込む光は柔らかく、白い石床に長い影を落としている。外では衛兵の足音が規則正しく響き、遠くで鐘の音がゆっくりと空気を震わせていた。
エルザはその光の中に立っていた。机の上には広げられた設計図。細密な線が幾重にも重なり、見る者が見れば理解できるだろう――これはもはや衣服ではない。都市規模の防衛構造、その核となる術式だ。
指先で紙をなぞる。インクは乾いているが、そこに込められた理論はまだ生きている。かつて失われたものとは、似て非なるもの。より広く、より強く、そして――誰にも壊せないように設計されていた。
「進んでいるな」
背後から声がした。
振り返らずとも分かる。
「はい、殿下」
エルザは静かに答える。
アルベールが隣に立つ。視線は設計図に落ちている。
「以前より複雑だ」
「守る対象が増えましたので」
淡々とした言葉。だがその奥には、確かな意思がある。
アルベールは小さく息をつく。
「一人のための結界ではない、か」
「はい」
エルザは頷く。
「個人に依存する構造は、いずれ破綻します」
その言葉に、かすかな沈黙が落ちた。
風が窓を抜ける。紙の端がわずかに揺れる。
「……戻りたいと思うことはないのか」
不意に、アルベールが問う。
その声音は静かだったが、試すようでもあった。
エルザは手を止める。
ほんの一瞬だけ。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「ありません」
即答だった。
迷いはない。
「過去は、構造的に破綻していました」
冷静な言い方だった。まるで一つの理論を説明するかのように。
「修復する価値も、必要もありません」
アルベールはその横顔を見る。そこには怒りも悲しみもない。ただ、切り離された結果だけがある。
「……そうか」
短く呟く。
それ以上は何も言わない。
エルザは再び設計図に視線を戻す。ペンを取り、線を引く。わずかな擦れる音が、静かな部屋に溶けていく。
その手は迷わない。
過去を振り返る必要がないからだ。
窓の外では、陽が少しずつ高くなっていく。城下の屋根が光を受けて輝き、人々の動きがゆっくりと増えていく。
守るべきものは、もう明確だった。
「エルザ」
アルベールが再び呼ぶ。
「今回の設計、どこまで持たせるつもりだ」
その問いに、エルザはわずかに考える。
ほんの一拍。
そして答える。
「壊れない構造にします」
簡潔な言葉。
だが、その意味は重い。
「理論上は不可能だぞ」
アルベールは苦笑する。
エルザは首を横に振る。
「いいえ。不可能ではありません」
静かな声。
「前提を変えればいいだけです」
ペン先が紙に触れる。新しい線が加わる。
「誰にも触れられない位置に配置する」
それは単なる物理的な話ではない。
権限。構造。干渉経路。
すべてを再定義するという意味だった。
アルベールは目を細める。
「……完全な閉鎖系か」
「はい」
エルザは頷く。
「破壊される可能性を前提にした設計ではなく、破壊という概念自体を排除します」
淡々とした説明。
だがそこには、確かな決意があった。
かつて一度、すべてを奪われた者の。
同じ過ちを、二度と許さないという意思。
部屋に静けさが戻る。
ペンの音だけが続く。
アルベールはしばらくその様子を見ていたが、やがて小さく笑った。
「変わらないな」
その言葉に、エルザはわずかに視線を上げる。
「何がですか」
「いや」
アルベールは肩をすくめる。
「君は最初からそういう人間だった」
エルザは何も答えない。
ただ、ほんのわずかに口元が緩んだ。
それは笑みと呼ぶにはあまりにも小さな変化だったが、確かにそこにあった。
窓の外で風が吹く。
旗が揺れる。
今度は、守られる側ではない。
守る側として。
エルザは手を動かし続ける。
もう、誰にも壊されないように。
そして――誰も失わないように。
朝の光は、変わらずそこにあった。
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
幼馴染みの婚約者が「学生時代は愛する恋人と過ごさせてくれ」と言ってきたので、秒で婚約解消を宣言した令嬢の前世が、社畜のおっさんだった件。
灯乃
ファンタジー
子爵家の総領娘である令嬢の前に、巨乳美少女と腕を組んだ婚約者がやってきた。
曰く、「学生時代くらいは、心から愛する恋人と自由に過ごしたい。それくらい、黙って許容しろ」と。
婚約者を甘やかし過ぎていたことに気付いた彼女は、その場で婚約解消を宣言する。
前半はたぶん普通の令嬢もの、後半はおっさんコメディーです。
初夜に「君を愛するつもりはない」と夫から言われた妻のその後
澤谷弥(さわたに わたる)
ファンタジー
結婚式の日の夜。夫のイアンは妻のケイトに向かって「お前を愛するつもりはない」と言い放つ。
ケイトは知っていた。イアンには他に好きな女性がいるのだ。この結婚は家のため。そうわかっていたはずなのに――。
※短いお話です。
※恋愛要素が薄いのでファンタジーです。おまけ程度です。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
「存じ上げませんが、どちら様ですか?」——忘れることが、最も残酷な復讐になった
歩人
ファンタジー
伯爵令嬢フィーネは婚約破棄のショックで過去の記憶を全て失った。名前も、家族も、婚約者も——何もかも。保護してくれた辺境の薬師に弟子入りし、「フィー」と名乗る少女として穏やかに暮らし始めた。朝は薬草を摘み、昼は薬を調合し、夕方は師匠の息子——無口だが優しい青年ルカスと一緒に夕焼けを見る。「私、前の自分より今の自分が好きです」。五年後。辺境に一人の貴族が現れた。やつれた顔で「フィーネ、迎えに来た」と。彼女は首を傾げた。「存じ上げませんが、どちら様ですか?」——嘘ではなく、本当に覚えていない。忘れることが、最も残酷な復讐になった。
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
番ではないと言われた王妃の行く末
にのまえ
恋愛
獣人の国エスラエルの王妃スノーは、人間でありながら“番”として選ばれ、オオカミ族の王ローレンスと結婚した。しかし三年間、彼に番と認められることも愛されることもなく、白い結婚のまま冷遇され続ける。
それでも王妃として国に尽くしてきたスノーだったが、ある日、ローレンスが別の令嬢レイアーを懐妊させ、側妃として迎えると知る。ついに心が折れたスノーは離縁を決意し、国を去ろうとする。
しかしその道中、レイアー嬢の実家の襲撃に遭い、スノーは命を落とす寸前、自身の命と引き換えに広域回復魔法で多くの命を救う。
これでスノーの、人生は終わりのはずだった。
だが次に目を覚ますと、スノーは三年前の結婚式当日に戻っていた。何度死んでも、何度拒絶しても、結婚式の誓いの瞬間へと戻される。
番から逃れようと、スノーは何度も死を選ぶが――。
【完結】精霊に選ばれなかった私は…
まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。
しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。
選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。
選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。
貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…?
☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。
ちゃんと忠告をしましたよ?
柚木ゆず
ファンタジー
ある日の、放課後のことでした。王立リザエンドワール学院に籍を置く私フィーナは、生徒会長を務められているジュリアルス侯爵令嬢アゼット様に呼び出されました。
「生徒会の仲間である貴方様に、婚約祝いをお渡したくてこうしておりますの」
アゼット様はそのように仰られていますが、そちらは嘘ですよね? 私は最愛の方に護っていただいているので、貴方様に悪意があると気付けるのですよ。
アゼット様。まだ間に合います。
今なら、引き返せますよ?
※現在体調の影響により、感想欄を一時的に閉じさせていただいております。