『「今回だけ我慢してくれ」と言われ続けたので、その回数を数えておりました』

かおるこ

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第3話 帳面を閉じない理由(続)

第3話 帳面を閉じない理由(続)

「……また、いらっしゃらなかったの?」

小さな声が、廊下の奥で弾けた。

セレナは足を止める。
窓から差し込む光が、磨かれた床に白く伸びている。

振り返らない。
ただ、そのまま歩みを進める。

「だって、昨日の約束でしょう? あの方、確か——」

「“必ず参ります”っておっしゃっていたわよね」

くすくすと笑いが混じる。

悪意というほどではない。
けれど、やさしくもない。

セレナは視線を前に向けたまま、歩く。

靴音だけが、規則正しく響く。

(聞こえている)

すべて。

聞こえているけれど、拾わない。



庭に出ると、風がわずかに強かった。

花の香りが流され、代わりに土の匂いが濃くなる。

「セレナ様」

背後から声がする。

振り返ると、見知った令嬢が近づいてきた。

「ごきげんよう」

「ごきげんよう」

互いに軽く頭を下げる。

その間に、ほんの一瞬の間がある。

「……あの」

相手が言葉を選ぶ。

「差し出がましいことでしたら、申し訳ございませんのだけれど」

「何でしょう」

「ルシアン様、最近お忙しいの?」

その問いに、セレナはわずかに目を細める。

「ええ。そう聞いておりますわ」

「そう……」

令嬢は小さく頷く。

「でも、不思議ですわね」

その声音は、探るようでもあり、遠慮がちでもあった。

「何が、ですの?」

「先日の夜会も、茶会も……それから、昨日の約束も」

言葉を濁す。

「すべて、急用が入ったとお聞きして」

セレナは微笑む。

「ええ、そうですの」

「……それで、皆さま少し驚いていらして」

「驚く?」

「だって」

ほんの少しだけ、声を落とす。

「同じ方のお名前が、いつも一緒に出てくるものだから」

その言葉に、風が一瞬止まった気がした。

「……そうですの」

セレナはそれだけ答える。

令嬢はそれ以上踏み込まない。

ただ、困ったように笑う。

「失礼いたしましたわ。噂など、気にするものではありませんものね」

「ええ」

セレナは頷く。

「気にしておりませんわ」

それは、本当だった。



屋敷に戻ると、空気が少しだけ違っていた。

使用人たちの動きが、ほんのわずかに静かになる。

視線が、一瞬だけ止まる。

すぐに逸らされる。

だが、確かにある。

「……セレナ様」

侍女が控えめに呼ぶ。

「何かしら」

「本日、ルシアン様がお見えになると……」

「そう」

セレナは短く返す。

「分かりましたわ」

(来る)

久しぶりに。

それだけで、何かが変わるわけではない。

ただ、確認するだけだ。



夕刻。

窓の外が、ゆっくりと色を変える頃。

「セレナ」

ルシアンの声が、軽やかに響く。

まるで何も問題がなかったかのように。

「今日は会えてよかった」

「……そうですの」

セレナは椅子に座ったまま、視線を向ける。

「最近、なかなか時間が合わなくてね」

「ええ」

「忙しくて」

その言葉に、ほんのわずかな間が生まれる。

「……どのように?」

セレナが静かに問う。

「え?」

「お忙しいと伺っておりますので」

「まあ、色々と」

曖昧な答え。

「用事が重なっていてね」

「そうですの」

セレナは頷く。

「ミレイユ様のご様子はいかがですか」

その一言で、空気がわずかに変わる。

ルシアンが一瞬だけ言葉を止める。

「……ああ、あの方は」

すぐに笑顔を戻す。

「少し落ち着いたよ」

「そうですの」

「この前は体調が悪くてね」

「ええ」

「その前は、不安が強かったみたいで」

「ええ」

「昨日は……」

言葉が一瞬、途切れる。

「……用事があって」

曖昧な言い換え。

セレナは何も言わない。

ただ、見ている。

「……どうした?」

ルシアンが問い返す。

「いえ」

首を横に振る。

「何も」

その言葉が、やけに静かに響く。

「セレナ、怒っているのか?」

「いいえ」

即答だった。

「怒ってはおりません」

「そうか」

ルシアンは少し安心したように笑う。

「やっぱり君は理解がある」

その言葉に、セレナはわずかに息を吸う。

「理解、ですか」

「そうだろう?」

無邪気に言う。

「状況を見て判断できる」

その“状況”が何を指しているのか、ルシアン自身は考えていない。

「……ええ」

セレナは頷く。

「よく、分かっておりますわ」

その言葉の意味を、彼は気づかない。

「助かるよ」

軽く言う。

「君みたいな婚約者で、本当に良かった」

その一言で、すべてが整う。



夜。

部屋の中は、ひどく静かだった。

遠くで、時計の音が一つ鳴る。

セレナは机に向かう。

帳面を開く。

紙の匂いが、乾いている。

ペンを取る。

(噂)

それは、広がり始めている。

誰もはっきりとは言わない。

けれど、繋がっている。

約束を守らない。
同じ理由を繰り返す。
そして、その理由が一人に集中している。

(嘘)

そう呼ばれ始めるのは、時間の問題だった。

セレナはペン先を紙に置く。

書く。

日付。

場所。

そして言葉。

「忙しくて」
「体調が悪くて」
「不安が強くて」

その下に、小さく書き足す。

事実:婚約者不在。
理由:ミレイユ嬢優先。

静かに、整理する。

怒りはない。

ただ、確定していく。

(当然)

そうなるのは。

何度も、同じことを繰り返しているのだから。

婚約者ではなく、別の誰かを選び続けているのだから。

ペンを置く。

帳面を閉じる。

その音は、小さい。

だが、確実だった。

(もう少し)

セレナは目を閉じる。

終わりは、まだ先にある。

だが、その形は、すでに見えている。

静かに。
確実に。

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