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第3話 帳面を閉じない理由(続)
第3話 帳面を閉じない理由(続)
「……また、いらっしゃらなかったの?」
小さな声が、廊下の奥で弾けた。
セレナは足を止める。
窓から差し込む光が、磨かれた床に白く伸びている。
振り返らない。
ただ、そのまま歩みを進める。
「だって、昨日の約束でしょう? あの方、確か——」
「“必ず参ります”っておっしゃっていたわよね」
くすくすと笑いが混じる。
悪意というほどではない。
けれど、やさしくもない。
セレナは視線を前に向けたまま、歩く。
靴音だけが、規則正しく響く。
(聞こえている)
すべて。
聞こえているけれど、拾わない。
◇
庭に出ると、風がわずかに強かった。
花の香りが流され、代わりに土の匂いが濃くなる。
「セレナ様」
背後から声がする。
振り返ると、見知った令嬢が近づいてきた。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
互いに軽く頭を下げる。
その間に、ほんの一瞬の間がある。
「……あの」
相手が言葉を選ぶ。
「差し出がましいことでしたら、申し訳ございませんのだけれど」
「何でしょう」
「ルシアン様、最近お忙しいの?」
その問いに、セレナはわずかに目を細める。
「ええ。そう聞いておりますわ」
「そう……」
令嬢は小さく頷く。
「でも、不思議ですわね」
その声音は、探るようでもあり、遠慮がちでもあった。
「何が、ですの?」
「先日の夜会も、茶会も……それから、昨日の約束も」
言葉を濁す。
「すべて、急用が入ったとお聞きして」
セレナは微笑む。
「ええ、そうですの」
「……それで、皆さま少し驚いていらして」
「驚く?」
「だって」
ほんの少しだけ、声を落とす。
「同じ方のお名前が、いつも一緒に出てくるものだから」
その言葉に、風が一瞬止まった気がした。
「……そうですの」
セレナはそれだけ答える。
令嬢はそれ以上踏み込まない。
ただ、困ったように笑う。
「失礼いたしましたわ。噂など、気にするものではありませんものね」
「ええ」
セレナは頷く。
「気にしておりませんわ」
それは、本当だった。
◇
屋敷に戻ると、空気が少しだけ違っていた。
使用人たちの動きが、ほんのわずかに静かになる。
視線が、一瞬だけ止まる。
すぐに逸らされる。
だが、確かにある。
「……セレナ様」
侍女が控えめに呼ぶ。
「何かしら」
「本日、ルシアン様がお見えになると……」
「そう」
セレナは短く返す。
「分かりましたわ」
(来る)
久しぶりに。
それだけで、何かが変わるわけではない。
ただ、確認するだけだ。
◇
夕刻。
窓の外が、ゆっくりと色を変える頃。
「セレナ」
ルシアンの声が、軽やかに響く。
まるで何も問題がなかったかのように。
「今日は会えてよかった」
「……そうですの」
セレナは椅子に座ったまま、視線を向ける。
「最近、なかなか時間が合わなくてね」
「ええ」
「忙しくて」
その言葉に、ほんのわずかな間が生まれる。
「……どのように?」
セレナが静かに問う。
「え?」
「お忙しいと伺っておりますので」
「まあ、色々と」
曖昧な答え。
「用事が重なっていてね」
「そうですの」
セレナは頷く。
「ミレイユ様のご様子はいかがですか」
その一言で、空気がわずかに変わる。
ルシアンが一瞬だけ言葉を止める。
「……ああ、あの方は」
すぐに笑顔を戻す。
「少し落ち着いたよ」
「そうですの」
「この前は体調が悪くてね」
「ええ」
「その前は、不安が強かったみたいで」
「ええ」
「昨日は……」
言葉が一瞬、途切れる。
「……用事があって」
曖昧な言い換え。
セレナは何も言わない。
ただ、見ている。
「……どうした?」
ルシアンが問い返す。
「いえ」
首を横に振る。
「何も」
その言葉が、やけに静かに響く。
「セレナ、怒っているのか?」
「いいえ」
即答だった。
「怒ってはおりません」
「そうか」
ルシアンは少し安心したように笑う。
「やっぱり君は理解がある」
その言葉に、セレナはわずかに息を吸う。
「理解、ですか」
「そうだろう?」
無邪気に言う。
「状況を見て判断できる」
その“状況”が何を指しているのか、ルシアン自身は考えていない。
「……ええ」
セレナは頷く。
「よく、分かっておりますわ」
その言葉の意味を、彼は気づかない。
「助かるよ」
軽く言う。
「君みたいな婚約者で、本当に良かった」
その一言で、すべてが整う。
◇
夜。
部屋の中は、ひどく静かだった。
遠くで、時計の音が一つ鳴る。
セレナは机に向かう。
帳面を開く。
紙の匂いが、乾いている。
ペンを取る。
(噂)
それは、広がり始めている。
誰もはっきりとは言わない。
けれど、繋がっている。
約束を守らない。
同じ理由を繰り返す。
そして、その理由が一人に集中している。
(嘘)
そう呼ばれ始めるのは、時間の問題だった。
セレナはペン先を紙に置く。
書く。
日付。
場所。
そして言葉。
「忙しくて」
「体調が悪くて」
「不安が強くて」
その下に、小さく書き足す。
事実:婚約者不在。
理由:ミレイユ嬢優先。
静かに、整理する。
怒りはない。
ただ、確定していく。
(当然)
そうなるのは。
何度も、同じことを繰り返しているのだから。
婚約者ではなく、別の誰かを選び続けているのだから。
ペンを置く。
帳面を閉じる。
その音は、小さい。
だが、確実だった。
(もう少し)
セレナは目を閉じる。
終わりは、まだ先にある。
だが、その形は、すでに見えている。
静かに。
確実に。
「……また、いらっしゃらなかったの?」
小さな声が、廊下の奥で弾けた。
セレナは足を止める。
窓から差し込む光が、磨かれた床に白く伸びている。
振り返らない。
ただ、そのまま歩みを進める。
「だって、昨日の約束でしょう? あの方、確か——」
「“必ず参ります”っておっしゃっていたわよね」
くすくすと笑いが混じる。
悪意というほどではない。
けれど、やさしくもない。
セレナは視線を前に向けたまま、歩く。
靴音だけが、規則正しく響く。
(聞こえている)
すべて。
聞こえているけれど、拾わない。
◇
庭に出ると、風がわずかに強かった。
花の香りが流され、代わりに土の匂いが濃くなる。
「セレナ様」
背後から声がする。
振り返ると、見知った令嬢が近づいてきた。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
互いに軽く頭を下げる。
その間に、ほんの一瞬の間がある。
「……あの」
相手が言葉を選ぶ。
「差し出がましいことでしたら、申し訳ございませんのだけれど」
「何でしょう」
「ルシアン様、最近お忙しいの?」
その問いに、セレナはわずかに目を細める。
「ええ。そう聞いておりますわ」
「そう……」
令嬢は小さく頷く。
「でも、不思議ですわね」
その声音は、探るようでもあり、遠慮がちでもあった。
「何が、ですの?」
「先日の夜会も、茶会も……それから、昨日の約束も」
言葉を濁す。
「すべて、急用が入ったとお聞きして」
セレナは微笑む。
「ええ、そうですの」
「……それで、皆さま少し驚いていらして」
「驚く?」
「だって」
ほんの少しだけ、声を落とす。
「同じ方のお名前が、いつも一緒に出てくるものだから」
その言葉に、風が一瞬止まった気がした。
「……そうですの」
セレナはそれだけ答える。
令嬢はそれ以上踏み込まない。
ただ、困ったように笑う。
「失礼いたしましたわ。噂など、気にするものではありませんものね」
「ええ」
セレナは頷く。
「気にしておりませんわ」
それは、本当だった。
◇
屋敷に戻ると、空気が少しだけ違っていた。
使用人たちの動きが、ほんのわずかに静かになる。
視線が、一瞬だけ止まる。
すぐに逸らされる。
だが、確かにある。
「……セレナ様」
侍女が控えめに呼ぶ。
「何かしら」
「本日、ルシアン様がお見えになると……」
「そう」
セレナは短く返す。
「分かりましたわ」
(来る)
久しぶりに。
それだけで、何かが変わるわけではない。
ただ、確認するだけだ。
◇
夕刻。
窓の外が、ゆっくりと色を変える頃。
「セレナ」
ルシアンの声が、軽やかに響く。
まるで何も問題がなかったかのように。
「今日は会えてよかった」
「……そうですの」
セレナは椅子に座ったまま、視線を向ける。
「最近、なかなか時間が合わなくてね」
「ええ」
「忙しくて」
その言葉に、ほんのわずかな間が生まれる。
「……どのように?」
セレナが静かに問う。
「え?」
「お忙しいと伺っておりますので」
「まあ、色々と」
曖昧な答え。
「用事が重なっていてね」
「そうですの」
セレナは頷く。
「ミレイユ様のご様子はいかがですか」
その一言で、空気がわずかに変わる。
ルシアンが一瞬だけ言葉を止める。
「……ああ、あの方は」
すぐに笑顔を戻す。
「少し落ち着いたよ」
「そうですの」
「この前は体調が悪くてね」
「ええ」
「その前は、不安が強かったみたいで」
「ええ」
「昨日は……」
言葉が一瞬、途切れる。
「……用事があって」
曖昧な言い換え。
セレナは何も言わない。
ただ、見ている。
「……どうした?」
ルシアンが問い返す。
「いえ」
首を横に振る。
「何も」
その言葉が、やけに静かに響く。
「セレナ、怒っているのか?」
「いいえ」
即答だった。
「怒ってはおりません」
「そうか」
ルシアンは少し安心したように笑う。
「やっぱり君は理解がある」
その言葉に、セレナはわずかに息を吸う。
「理解、ですか」
「そうだろう?」
無邪気に言う。
「状況を見て判断できる」
その“状況”が何を指しているのか、ルシアン自身は考えていない。
「……ええ」
セレナは頷く。
「よく、分かっておりますわ」
その言葉の意味を、彼は気づかない。
「助かるよ」
軽く言う。
「君みたいな婚約者で、本当に良かった」
その一言で、すべてが整う。
◇
夜。
部屋の中は、ひどく静かだった。
遠くで、時計の音が一つ鳴る。
セレナは机に向かう。
帳面を開く。
紙の匂いが、乾いている。
ペンを取る。
(噂)
それは、広がり始めている。
誰もはっきりとは言わない。
けれど、繋がっている。
約束を守らない。
同じ理由を繰り返す。
そして、その理由が一人に集中している。
(嘘)
そう呼ばれ始めるのは、時間の問題だった。
セレナはペン先を紙に置く。
書く。
日付。
場所。
そして言葉。
「忙しくて」
「体調が悪くて」
「不安が強くて」
その下に、小さく書き足す。
事実:婚約者不在。
理由:ミレイユ嬢優先。
静かに、整理する。
怒りはない。
ただ、確定していく。
(当然)
そうなるのは。
何度も、同じことを繰り返しているのだから。
婚約者ではなく、別の誰かを選び続けているのだから。
ペンを置く。
帳面を閉じる。
その音は、小さい。
だが、確実だった。
(もう少し)
セレナは目を閉じる。
終わりは、まだ先にある。
だが、その形は、すでに見えている。
静かに。
確実に。
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