『「今回だけ我慢してくれ」と言われ続けたので、その回数を数えておりました』

かおるこ

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エピローグ

エピローグ

 窓を開けると、やわらかな春の風が室内に流れ込んできた。

 薄いレースのカーテンがふわりと揺れ、机の上に置いた紙束の端をかすかにめくる。

 インクの匂いと、庭で咲き始めた白い花の香りが混ざり合って、どこか落ち着かないのに、不思議と心を静める。

 セレナはペンを置いた。

 指先に残るわずかな疲れと、長く息を詰めていたあとの軽さが同時にある。

 書き終えたばかりの帳面は、机の中央に置かれている。

 表紙は擦り切れ、角は丸くなっていた。

 何度も開き、何度も閉じた証だ。

 指でそっとなぞると、紙のざらりとした感触が伝わる。

 その感触が、これまでの時間の重みをそのまま教えてくるようで、ほんの一瞬だけ、胸の奥がちくりとした。

 けれど、痛みは長く続かない。

 もう、そこに縋る必要がないからだ。

「……終わりましたのね」

 小さく呟いた声は、思っていたよりも穏やかだった。

 怒りも、悔しさも、今はどこか遠い。

 思い出そうとすればできるけれど、それはもう“今”の感情ではない。

 ただ、確かにあった出来事として、静かにそこにあるだけだ。

 背後で、控えめなノックの音がした。

「お嬢様、よろしいでしょうか」

「ええ、どうぞ」

 扉が開き、侍女が顔を覗かせる。

 手には新しい帳面が一冊。

 まだ紙の匂いが新しく、表紙も固く、まっさらな状態だ。

「ご用意いたしました」

「ありがとう」

 受け取ると、ほんの少しひんやりしている。

 誰の手にもまだ馴染んでいない、無垢な重み。

 それを両手で支えながら、セレナは椅子に座り直した。

 机の上には、二冊の帳面。

 一冊は、終わったもの。

 もう一冊は、これから始まるもの。

 その対比があまりにもはっきりしていて、思わず小さく息が漏れる。

「……不思議ね」

 こんなにも軽いのに、こんなにも満ちている。

 胸の内側に、静かな余白ができている。

 それは空虚ではなく、むしろこれから何でも書き込める余地のようだった。

 ペンを取り、新しい帳面を開く。

 紙が擦れる音が、やけに鮮明に耳に届いた。

 最初のページは、真っ白だ。

 何を書こうかと考える時間すら、どこか新鮮に感じる。

 少しだけ迷ってから、ペン先を紙に落とした。

 さらり、とインクが走る。

 書いたのは、ただ一行。

 ――来週、王都監査院へ訪問。

 それだけだ。

 けれど、その一行には、以前の帳面にはなかった温度があった。

 義務でも、我慢でもない。

 自分で選んだ予定。

 その事実が、こんなにも手を軽くするのだと、今さらのように知る。

 窓の外で、小鳥が鳴いた。

 高く澄んだ声が、春の空気を震わせる。

 遠くで庭師が土を踏む音がして、湿った土の匂いが風に乗って届く。

 五感のすべてが、少しずつ世界の輪郭を取り戻していく。

 これまで、どれほど自分が“内側”に閉じていたのかが分かる。

 帳面を閉じた。

 ぱたん、と軽い音がした。

 それだけで、区切りがついた気がした。

「……もう、数えなくてよろしいのですね」

 思わず口に出すと、どこか可笑しくなって、わずかに笑みが浮かぶ。

 あの頃は、数えることが必要だった。

 自分を守るために。

 曖昧にされないために。

 見失わないために。

 けれど今は違う。

 数えなくても、自分が何を選び、何を望んでいるのかを、きちんと分かっている。

 それだけで、十分だ。

 再びノックの音。

「失礼いたします」

 今度は低く落ち着いた声だった。

「お約束のお時間ですが」

「ええ、すぐ参りますわ」

 立ち上がると、スカートの裾がわずかに揺れる。

 床を踏む感触が、やけに確かだ。

 扉へ向かう途中で、一度だけ振り返る。

 机の上に並んだ二冊の帳面。

 過去と、これから。

 どちらも自分のものだ。

 どちらも否定する必要はない。

 ただ、もう同じ場所にはいないというだけだ。

 セレナは静かに扉を開けた。

 廊下の空気は少しひんやりしていて、外の暖かさとの境界を感じさせる。

 その境目を一歩踏み越える。

 それだけで、身体が軽くなる気がした。

「お待たせいたしました」

 前を向いてそう告げる。

 その声は、以前よりもほんの少しだけ柔らかく、そして確かに強かった。

 背筋を伸ばし、歩き出す。

 もう、後ろを振り返る必要はない。

 足音が廊下に響く。

 規則正しく、迷いのない音。

 そのリズムに合わせるように、胸の奥で新しい何かが静かに動き出していた。

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