『私の余生は、私のもの ―同居一週間、嫁に年金通帳を狙われた私の生存戦略―』

かおるこ

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第一話:嵐の予感は「年金手帳」から

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第一話:嵐の予感は「年金手帳」から

春の湿った風が、築四十年になる木造家屋の隙間を通り抜け、ひゅうと鳴った。

廊下を歩けば、長年染み付いた線香の残り香と、古い木材が呼吸するような埃っぽい匂いが鼻をくすぐる。しかし一週間前から、そこに異質な香りが混ざり始めた。嫁の真由美が持ち込んだ、海外製の甘ったるい香水の匂いだ。その二つは決して溶け合うことなく、油と水のように空間を明確に分離させていた。

「お義母さん、お茶淹れましたよ。ちょっと休憩しません?」

弾むような声と共に、真由美がリビングに入ってきた。手には、園子が長年愛用してきた縁の欠けた湯呑みではなく、新調したという無機質な北欧風のマグカップが握られている。

「……ありがとう。でも、悪いわね。自分でできるのに」

園子は膝の上で、節の浮き出た両手を静かに握りしめた。
息子の一樹が「母さんも一人じゃ物騒だろ、これからは家族全員で支え合おう」と言い出した時は、老い先短い身の情けなさに甘えてしまった。だが、同居が始まってわずか七日。園子の心臓は、常に薄い氷の上を歩いているような、微かな、しかし消えない不整脈を刻み続けている。

真由美は園子の向かいに腰を下ろすと、まるで秘密を共有する親友のような近さまで顔を寄せた。彼女の瞳は潤み、慈しみに満ちているように見える。だが、その奥にある温度を、園子は読み取ることができない。

「お義母さん、これからのことなんですけど」

真由美がテーブルの上に、一冊の真新しいノートを置いた。表紙には『家計管理』と丸文字で、ひどく丁寧に書かれている。

「一樹さんと相談したんです。お義母さんも、もう細かいお金の計算とか、銀行のATMを操作するのも、お目々が疲れちゃう時期でしょう? これからは私が全部、責任を持って管理してあげようと思って。一樹さんの給料も、私のパート代も、お義母さんの年金も、全部ひとつにまとめるのが一番効率がいいんです。ね、住宅ローンの繰り上げ返済だって考えなきゃいけないし」

園子の背筋を、氷の刃でなぞられたような戦慄が走った。

「管理って……具体的にどういうことかしら」

「簡単なことですよ」
真由美は屈託のない笑顔を浮かべ、白く細い指先でテーブルをトントンと軽快に叩いた。
「お義母さんの**年金手帳**と、**通帳**。それを私に預けてくれればいいんです。必要な時に私がおろしてきますし、光熱費も食費も、ここから私が一括でやりくりしますから。お義母さんは、ただこの家で、何も心配せずに笑って過ごしてくれればいいの」

窓の外で、急に風が強まった。庭の金木犀の枝が窓ガラスをコツ、コツと叩く。それはまるで、誰かが外から警告を発しているかのような、乾いた拒絶の音だった。

園子の喉がギュッと締まる。
年金手帳。それは、亡き夫と二人、町工場の油にまみれて働き、爪に火を灯すようにして守り抜いてきた、園子の人生そのものの証明だ。かつて経理事務として一円の狂いも許さず帳簿をつけてきた園子にとって、自分の資産を手放すことは、自分の輪郭を失うことと同義だった。

「気持ちは嬉しいわ、真由美さん。でもね、まだ体も動くし、幸い頭もしっかりしているつもりよ。銀行まで歩くのは、私にとって大切な運動なの。それに、自分の生活の帳尻は自分で合わせたいのよ。帳簿の数字が合わないと、夜も眠れなくなる性分でね」

園子は精一杯の穏やかさを装って、真っ直ぐに真由美の目を見て答えた。

一瞬、部屋の中の空気が、真空になったかのように凍りついた。

「……お義母さん」

真由美の声から、先ほどまでの蜂蜜のような甘い響きが、綺麗に消えた。
彼女はゆっくりと背筋を伸ばし、組んでいた足を組み替える。ストッキングが擦れるシュルリという乾いた音が、静まり返った部屋にやけに冷酷に響いた。

「私のことが、信じられないんですか?」

真由美の目が、一瞬で冷徹なガラス玉のように変わった。
饒舌だった唇は薄く一文字に結ばれ、その視線は園子という人間を見ているのではなく、処分を待つ古い什器を検分しているかのような、無機質なものへと変貌した。

「そんなつもりじゃ……」

「家族になったんでしょう? 水臭いこと言わないでください。一樹さんだって『母さんはおっちょこちょいだから、通帳をどこかに失くしたり、詐欺に遭ったりする前に預かったほうがいい』って言ってたんですよ。ねえ、お義母さん。私たち、お義母さんの将来を心配して、わざわざ不便なこの家での同居を決めたんです。それなのに、そんな疑うような真似……。悲しいわ、本当に」

真由美は大きく溜息をつき、視線を窓の外に逸らした。その横顔には、あからさまな不快感と「被害者」の顔が張り付いている。
園子は、自分の家のリビングにいるはずなのに、どこか知らない他人の家の地下室に閉じ込められたような錯覚に陥った。湿った空気、強まる香水の匂い、そして自分を排除しようとする沈黙。

「……ごめんなさいね。でも、これだけは譲れないの。死ぬまで、自分の足元だけは自分で照らしていたいのよ。それが私の誇りなの」

園子が声を震わせながらも決然と告げると、真由美は無言で立ち上がった。
彼女は園子を一度だけ、ゴミでも見るような冷ややかな目で見下ろすと、テーブルの上のノートを乱暴に掴んだ。

「わかりました。お義母さんがそこまで頑固だとは思いませんでした。……でも、一樹さんには、ありのままを伝えますからね。私が良かれと思って提案したことを、お義母さんが全否定したって」

真由美は踵を返し、キッチンへと向かった。
バタン、という乱暴な扉の閉まる音が、これからの宣戦布告のように重く響き渡る。

園子は一人残されたリビングで、冷めきった茶を啜った。
喉を通る液体は苦く、ざらついている。
外はもう、本格的な雨が降り始めていた。アスファルトが濡れる特有の匂いが、開いたままの小窓から忍び込んでくる。

(ああ、これはまだ、始まりに過ぎないんだわ……)

園子は、胸元に隠すように持っている古い巾着袋を、衣の上から強く握りしめた。そこには、真由美が喉から手が出るほど欲しがっている「権利」と「尊厳」が眠っている。

ふと、キッチンの奥から、真由美の低い、しかしはっきりと通る声が聞こえた。

「……もしもし、一樹さん? ああ、ううん。ちょっとお義母さんのことで困っちゃって。……ええ、そうなの。あんなに頑なだなんて……」

電話越しに、味方を増やそうとする嫁の毒が、じわりと家の中に広がっていく。
園子は目を閉じ、深く息を吐いた。
この家での戦いは、どうやら一対一では済まないらしい。

窓の外の雨脚が、さらに激しくなった。

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