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第1話 『男の人以上に頑張ってきたのに』
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春の朝だった。
カーテンのすき間から、やわらかい光が畳の部屋に細く差し込んでいる。空気はまだ少し冷たく、陽子は布団の中で目を開けた。
起き上がろうとして、体が止まった。
背中の奥、骨のきしむような痛みがじわりと広がる。肩、腕、太もも。まるで体の中に細い針が何百本も刺さっているようだった。
「……ああ、今日もか」
小さくつぶやくと、自分の声がやけに乾いて聞こえた。
布団の中でゆっくり指を動かしてみる。指先が冷たく、こわばっている。指を曲げるたび、じくじくした痛みが走る。
壁の時計を見る。
午前七時。
昔なら、とっくに出勤の準備をしていた時間だった。
陽子は六十五歳。独身。
若い頃から働き続けてきた。
工場、スーパー、清掃、事務。正社員ではないことも多かったけれど、とにかく働いた。
「女だからって、負けたくなかったのよね……」
苦笑がもれる。
やっとの思いで体を起こすと、腰がぎしっと鳴る。畳の匂いがふわりと鼻に届いた。
台所へ行き、電気ケトルのスイッチを入れる。
ゴォ……という小さな音。
その音を聞きながら、流し台に手をついた。冷たいステンレスの感触が掌に広がる。
痛い。
ただ立っているだけで、体の奥がじんじんする。
線維筋痛症。
医者はそう言った。
「原因ははっきりしないんです。でも全身に痛みが出ます」
白い診察室の蛍光灯の光が、やけにまぶしかったのを覚えている。
「働くのは……」
陽子が言いかけると、医師は少し言葉を選んだ。
「無理はしない方がいいでしょう」
無理をしない。
その言葉が、あの日から胸の中で引っかかっている。
ケトルがカチンと鳴った。
インスタントコーヒーをカップに入れる。湯を注ぐと、苦い香りがふわっと立ち上がる。
陽子はカップを両手で包み込んだ。
温かい。
それだけで、少しだけ体がほどける気がした。
テーブルの上には、年金の振込通知が置かれている。
額面十五万円。
手取り、十三万円。
紙を指でなぞる。
「二万円も引かれるんだものね……」
国民健康保険。
介護保険。
住民税。
文字が並んでいる。
窓の外では、近所の小学生が笑いながら歩いていた。ランドセルが揺れている。
その声を聞きながら、陽子はぽつりとつぶやいた。
「私、男の人以上に頑張ってきたのにね……」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく、部屋の空気に吸い込まれていった。
若い頃のことを思い出す。
工場の夜勤。
油の匂い。機械の唸り。
重い部品を運ぶたび、腕が震えた。
「女にできるのかよ」
そう言った男がいた。
悔しくて、何も言わずに働いた。
誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰った。
手のひらには、いつも小さな傷があった。
スーパーの仕事もそうだった。
「力仕事は男の人がやるから」
そう言われながら、結局は自分もやった。
段ボールを持ち上げ、売り場を走り回り、閉店後に床を磨いた。
帰り道、コンビニの光がにじんで見えたこともある。
それでも思っていた。
老後は、少し楽になるだろうと。
コーヒーを一口飲む。
苦い。
でも、嫌いじゃない。
ふと、膝がズキンと痛んだ。
椅子に座り直す。
呼吸を整える。
窓から春の風が入ってきた。少し湿った匂い。遠くで電車の音。
「働けると思ってたのよ」
小さく笑う。
「まだ働けるって」
スーパーのパートを探していた。
シニア歓迎。
週三日。
それくらいなら、きっとできると思っていた。
でも今は、スーパーまで歩くことさえつらい。
テーブルの上に、薬の袋がある。
リリカ。
トラムセット。
薬を取り出すと、アルミのシートがぱきっと鳴った。
「はあ……」
飲み込む。
喉を通る冷たい水の感触。
少しだけ、痛みが遠くなる気がする。
しばらくして、陽子は窓の外を見た。
青空だった。
雲がゆっくり流れている。
「まあ、いいか」
自分でも意外なほど、穏やかな声だった。
「生きてるんだし」
誰もいない部屋。
冷蔵庫の小さな音だけが聞こえる。
陽子はゆっくり立ち上がった。
痛みはある。
それでも、窓を開けた。
春の空気が部屋に流れ込む。
遠くでパン屋の匂いがした気がした。
甘くて、少し焦げたような香り。
「パンでも買いに行こうかな」
そう言ってみる。
ほんの数分歩くだけでも、今日は十分だ。
陽子は靴を履きながら、小さくつぶやいた。
「私、ちゃんと生きてきたもの」
その言葉は、静かな部屋の中で、確かな重さを持っていた。
痛みがあっても。
お金が足りなくても。
それでも――
六十五年の人生は、確かにここにある。
カーテンのすき間から、やわらかい光が畳の部屋に細く差し込んでいる。空気はまだ少し冷たく、陽子は布団の中で目を開けた。
起き上がろうとして、体が止まった。
背中の奥、骨のきしむような痛みがじわりと広がる。肩、腕、太もも。まるで体の中に細い針が何百本も刺さっているようだった。
「……ああ、今日もか」
小さくつぶやくと、自分の声がやけに乾いて聞こえた。
布団の中でゆっくり指を動かしてみる。指先が冷たく、こわばっている。指を曲げるたび、じくじくした痛みが走る。
壁の時計を見る。
午前七時。
昔なら、とっくに出勤の準備をしていた時間だった。
陽子は六十五歳。独身。
若い頃から働き続けてきた。
工場、スーパー、清掃、事務。正社員ではないことも多かったけれど、とにかく働いた。
「女だからって、負けたくなかったのよね……」
苦笑がもれる。
やっとの思いで体を起こすと、腰がぎしっと鳴る。畳の匂いがふわりと鼻に届いた。
台所へ行き、電気ケトルのスイッチを入れる。
ゴォ……という小さな音。
その音を聞きながら、流し台に手をついた。冷たいステンレスの感触が掌に広がる。
痛い。
ただ立っているだけで、体の奥がじんじんする。
線維筋痛症。
医者はそう言った。
「原因ははっきりしないんです。でも全身に痛みが出ます」
白い診察室の蛍光灯の光が、やけにまぶしかったのを覚えている。
「働くのは……」
陽子が言いかけると、医師は少し言葉を選んだ。
「無理はしない方がいいでしょう」
無理をしない。
その言葉が、あの日から胸の中で引っかかっている。
ケトルがカチンと鳴った。
インスタントコーヒーをカップに入れる。湯を注ぐと、苦い香りがふわっと立ち上がる。
陽子はカップを両手で包み込んだ。
温かい。
それだけで、少しだけ体がほどける気がした。
テーブルの上には、年金の振込通知が置かれている。
額面十五万円。
手取り、十三万円。
紙を指でなぞる。
「二万円も引かれるんだものね……」
国民健康保険。
介護保険。
住民税。
文字が並んでいる。
窓の外では、近所の小学生が笑いながら歩いていた。ランドセルが揺れている。
その声を聞きながら、陽子はぽつりとつぶやいた。
「私、男の人以上に頑張ってきたのにね……」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく、部屋の空気に吸い込まれていった。
若い頃のことを思い出す。
工場の夜勤。
油の匂い。機械の唸り。
重い部品を運ぶたび、腕が震えた。
「女にできるのかよ」
そう言った男がいた。
悔しくて、何も言わずに働いた。
誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰った。
手のひらには、いつも小さな傷があった。
スーパーの仕事もそうだった。
「力仕事は男の人がやるから」
そう言われながら、結局は自分もやった。
段ボールを持ち上げ、売り場を走り回り、閉店後に床を磨いた。
帰り道、コンビニの光がにじんで見えたこともある。
それでも思っていた。
老後は、少し楽になるだろうと。
コーヒーを一口飲む。
苦い。
でも、嫌いじゃない。
ふと、膝がズキンと痛んだ。
椅子に座り直す。
呼吸を整える。
窓から春の風が入ってきた。少し湿った匂い。遠くで電車の音。
「働けると思ってたのよ」
小さく笑う。
「まだ働けるって」
スーパーのパートを探していた。
シニア歓迎。
週三日。
それくらいなら、きっとできると思っていた。
でも今は、スーパーまで歩くことさえつらい。
テーブルの上に、薬の袋がある。
リリカ。
トラムセット。
薬を取り出すと、アルミのシートがぱきっと鳴った。
「はあ……」
飲み込む。
喉を通る冷たい水の感触。
少しだけ、痛みが遠くなる気がする。
しばらくして、陽子は窓の外を見た。
青空だった。
雲がゆっくり流れている。
「まあ、いいか」
自分でも意外なほど、穏やかな声だった。
「生きてるんだし」
誰もいない部屋。
冷蔵庫の小さな音だけが聞こえる。
陽子はゆっくり立ち上がった。
痛みはある。
それでも、窓を開けた。
春の空気が部屋に流れ込む。
遠くでパン屋の匂いがした気がした。
甘くて、少し焦げたような香り。
「パンでも買いに行こうかな」
そう言ってみる。
ほんの数分歩くだけでも、今日は十分だ。
陽子は靴を履きながら、小さくつぶやいた。
「私、ちゃんと生きてきたもの」
その言葉は、静かな部屋の中で、確かな重さを持っていた。
痛みがあっても。
お金が足りなくても。
それでも――
六十五年の人生は、確かにここにある。
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