5 / 12
第4話 労働局へ
しおりを挟む
第4話 労働局へ
蛍光灯の白い光は、いつもより冷たく感じた。
物流センターの床は磨かれているはずなのに、油の匂いが染みついている。段ボールと汗と、わずかな焦げたゴムの匂い。
「美咲さん、今日も定時で帰るの?」
同僚の佐伯が、小さく囁く。
「うん。ちょっと用事があって」
“用事”という言葉が、胸の奥で静かに光る。
タイムカードを押す。
機械音が乾いて響く。
十八時〇三分。
それでも、棚卸しのリストが机に置かれている。
「これ、終わらせてから帰ってね」
センター長の声。背後から。
「……勤務時間外です」
「またそれ? みんなやってるって言ってるだろ」
距離が近い。
煙草とミントの匂いが混ざる。
「協調性って言葉、知らない?」
「労働契約書には記載がありません」
言葉が静かに落ちる。
センター長の眉が動く。
「最近、ずいぶん強気だね」
「事実を言っているだけです」
その一言に、周囲の空気がぴたりと止まる。
◇
翌朝。
労働局の建物は、灰色で、無表情だった。
自動ドアが開くと、消毒液の匂いが鼻を刺す。
受付の女性が柔らかく微笑む。
「ご相談ですね」
「はい」
手の中のファイルが、汗で少し湿っている。
でも、震えはない。
小さな会議室。
担当官は四十代半ばの男性。眼鏡越しの目が、静かにこちらを見る。
「まず、経緯を教えてください」
美咲は、ページを開く。
「サービス残業の記録です。過去一年分。タイムカードのコピーと、実際の退勤時刻を記録したメモ」
紙の擦れる音が、部屋に広がる。
「こちらが、上司とのやり取りの録音です」
「再生できますか」
「はい」
スマホを置く。
再生ボタンを押す。
『サービス残業くらい、みんなやってるよ』
『契約更新、難しくなるよ?』
『若いんだから、もう少し柔軟にさ』
自分の声と、あの男の声。
閉ざされた空間で、はっきりと響く。
担当官の表情が変わる。
「……これは」
「契約更新を示唆しながら、残業を強要しています」
「他に、身体的接触は?」
「未遂です。距離が近い。発言の内容も、こちらにあります」
メモを差し出す。
インクの匂いが、わずかに立ちのぼる。
担当官はゆっくり頷く。
「受理します」
その四文字が、胸の奥で弾ける。
◇
三日後。
センター長室。
ガラス越しに、労働局の職員が見える。
社内の人事部も同席している。
「……どういうことだ」
センター長の声が、かすれている。
「内部監査が入ります」
人事部の女性が、冷静に告げる。
「美咲さんから正式な申告がありました」
センター長の視線が、美咲に向く。
「お前……!」
「録音、再生してもよろしいですか」
労働局の職員が言う。
再び、あの声が流れる。
『契約、難しくなるよ?』
今度は、逃げ場がない空間で。
センター長の顔から血の気が引く。
さっきまで赤かった頬が、灰色に変わる。
「冗談だ! そんなつもりじゃ――」
「録音では、繰り返し発言されています」
職員の声は平坦だ。
「勤務記録と実労働時間に大きな乖離があります。説明を」
沈黙。
蛍光灯の音が、やけに大きい。
「……みんな、やってるんだ」
「違法です」
短い一言。
その瞬間、空気が逆転する。
今まで彼が握っていた“圧”が、音を立てて崩れる。
美咲は椅子に座ったまま、背筋を伸ばす。
鼓動は速い。
でも恐怖ではない。
解放に近い。
「社としては、早急に是正措置を取ります」
人事部の声。
「該当上司には、処分を検討します」
「ちょっと待て!」
センター長が立ち上がる。
「俺だけの問題じゃない! 上も知って――」
言葉が途中で止まる。
自分の口が、自分の首を絞めていると気づいた顔。
その顔を見た瞬間、胸の奥で何かがすっと軽くなる。
これが、逆転。
◇
一週間後。
会社から呼び出し。
応接室は甘いコーヒーの匂いがする。
「今回の件ですが」
人事部長が、慎重に口を開く。
「社としては、円満に解決したいと考えています」
「円満、とは」
「示談金をお支払いします」
金額が提示される。
紙に印字された数字。
指先で触れると、インクのざらつきがわずかに感じられる。
「退職扱いにはなりません。ご希望があれば、部署異動も」
「……センター長は」
「停職処分。再発防止研修を実施します」
静かな勝利の匂いがする。
美咲は一度、目を閉じる。
冷蔵倉庫の匂い。
煙草とミント。
肩に触れかけた指先。
すべてが、遠くなる。
「示談書、拝見します」
声は落ち着いている。
「弁護士と確認の上、回答します」
人事部長がわずかに目を見開く。
「……承知しました」
会社の外に出ると、風が頬を撫でる。
春の匂い。
沈丁花がどこかで咲いている。
胸いっぱいに吸い込む。
泥は、まだある。
でも、足は沈んでいない。
振り返ると、灰色の建物が小さく見える。
あの中で、彼は今、説明を求められているだろう。
逃げ場のない蛍光灯の下で。
美咲はゆっくり歩き出す。
ヒールの音が、乾いたアスファルトに軽やかに響いた。
はじめて、はっきりと感じる。
自分の尊厳が、戻ってきた音を。
蛍光灯の白い光は、いつもより冷たく感じた。
物流センターの床は磨かれているはずなのに、油の匂いが染みついている。段ボールと汗と、わずかな焦げたゴムの匂い。
「美咲さん、今日も定時で帰るの?」
同僚の佐伯が、小さく囁く。
「うん。ちょっと用事があって」
“用事”という言葉が、胸の奥で静かに光る。
タイムカードを押す。
機械音が乾いて響く。
十八時〇三分。
それでも、棚卸しのリストが机に置かれている。
「これ、終わらせてから帰ってね」
センター長の声。背後から。
「……勤務時間外です」
「またそれ? みんなやってるって言ってるだろ」
距離が近い。
煙草とミントの匂いが混ざる。
「協調性って言葉、知らない?」
「労働契約書には記載がありません」
言葉が静かに落ちる。
センター長の眉が動く。
「最近、ずいぶん強気だね」
「事実を言っているだけです」
その一言に、周囲の空気がぴたりと止まる。
◇
翌朝。
労働局の建物は、灰色で、無表情だった。
自動ドアが開くと、消毒液の匂いが鼻を刺す。
受付の女性が柔らかく微笑む。
「ご相談ですね」
「はい」
手の中のファイルが、汗で少し湿っている。
でも、震えはない。
小さな会議室。
担当官は四十代半ばの男性。眼鏡越しの目が、静かにこちらを見る。
「まず、経緯を教えてください」
美咲は、ページを開く。
「サービス残業の記録です。過去一年分。タイムカードのコピーと、実際の退勤時刻を記録したメモ」
紙の擦れる音が、部屋に広がる。
「こちらが、上司とのやり取りの録音です」
「再生できますか」
「はい」
スマホを置く。
再生ボタンを押す。
『サービス残業くらい、みんなやってるよ』
『契約更新、難しくなるよ?』
『若いんだから、もう少し柔軟にさ』
自分の声と、あの男の声。
閉ざされた空間で、はっきりと響く。
担当官の表情が変わる。
「……これは」
「契約更新を示唆しながら、残業を強要しています」
「他に、身体的接触は?」
「未遂です。距離が近い。発言の内容も、こちらにあります」
メモを差し出す。
インクの匂いが、わずかに立ちのぼる。
担当官はゆっくり頷く。
「受理します」
その四文字が、胸の奥で弾ける。
◇
三日後。
センター長室。
ガラス越しに、労働局の職員が見える。
社内の人事部も同席している。
「……どういうことだ」
センター長の声が、かすれている。
「内部監査が入ります」
人事部の女性が、冷静に告げる。
「美咲さんから正式な申告がありました」
センター長の視線が、美咲に向く。
「お前……!」
「録音、再生してもよろしいですか」
労働局の職員が言う。
再び、あの声が流れる。
『契約、難しくなるよ?』
今度は、逃げ場がない空間で。
センター長の顔から血の気が引く。
さっきまで赤かった頬が、灰色に変わる。
「冗談だ! そんなつもりじゃ――」
「録音では、繰り返し発言されています」
職員の声は平坦だ。
「勤務記録と実労働時間に大きな乖離があります。説明を」
沈黙。
蛍光灯の音が、やけに大きい。
「……みんな、やってるんだ」
「違法です」
短い一言。
その瞬間、空気が逆転する。
今まで彼が握っていた“圧”が、音を立てて崩れる。
美咲は椅子に座ったまま、背筋を伸ばす。
鼓動は速い。
でも恐怖ではない。
解放に近い。
「社としては、早急に是正措置を取ります」
人事部の声。
「該当上司には、処分を検討します」
「ちょっと待て!」
センター長が立ち上がる。
「俺だけの問題じゃない! 上も知って――」
言葉が途中で止まる。
自分の口が、自分の首を絞めていると気づいた顔。
その顔を見た瞬間、胸の奥で何かがすっと軽くなる。
これが、逆転。
◇
一週間後。
会社から呼び出し。
応接室は甘いコーヒーの匂いがする。
「今回の件ですが」
人事部長が、慎重に口を開く。
「社としては、円満に解決したいと考えています」
「円満、とは」
「示談金をお支払いします」
金額が提示される。
紙に印字された数字。
指先で触れると、インクのざらつきがわずかに感じられる。
「退職扱いにはなりません。ご希望があれば、部署異動も」
「……センター長は」
「停職処分。再発防止研修を実施します」
静かな勝利の匂いがする。
美咲は一度、目を閉じる。
冷蔵倉庫の匂い。
煙草とミント。
肩に触れかけた指先。
すべてが、遠くなる。
「示談書、拝見します」
声は落ち着いている。
「弁護士と確認の上、回答します」
人事部長がわずかに目を見開く。
「……承知しました」
会社の外に出ると、風が頬を撫でる。
春の匂い。
沈丁花がどこかで咲いている。
胸いっぱいに吸い込む。
泥は、まだある。
でも、足は沈んでいない。
振り返ると、灰色の建物が小さく見える。
あの中で、彼は今、説明を求められているだろう。
逃げ場のない蛍光灯の下で。
美咲はゆっくり歩き出す。
ヒールの音が、乾いたアスファルトに軽やかに響いた。
はじめて、はっきりと感じる。
自分の尊厳が、戻ってきた音を。
0
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
お花畑な母親が正当な跡取りである兄を差し置いて俺を跡取りにしようとしている。誰か助けて……
karon
ファンタジー
我が家にはおまけがいる。それは俺の兄、しかし兄はすべてに置いて俺に勝っており、俺は凡人以下。兄を差し置いて俺が跡取りになったら俺は詰む。何とかこの状況から逃げ出したい。
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
【完結】精霊に選ばれなかった私は…
まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。
しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。
選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。
選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。
貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…?
☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる