『六法全書(つるぎ)を抱いて、泥濘を歩け』こってりざまぁ特化型

かおるこ

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第4話 労働局へ

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第4話 労働局へ

 蛍光灯の白い光は、いつもより冷たく感じた。
 物流センターの床は磨かれているはずなのに、油の匂いが染みついている。段ボールと汗と、わずかな焦げたゴムの匂い。

「美咲さん、今日も定時で帰るの?」

 同僚の佐伯が、小さく囁く。

「うん。ちょっと用事があって」

 “用事”という言葉が、胸の奥で静かに光る。

 タイムカードを押す。
 機械音が乾いて響く。

 十八時〇三分。

 それでも、棚卸しのリストが机に置かれている。

「これ、終わらせてから帰ってね」

 センター長の声。背後から。

「……勤務時間外です」

「またそれ? みんなやってるって言ってるだろ」

 距離が近い。
 煙草とミントの匂いが混ざる。

「協調性って言葉、知らない?」

「労働契約書には記載がありません」

 言葉が静かに落ちる。

 センター長の眉が動く。

「最近、ずいぶん強気だね」

「事実を言っているだけです」

 その一言に、周囲の空気がぴたりと止まる。

 ◇

 翌朝。
 労働局の建物は、灰色で、無表情だった。
 自動ドアが開くと、消毒液の匂いが鼻を刺す。

 受付の女性が柔らかく微笑む。

「ご相談ですね」

「はい」

 手の中のファイルが、汗で少し湿っている。
 でも、震えはない。

 小さな会議室。
 担当官は四十代半ばの男性。眼鏡越しの目が、静かにこちらを見る。

「まず、経緯を教えてください」

 美咲は、ページを開く。

「サービス残業の記録です。過去一年分。タイムカードのコピーと、実際の退勤時刻を記録したメモ」

 紙の擦れる音が、部屋に広がる。

「こちらが、上司とのやり取りの録音です」

「再生できますか」

「はい」

 スマホを置く。
 再生ボタンを押す。

『サービス残業くらい、みんなやってるよ』

『契約更新、難しくなるよ?』

『若いんだから、もう少し柔軟にさ』

 自分の声と、あの男の声。
 閉ざされた空間で、はっきりと響く。

 担当官の表情が変わる。

「……これは」

「契約更新を示唆しながら、残業を強要しています」

「他に、身体的接触は?」

「未遂です。距離が近い。発言の内容も、こちらにあります」

 メモを差し出す。
 インクの匂いが、わずかに立ちのぼる。

 担当官はゆっくり頷く。

「受理します」

 その四文字が、胸の奥で弾ける。

 ◇

 三日後。
 センター長室。

 ガラス越しに、労働局の職員が見える。
 社内の人事部も同席している。

「……どういうことだ」

 センター長の声が、かすれている。

「内部監査が入ります」

 人事部の女性が、冷静に告げる。

「美咲さんから正式な申告がありました」

 センター長の視線が、美咲に向く。

「お前……!」

「録音、再生してもよろしいですか」

 労働局の職員が言う。

 再び、あの声が流れる。

『契約、難しくなるよ?』

 今度は、逃げ場がない空間で。

 センター長の顔から血の気が引く。
 さっきまで赤かった頬が、灰色に変わる。

「冗談だ! そんなつもりじゃ――」

「録音では、繰り返し発言されています」

 職員の声は平坦だ。

「勤務記録と実労働時間に大きな乖離があります。説明を」

 沈黙。

 蛍光灯の音が、やけに大きい。

「……みんな、やってるんだ」

「違法です」

 短い一言。

 その瞬間、空気が逆転する。

 今まで彼が握っていた“圧”が、音を立てて崩れる。

 美咲は椅子に座ったまま、背筋を伸ばす。

 鼓動は速い。
 でも恐怖ではない。

 解放に近い。

「社としては、早急に是正措置を取ります」

 人事部の声。

「該当上司には、処分を検討します」

「ちょっと待て!」

 センター長が立ち上がる。

「俺だけの問題じゃない! 上も知って――」

 言葉が途中で止まる。

 自分の口が、自分の首を絞めていると気づいた顔。

 その顔を見た瞬間、胸の奥で何かがすっと軽くなる。

 これが、逆転。

 ◇

 一週間後。
 会社から呼び出し。

 応接室は甘いコーヒーの匂いがする。

「今回の件ですが」

 人事部長が、慎重に口を開く。

「社としては、円満に解決したいと考えています」

「円満、とは」

「示談金をお支払いします」

 金額が提示される。

 紙に印字された数字。

 指先で触れると、インクのざらつきがわずかに感じられる。

「退職扱いにはなりません。ご希望があれば、部署異動も」

「……センター長は」

「停職処分。再発防止研修を実施します」

 静かな勝利の匂いがする。

 美咲は一度、目を閉じる。

 冷蔵倉庫の匂い。
 煙草とミント。
 肩に触れかけた指先。

 すべてが、遠くなる。

「示談書、拝見します」

 声は落ち着いている。

「弁護士と確認の上、回答します」

 人事部長がわずかに目を見開く。

「……承知しました」

 会社の外に出ると、風が頬を撫でる。

 春の匂い。
 沈丁花がどこかで咲いている。

 胸いっぱいに吸い込む。

 泥は、まだある。
 でも、足は沈んでいない。

 振り返ると、灰色の建物が小さく見える。

 あの中で、彼は今、説明を求められているだろう。

 逃げ場のない蛍光灯の下で。

 美咲はゆっくり歩き出す。

 ヒールの音が、乾いたアスファルトに軽やかに響いた。

 はじめて、はっきりと感じる。

 自分の尊厳が、戻ってきた音を。

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