『六法全書(つるぎ)を抱いて、泥濘を歩け』こってりざまぁ特化型

かおるこ

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第8話 孤立

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第8話 孤立

 家の中は、妙に音が響く。

 家具のほとんどが運び出され、白い壁がむき出しになっている。
 床の上に、かつてソファがあった跡だけが四角く残っていた。

 智也は、その跡をしばらく見つめていた。

「……こんなはずじゃなかった」

 誰に向けたわけでもない言葉が、空っぽのリビングに吸い込まれる。

 不動産会社の男が、書類を差し出す。

「こちら、売却契約書になります」

 インクの匂いが、やけに強い。

「残債は完済できますが、手元にはほとんど残りません」

「……わかってます」

 ペンを握る手が、少し震える。
 サインの最後の払いが、わずかに歪んだ。

 かつて「俺の家だ」と言った場所は、紙一枚で他人のものになる。

 静かな終わりだった。

 ◇

 会社の会議室は、冷房が効きすぎている。

「今回の件だが」

 部長が書類から目を上げない。

「監査結果を踏まえ、配置転換とする」

「……降格、ですか」

「そう受け取ってくれていい」

 部長の声は、責めるでもなく、淡々としている。

「個人の投資は自由だが、申告義務違反は看過できない」

 机の上の資料が、やけに分厚く見える。

「信用が第一の部署だ。理解してくれ」

 理解、という言葉が、遠い。

「……はい」

 それだけを言う。

 廊下に出ると、蛍光灯の白い光が目に刺さる。
 すれ違う同僚の視線が、一瞬だけ止まり、すぐ逸れる。

 何も言われないことが、いちばん痛い。

 ◇

 義実家の居間は、昔と変わらず甘い線香の匂いがする。

「智也、どういうことなの」

 義母の声は、少し掠れている。

「仕送り、もう無理なんだ」

「は?」

「家、売った」

 茶碗が、かすかに鳴る。

「売ったって……あの新築を?」

「ローンが払えない」

「そんな……」

 義母の手が、畳の上でぎゅっと握られる。

「嫁は? あの子はどうしたの」

「離婚した」

 短い沈黙。

「……あの女のせいね」

 その言葉に、智也は顔を上げる。

「違う」

 自分でも驚くほど、はっきりした声。

「俺のせいだ」

 義母の口が、わずかに開く。

「あなた、何言ってるの」

「全部、俺が勝手にやった」

 部屋の空気が、重く沈む。

「仕送りも、投資も」

「だってあなたが、“母さんが大変だ”って――」

「言った」

 智也は小さく頷く。

「でも、決めたのは俺だ」

 線香の煙が、細く揺れる。

「こんなはずじゃ……」

 義母が呟く。

「あなたは出世して、家も建てて、孫も生まれて」

 その未来図が、ゆっくり崩れていく。

「こんなはずじゃなかったのよ」

 声が、子どものように弱い。

 智也は何も言わない。

 言葉が、もう見つからない。

 ◇

 アパートの一室。

 六畳と小さなキッチン。

 壁紙の端が少し浮いている。
 窓を開けると、隣の建物の壁しか見えない。

 段ボールが三つ。

 それだけ。

 床に座り込む。

 静かだ。

 テレビもない。
 冷蔵庫の音も、まだない。

 自分の呼吸だけが、やけに大きい。

 スマホが震える。

 母からの着信。

 画面を見つめる。

 出ない。

 震えが止まる。

 天井を見上げると、薄いシミがある。

 ここが、今の現実。

 誰も怒鳴らない。
 誰も責めない。

 ただ、静か。

 孤立は、騒がしくない。

 じわじわと、染み込む。

 智也は目を閉じる。

 かつての家の匂いを思い出す。

 コーヒーの苦味。
 洗剤の匂い。
 春の風。

 あの場所に戻る道は、もうない。

 窓の外で、誰かの足音が通り過ぎる。

 それだけが、世界の続いている証。

 智也はゆっくりと立ち上がる。

 冷たい床の感触が、足裏に伝わる。

 何もない部屋の真ん中で、立ち尽くす。

 城は崩れた。

 音もなく。

 そして、誰も見ていない。

 それがいちばん、重かった。

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