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第1話:切り捨て宣言
第1話:切り捨て宣言
玄関のドアが閉まる音が、やけに硬く響いた。
カチリ、と金属が噛み合う乾いた音。
その余韻が、やけに長く耳に残る。
「……ただいま」
拓海は靴を脱ぎながら、無意識にネクタイを緩めた。
外の空気はまだ冬の冷たさを残していて、コートに染みついた冷気が、じわじわと肌に戻ってくる。
だが、家の中は妙にぬるい。
暖房の温度が、いつもより少し高い気がした。
「おかえりなさい」
キッチンから声がする。
油のはじける音と、醤油の焦げる香り。ほんのり甘い、みりんの匂いが鼻をくすぐった。
結衣はエプロン姿で、フライパンを傾けていた。
その横顔は、いつも通りだ。
地味で、飾り気がなくて、どこにでもいるような主婦。
拓海はそれを見て、なぜか少しだけ苛立った。
「今日もそれか」
「え?」
「いや、別に。毎日同じようなもんだなって思って」
自分でも、わざわざ言う必要のない言葉だとは分かっていた。
けれど口は勝手に動く。
結衣は一瞬だけ手を止めたが、すぐに「そうだね」と小さく笑った。
その笑い方が、妙に気に障る。
「……なあ」
靴下のままリビングに上がり、ソファに沈み込む。
クッションが沈む音と、わずかな埃の匂い。
テレビはついていない。時計の秒針だけが、やけに大きく響いている。
「話がある」
結衣の手が、また止まった。
ジュッ、と油が一度強く跳ねる。
「うん。ご飯、もう少しでできるけど」
「飯の前にいい」
少しだけ強く言ったつもりだった。
だが、自分の声が思った以上に冷たく響いて、拓海自身が一瞬だけ違和感を覚える。
結衣は火を止めた。
フライパンの中で、音が静かに消えていく。
代わりに、部屋の静けさが一気に濃くなる。
エプロンの紐を軽く整えてから、結衣はリビングに来た。
対面の椅子に座るでもなく、少し距離を取って立つ。
「……どうしたの?」
その声は、いつも通りだった。
何も知らないような、穏やかな声。
だから余計に、言葉が出やすかった。
「離婚しよう」
空気が、止まる。
ほんの一瞬、時計の音さえ消えた気がした。
結衣は、瞬きを一度だけした。
「……急だね」
「前から考えてた」
即答だった。
自分でも驚くくらい、迷いがなかった。
「俺さ、今、重要なポジションにいるんだよ」
ネクタイを完全に外し、テーブルに投げる。
布が擦れる音が、やけに大きく聞こえる。
「この先、もっと上に行く。そういう流れなんだ」
「うん」
「でさ」
少しだけ言葉を区切る。
結衣の顔を見た。
相変わらず、感情が読み取りにくい。
「お前、何もしてないじゃん」
沈黙。
その沈黙が、妙に心地よかった。
「家事やってるって言うけどさ、それって誰でもできるだろ」
キッチンの方から、まだ温かい匂いが漂ってくる。
それすら、今はただの背景にしか感じない。
「俺の仕事に役立ってるか? キャリアに貢献してるか?」
「……」
「してないよな」
結衣は、何も言わない。
ただ、静かに聞いている。
その態度が、肯定しているように見えた。
「正直に言うけどさ」
喉の奥が少し乾く。
けれど、止める理由にはならなかった。
「お前みたいな女は、俺の隣にいる価値がない」
言い切った瞬間、妙な軽さが胸に広がった。
ずっと引っかかっていたものを、吐き出したような感覚。
結衣は、しばらく何も言わなかった。
数秒か、十秒か。
時間の感覚が曖昧になる。
やがて、小さく息を吸う音がした。
「……そっか」
それだけだった。
泣きもしない。怒りもしない。
ただ、受け入れたような声。
「じゃあ、離婚しようか」
あまりにもあっさりしていて、拓海は思わず眉をひそめた。
「……いいのかよ」
「いいよ」
結衣は少しだけ首を傾げた。
「だって、拓海さんはそうしたいんでしょ?」
「……まあな」
何か、引っかかる。
もっとこう、縋りついてくると思っていた。
泣いて、否定して、すがってくると。
それがない。
それどころか——
どこか、すでに終わっていたものを確認しているような、そんな空気。
「荷物、まとめるね」
結衣はそう言って、すぐに踵を返した。
足音が、やけに軽い。
クローゼットを開ける音。
ハンガーが触れ合う、乾いた音。
しばらくして、キャリーケースではなく、古びたボストンバッグを持って戻ってきた。
それほど荷物は多くないらしい。
「それだけか?」
「うん。必要なものは、だいたいこれで」
拍子抜けするほど、簡素だった。
結衣は靴を履きながら、ふと顔を上げた。
目が合う。
その瞳に、かつて見慣れていたはずの温度はなかった。
静かで、澄んでいて——
どこか遠い。
「拓海さん」
「……なんだよ」
一瞬だけ、言葉を選ぶような間。
それから、結衣はほんの少しだけ微笑んだ。
「そうですね」
柔らかい声。
けれど、その奥に、何かがある。
「あなたの“世界”には、私は不要でしょうから」
意味を考えるより先に、ドアが開く音がした。
冷たい外気が、一気に流れ込む。
そして——
静かに、閉まる。
カチリ。
最初と同じ音。
だが今度は、その音がやけに空虚に響いた。
部屋に残ったのは、ぬるい空気と、冷めかけた料理の匂いだけ。
拓海はソファに座ったまま、動かなかった。
(……なんだよ、あの言い方)
胸の奥に、わずかな引っかかりが残る。
だがすぐに、頭を振った。
「……どうでもいいか」
呟いた声は、思ったより軽かった。
テレビをつける。
賑やかな音が、静寂を塗りつぶす。
その裏で、どこかがほんの少しだけ軋んだことに——
拓海は、気づかなかった。
玄関のドアが閉まる音が、やけに硬く響いた。
カチリ、と金属が噛み合う乾いた音。
その余韻が、やけに長く耳に残る。
「……ただいま」
拓海は靴を脱ぎながら、無意識にネクタイを緩めた。
外の空気はまだ冬の冷たさを残していて、コートに染みついた冷気が、じわじわと肌に戻ってくる。
だが、家の中は妙にぬるい。
暖房の温度が、いつもより少し高い気がした。
「おかえりなさい」
キッチンから声がする。
油のはじける音と、醤油の焦げる香り。ほんのり甘い、みりんの匂いが鼻をくすぐった。
結衣はエプロン姿で、フライパンを傾けていた。
その横顔は、いつも通りだ。
地味で、飾り気がなくて、どこにでもいるような主婦。
拓海はそれを見て、なぜか少しだけ苛立った。
「今日もそれか」
「え?」
「いや、別に。毎日同じようなもんだなって思って」
自分でも、わざわざ言う必要のない言葉だとは分かっていた。
けれど口は勝手に動く。
結衣は一瞬だけ手を止めたが、すぐに「そうだね」と小さく笑った。
その笑い方が、妙に気に障る。
「……なあ」
靴下のままリビングに上がり、ソファに沈み込む。
クッションが沈む音と、わずかな埃の匂い。
テレビはついていない。時計の秒針だけが、やけに大きく響いている。
「話がある」
結衣の手が、また止まった。
ジュッ、と油が一度強く跳ねる。
「うん。ご飯、もう少しでできるけど」
「飯の前にいい」
少しだけ強く言ったつもりだった。
だが、自分の声が思った以上に冷たく響いて、拓海自身が一瞬だけ違和感を覚える。
結衣は火を止めた。
フライパンの中で、音が静かに消えていく。
代わりに、部屋の静けさが一気に濃くなる。
エプロンの紐を軽く整えてから、結衣はリビングに来た。
対面の椅子に座るでもなく、少し距離を取って立つ。
「……どうしたの?」
その声は、いつも通りだった。
何も知らないような、穏やかな声。
だから余計に、言葉が出やすかった。
「離婚しよう」
空気が、止まる。
ほんの一瞬、時計の音さえ消えた気がした。
結衣は、瞬きを一度だけした。
「……急だね」
「前から考えてた」
即答だった。
自分でも驚くくらい、迷いがなかった。
「俺さ、今、重要なポジションにいるんだよ」
ネクタイを完全に外し、テーブルに投げる。
布が擦れる音が、やけに大きく聞こえる。
「この先、もっと上に行く。そういう流れなんだ」
「うん」
「でさ」
少しだけ言葉を区切る。
結衣の顔を見た。
相変わらず、感情が読み取りにくい。
「お前、何もしてないじゃん」
沈黙。
その沈黙が、妙に心地よかった。
「家事やってるって言うけどさ、それって誰でもできるだろ」
キッチンの方から、まだ温かい匂いが漂ってくる。
それすら、今はただの背景にしか感じない。
「俺の仕事に役立ってるか? キャリアに貢献してるか?」
「……」
「してないよな」
結衣は、何も言わない。
ただ、静かに聞いている。
その態度が、肯定しているように見えた。
「正直に言うけどさ」
喉の奥が少し乾く。
けれど、止める理由にはならなかった。
「お前みたいな女は、俺の隣にいる価値がない」
言い切った瞬間、妙な軽さが胸に広がった。
ずっと引っかかっていたものを、吐き出したような感覚。
結衣は、しばらく何も言わなかった。
数秒か、十秒か。
時間の感覚が曖昧になる。
やがて、小さく息を吸う音がした。
「……そっか」
それだけだった。
泣きもしない。怒りもしない。
ただ、受け入れたような声。
「じゃあ、離婚しようか」
あまりにもあっさりしていて、拓海は思わず眉をひそめた。
「……いいのかよ」
「いいよ」
結衣は少しだけ首を傾げた。
「だって、拓海さんはそうしたいんでしょ?」
「……まあな」
何か、引っかかる。
もっとこう、縋りついてくると思っていた。
泣いて、否定して、すがってくると。
それがない。
それどころか——
どこか、すでに終わっていたものを確認しているような、そんな空気。
「荷物、まとめるね」
結衣はそう言って、すぐに踵を返した。
足音が、やけに軽い。
クローゼットを開ける音。
ハンガーが触れ合う、乾いた音。
しばらくして、キャリーケースではなく、古びたボストンバッグを持って戻ってきた。
それほど荷物は多くないらしい。
「それだけか?」
「うん。必要なものは、だいたいこれで」
拍子抜けするほど、簡素だった。
結衣は靴を履きながら、ふと顔を上げた。
目が合う。
その瞳に、かつて見慣れていたはずの温度はなかった。
静かで、澄んでいて——
どこか遠い。
「拓海さん」
「……なんだよ」
一瞬だけ、言葉を選ぶような間。
それから、結衣はほんの少しだけ微笑んだ。
「そうですね」
柔らかい声。
けれど、その奥に、何かがある。
「あなたの“世界”には、私は不要でしょうから」
意味を考えるより先に、ドアが開く音がした。
冷たい外気が、一気に流れ込む。
そして——
静かに、閉まる。
カチリ。
最初と同じ音。
だが今度は、その音がやけに空虚に響いた。
部屋に残ったのは、ぬるい空気と、冷めかけた料理の匂いだけ。
拓海はソファに座ったまま、動かなかった。
(……なんだよ、あの言い方)
胸の奥に、わずかな引っかかりが残る。
だがすぐに、頭を振った。
「……どうでもいいか」
呟いた声は、思ったより軽かった。
テレビをつける。
賑やかな音が、静寂を塗りつぶす。
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