2 / 11
第1話:トロフィー・ワイフの選定
しおりを挟む
第1話:トロフィー・ワイフの選定
都心の一等地、地上200メートルのスカイラウンジは、勝利の熱気に浮かされていた。
クリスタルガラスのシャンデリアが、計算し尽くされた角度で光を撒き散らしている。高級な香水と、運び込まれたばかりのオードブルの脂っこい香りが混ざり合い、凪の鼻をわずかについた。
このラウンジにいる、着飾った出資者や社員たちの誰もが知らない。
この会社の心臓部である基幹システムの、最初の数行のコードを書いたのが、今、壁際で炭酸水のグラスを手にしている、この地味な女だということを。
「年商十億、突破。僕たちの勝利に、乾杯!」
壇上で阿久津誠也が声を張り上げると、割れんばかりの拍手が沸き起こった。誠也の隣には、夜会服に身を包んだ華やかな美女が、まるで受賞したトロフィーのように寄り添っている。
凪にとって、この祝賀会は「達成の喜び」を分かち合う場所ではなく、この三年間で構築してきたシステムの「安定稼働」を確認する、最後のチェックポイントに過ぎなかった。
「……凪、ここにいたのか。探したよ」
人混みをかき分けて、誠也がやってきた。隣の美女――SNSで絶大な影響力を誇るインフルエンサー、ルナの纏う濃密な薔薇の香りが、凪のパーソナルスペースを無遠慮に侵食してくる。
「お疲れ様。誠也さん、おめでとうございます。素晴らしい数字ですね」
凪が淡々と告げると、誠也は満足げに、しかしどこか見下すような歪んだ笑みを浮かべた。
「ああ、数字はね。でも、凪。君に話があるんだ。今日という区切りの日に、はっきりさせておきたくて」
誠也の声は、祝いの場に似つかわしくないほど低く、冷たかった。彼はルナの腰を引き寄せ、凪の地味なグレーのセットアップに視線を落とした。
「君の解任を決めた。共同経営者としても、婚約者としてもだ」
心臓の鼓動が、一瞬だけ耳の奥で跳ねた。だが、凪の表情は変わらない。代わりに、会場を流れるジャズの旋律が、やけに鋭く鼓膜を刺した。
「解任。……理由を伺っても?」
「理由は、今この瞬間の君自身だよ。僕の隣にはね、世界を惹きつける“トロフィー・ワイフ”が必要なんだ」
誠也は鼻で笑い、周囲を見渡した。
「見てごらんよ、この華やかなパーティーを。これからの我が社に必要なのは、君のような『地味な裏方』じゃない。ブランドの顔となり、富の象徴となるルナのような輝きだ。君はロジックや効率の話ばかりで、夢がない。ビジネスには彩りが必要なんだよ」
「そう、凪さんだっけ?」
ルナが、真っ赤に塗られた唇を吊り上げた。
「誠也から聞いたわよ。システムとかいう、数字の羅列を作るのが得意なんですってね?でも、それって誰にでもできる作業でしょ?これからの時代はセンスなの。センス。誠也の隣に、あなたみたいな『事務員さん』が立ってたら、会社の格が下がっちゃうわ」
凪は、ルナの言葉を、まるでバグだらけの古いコードを聞くような心地で受け流した。視線を誠也に戻す。彼の瞳には、かつてアパートの一室で、二人で寝食を忘れてキーボードを叩いた頃の情熱は微塵も残っていなかった。
「……業務フローの最適化も、サーバーの負荷分散も、私が独自に設計した『凪・モデル』に依存しています。私が去れば、現場の運用は三ヶ月と持ちませんが、その点についてはどうお考えですか?」
誠也は、心底退屈そうに肩をすくめた。
「凪、君の悪い癖だ。そうやってすぐに自分を神聖化する。マニュアルは残っているんだろう?それに、エンジニアなんて今の世の中、金を出せばいくらでも代わりがいる。君という『古いパーツ』を外して、ルナという『最新のパーツ』に交換する。ただそれだけの合理的な経営判断だ」
「パーツ、ですか」
凪は、冷え切ったグラスの表面を指でなぞった。指先に伝わる結露の冷たさが、今の自分の心境に一番近い気がした。
「君との婚約も、結局はビジネス上の契約みたいなものだった。でも、もう必要ない。君の退職金と株の買い取りについては、ここに契約書を用意してある」
誠也が内ポケットから出した書類には、凪が会社を去るための「出口戦略」が、驚くほど低い金額で記されていた。凪は、それを一瞥することもしなかった。
ただ、真っ直ぐに誠也の目を見つめた。
「誠也さん。最後にもう一度だけ聞きます」
凪の声は、喧騒の中に消えてしまいそうなほど静かだったが、不思議なほどよく通った。
「私を解任し、この場所から追い出すこと。……後悔しませんか?」
誠也は、爆笑した。隣のルナも、甲高い声でそれに合わせた。
「後悔?まさか!むしろ、ようやく肩の荷が降りる気分だよ。明日からは、君の小言を聞かずに、もっと大胆な投資ができる。凪、君はもう過去の人なんだ」
誠也はそれ以上言葉を交わす価値もないとばかりに、ルナを連れて中央のダンスフロアへと戻っていった。
凪は独り、その背中を見つめていた。
彼女が去った後のシステムがどうなるか、そのシミュレーションはすでに彼女の脳内で完結している。
彼女が日々、無意識に行っていた「手動の微調整」こそが、この会社の生命線だった。それを「誰にでもできる作業」と断じた時点で、誠也の敗北は確定している。
(……わかりました。誠也さん)
凪は、手元の炭酸水を一気に飲み干した。喉を焼くような鋭い刺激。
彼女は給仕のトレイにグラスを置き、誰にも気づかれないように会場を後にした。ホテルのロビーへ降りるエレベーターの中で、凪はスマートフォンを取り出し、ある連絡先をタップした。
三年間、一度も返信しなかった「日本で最も偏屈な投資家」からのスカウトメール。
「……もしもし、九条様でしょうか。氷室です。以前いただいたお話ですが」
エレベーターが地上に到着し、扉が開く。そこには、夜の静寂と、冷たい雨の匂いが満ちていた。
「ええ、フリーになりました。……いいえ、悲しんではいません。ただ、市場価値の再定義が必要だと感じただけです」
凪の瞳には、悲しみも怒りもなかった。ただ、極めて冷徹な、エンジニア特有の「最適化」への意志だけが宿っていた。
「私の会社を買い叩こうとした男に、本当の『市場の原理』を教えてあげようと思います。……チェックメイトまでの手順は、もう頭の中にありますから」
雨降る夜の街へと踏み出した凪の足取りは、驚くほど軽やかだった。
背後でそびえ立つ摩天楼の頂上。そこでは今も、何も知らない愚か者たちが、すでに崩壊が始まっていることにも気づかず、シャンパンの泡に酔いしれている。
---
**第2話予告:剥奪されたアクセス権**
翌朝、会社を訪れた凪を待っていたのは、無効化されたカードキーと、誠也による徹底的な「存在の消去」だった。しかし、凪がシュレッダーにかけたのは、単なる紙切れではなく、この会社の「明日」そのものだった……。
都心の一等地、地上200メートルのスカイラウンジは、勝利の熱気に浮かされていた。
クリスタルガラスのシャンデリアが、計算し尽くされた角度で光を撒き散らしている。高級な香水と、運び込まれたばかりのオードブルの脂っこい香りが混ざり合い、凪の鼻をわずかについた。
このラウンジにいる、着飾った出資者や社員たちの誰もが知らない。
この会社の心臓部である基幹システムの、最初の数行のコードを書いたのが、今、壁際で炭酸水のグラスを手にしている、この地味な女だということを。
「年商十億、突破。僕たちの勝利に、乾杯!」
壇上で阿久津誠也が声を張り上げると、割れんばかりの拍手が沸き起こった。誠也の隣には、夜会服に身を包んだ華やかな美女が、まるで受賞したトロフィーのように寄り添っている。
凪にとって、この祝賀会は「達成の喜び」を分かち合う場所ではなく、この三年間で構築してきたシステムの「安定稼働」を確認する、最後のチェックポイントに過ぎなかった。
「……凪、ここにいたのか。探したよ」
人混みをかき分けて、誠也がやってきた。隣の美女――SNSで絶大な影響力を誇るインフルエンサー、ルナの纏う濃密な薔薇の香りが、凪のパーソナルスペースを無遠慮に侵食してくる。
「お疲れ様。誠也さん、おめでとうございます。素晴らしい数字ですね」
凪が淡々と告げると、誠也は満足げに、しかしどこか見下すような歪んだ笑みを浮かべた。
「ああ、数字はね。でも、凪。君に話があるんだ。今日という区切りの日に、はっきりさせておきたくて」
誠也の声は、祝いの場に似つかわしくないほど低く、冷たかった。彼はルナの腰を引き寄せ、凪の地味なグレーのセットアップに視線を落とした。
「君の解任を決めた。共同経営者としても、婚約者としてもだ」
心臓の鼓動が、一瞬だけ耳の奥で跳ねた。だが、凪の表情は変わらない。代わりに、会場を流れるジャズの旋律が、やけに鋭く鼓膜を刺した。
「解任。……理由を伺っても?」
「理由は、今この瞬間の君自身だよ。僕の隣にはね、世界を惹きつける“トロフィー・ワイフ”が必要なんだ」
誠也は鼻で笑い、周囲を見渡した。
「見てごらんよ、この華やかなパーティーを。これからの我が社に必要なのは、君のような『地味な裏方』じゃない。ブランドの顔となり、富の象徴となるルナのような輝きだ。君はロジックや効率の話ばかりで、夢がない。ビジネスには彩りが必要なんだよ」
「そう、凪さんだっけ?」
ルナが、真っ赤に塗られた唇を吊り上げた。
「誠也から聞いたわよ。システムとかいう、数字の羅列を作るのが得意なんですってね?でも、それって誰にでもできる作業でしょ?これからの時代はセンスなの。センス。誠也の隣に、あなたみたいな『事務員さん』が立ってたら、会社の格が下がっちゃうわ」
凪は、ルナの言葉を、まるでバグだらけの古いコードを聞くような心地で受け流した。視線を誠也に戻す。彼の瞳には、かつてアパートの一室で、二人で寝食を忘れてキーボードを叩いた頃の情熱は微塵も残っていなかった。
「……業務フローの最適化も、サーバーの負荷分散も、私が独自に設計した『凪・モデル』に依存しています。私が去れば、現場の運用は三ヶ月と持ちませんが、その点についてはどうお考えですか?」
誠也は、心底退屈そうに肩をすくめた。
「凪、君の悪い癖だ。そうやってすぐに自分を神聖化する。マニュアルは残っているんだろう?それに、エンジニアなんて今の世の中、金を出せばいくらでも代わりがいる。君という『古いパーツ』を外して、ルナという『最新のパーツ』に交換する。ただそれだけの合理的な経営判断だ」
「パーツ、ですか」
凪は、冷え切ったグラスの表面を指でなぞった。指先に伝わる結露の冷たさが、今の自分の心境に一番近い気がした。
「君との婚約も、結局はビジネス上の契約みたいなものだった。でも、もう必要ない。君の退職金と株の買い取りについては、ここに契約書を用意してある」
誠也が内ポケットから出した書類には、凪が会社を去るための「出口戦略」が、驚くほど低い金額で記されていた。凪は、それを一瞥することもしなかった。
ただ、真っ直ぐに誠也の目を見つめた。
「誠也さん。最後にもう一度だけ聞きます」
凪の声は、喧騒の中に消えてしまいそうなほど静かだったが、不思議なほどよく通った。
「私を解任し、この場所から追い出すこと。……後悔しませんか?」
誠也は、爆笑した。隣のルナも、甲高い声でそれに合わせた。
「後悔?まさか!むしろ、ようやく肩の荷が降りる気分だよ。明日からは、君の小言を聞かずに、もっと大胆な投資ができる。凪、君はもう過去の人なんだ」
誠也はそれ以上言葉を交わす価値もないとばかりに、ルナを連れて中央のダンスフロアへと戻っていった。
凪は独り、その背中を見つめていた。
彼女が去った後のシステムがどうなるか、そのシミュレーションはすでに彼女の脳内で完結している。
彼女が日々、無意識に行っていた「手動の微調整」こそが、この会社の生命線だった。それを「誰にでもできる作業」と断じた時点で、誠也の敗北は確定している。
(……わかりました。誠也さん)
凪は、手元の炭酸水を一気に飲み干した。喉を焼くような鋭い刺激。
彼女は給仕のトレイにグラスを置き、誰にも気づかれないように会場を後にした。ホテルのロビーへ降りるエレベーターの中で、凪はスマートフォンを取り出し、ある連絡先をタップした。
三年間、一度も返信しなかった「日本で最も偏屈な投資家」からのスカウトメール。
「……もしもし、九条様でしょうか。氷室です。以前いただいたお話ですが」
エレベーターが地上に到着し、扉が開く。そこには、夜の静寂と、冷たい雨の匂いが満ちていた。
「ええ、フリーになりました。……いいえ、悲しんではいません。ただ、市場価値の再定義が必要だと感じただけです」
凪の瞳には、悲しみも怒りもなかった。ただ、極めて冷徹な、エンジニア特有の「最適化」への意志だけが宿っていた。
「私の会社を買い叩こうとした男に、本当の『市場の原理』を教えてあげようと思います。……チェックメイトまでの手順は、もう頭の中にありますから」
雨降る夜の街へと踏み出した凪の足取りは、驚くほど軽やかだった。
背後でそびえ立つ摩天楼の頂上。そこでは今も、何も知らない愚か者たちが、すでに崩壊が始まっていることにも気づかず、シャンパンの泡に酔いしれている。
---
**第2話予告:剥奪されたアクセス権**
翌朝、会社を訪れた凪を待っていたのは、無効化されたカードキーと、誠也による徹底的な「存在の消去」だった。しかし、凪がシュレッダーにかけたのは、単なる紙切れではなく、この会社の「明日」そのものだった……。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
【完結】精霊に選ばれなかった私は…
まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。
しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。
選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。
選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。
貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…?
☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる