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第4話:沈黙の引き抜き(ヘッドハンティング)
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第4話:沈黙の引き抜き(ヘッドハンティング)
秋葉原の雑居ビルの一室。
窓の外では山手線がひっきりなしに通り過ぎ、鉄の軋む音と街の喧騒が、室内の剥き出しのコンクリートに微かな振動を伝えている。
内装はまだ何もない。だが、九条が用意した黒い光ファイバーの束が、壁を這う血管のように凪のデスクへと「命」を送り込んでいた。
「……凪さん。本当に、いいんですか」
部屋の隅で、昨日合流したベテランエンジニアの佐藤が、淹れたてのインスタントコーヒーを啜りながら、少し不安そうに声を上げた。
「私の給与、阿久津のところにいた時の1.5倍ですよね。九条という男、相当なギャンブラーに見えますが、大丈夫なのですか」
凪は、マルチモニターに流れる膨大なログから目を離さず、キーボードを叩く指を止めた。
「佐藤さん。九条さんはギャンブラーではありません。誰よりも冷徹に『勝てる論理』を買い叩く投資家です。彼が私に出資したのは、私のロジックが阿久津の虚飾よりも市場価値が高いと踏んだからです」
凪は椅子を回転させ、佐藤に向き直った。その瞳には、徹夜明けとは思えない澄んだ光が宿っている。
「それより、佐藤さん。例の『種』……彼らは、今日来ますか?」
「ええ。昨夜、深夜の緊急メンテナンスで阿久津に罵倒された直後、全員に連絡を入れました。……彼らも、もう限界だったようです」
その時、ビルの古びたインターホンが、静寂を破って鳴り響いた。
凪がロックを解除すると、現れたのは三人の若い男女だった。
いずれも、誠也の会社で「地味で目立たない」とされ、ルナが「事務員さん」と一括りにしていた現場の要。データベース構築の天才・田中、フロントエンドの職人・木村、そしてインフラの番人である高橋だ。
彼らは、ブランドロゴが刷新されたばかりの誠也のオフィスから逃げ出してきたばかりで、肩を落とし、顔色は一様に土気色をしていた。
「……氷室さん」
最年少の木村が、震える声で言った。彼女の瞳には、昨夜の徹夜作業による赤い充血と、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。
「本当に、辞めてもいいんですか。私が今抜けると、あっちのサイトの表示速度はさらに落ちます。阿久津社長は『ルナを起用してアクセスが跳ね上がるんだ、耐えられないのはお前のスキルのせいだ』って、みんなの前で……」
「木村さん」
凪は立ち上がり、彼女の冷え切った手を優しく包み込んだ。
「あなたは十分すぎるほど耐えました。サイトが遅いのは、あなたのスキルのせいではありません。阿久津さんが、システムの限界値を無視して広告費を注ぎ込み、構造を無視した派手なバナーを無理やり埋め込ませたからです。……美しくない設計図(アーキテクチャ)に、これ以上あなたの命を削る必要はありません」
「でも、あっちのローンチが……」
「心配いりません。今日、私がここから『Re:Logic 2.0』をデプロイします」
凪は、モニターの一つを三人に向けた。
そこには、かつてのシステムの面影を残しつつも、無駄な贅肉を削ぎ落とし、圧倒的な効率性で構築された新しい世界の設計図(ブループリント)が展開されていた。
「これ……」
田中の目が、驚愕に見開かれた。
「氷室さん、これ、僕がずっとやりたかった『非同期分散処理』の理想形じゃないですか。阿久津に『金にならないし理解できないからやるな』って一蹴された、あの……」
「そうです。あなたの論理は正しかった。ただ、正しく理解できる人間がいなかっただけです」
凪の声は、静かに、しかし情熱的に彼らの心へ浸透していった。
「ここでは、誰の機嫌を取る必要もありません。新しいロゴのデザインも、インフルエンサーのご機嫌取りもいらない。ただ、世界で最も『正しいコード』を書くこと。それだけが、私たちの共通言語です」
室内を流れる空気が、一瞬にして変わった。
絶望に支配されていた三人の瞳に、かつてエンジニアを目指した頃の、純粋な探究心の火が灯り始めた。
「……やらせてください」
高橋が、重いリュックサックを下ろして言った。
「阿久津に、僕たちの仕事が『誰にでも代わりが効く作業』じゃないってことを、身をもって教えてやりたい」
「いいえ、高橋さん」
凪は、冷徹な微笑を浮かべた。
「復讐のためにコードを書かないでください。それは、あなたの論理を汚すことになります。私たちは、ただ市場の真実を突きつけるだけです。……彼が捨てた『エンジン』が、どれほどの出力(パワー)を持っていたのか。それを知った時、彼は勝手に自滅します」
その時、凪のスマートフォンが、デスクの上で激しくバイブレーションを始めた。表示された名前は『阿久津 誠也』。
凪は、スピーカーフォンをタップした。
『――凪! おい、凪! 田中と木村と高橋が、出社してこないんだ! お前、何かしたのか? これは背任行為だぞ! 訴えてやる!』
スピーカーから漏れ出す声は、かつての傲慢さを失い、焦燥と怒りに濁っていた。
凪は、モニターに映る「退職届」のPDFファイルの山を眺めながら、淡々と答えた。
「阿久津社長。私は何もしていません。彼らは自らの意志で、自分の『価値』が正しく評価される場所を選んだだけです。……マニュアルなしでの運用はいかがですか? 今朝も冷え込みましたから、サーバーの同期が不安定になっているはずですが」
『うるさい! あんなもの、外部のコンサルに頼めばすぐに直せる! お前たちがいなくても、会社は回るんだ! ルナとの提携で、株価はさらに上がる。お前なんか、一生後悔させてやるからな!』
「……左様ですか。では、お仕事、頑張ってくださいね。インフルエンサーとの打ち合わせは、さぞ『華やか』で楽しいことでしょう」
凪は、誠也の絶叫が途切れる前に、迷わず通話を終了させた。
「……さあ、始めましょうか」
凪がそう言うと、佐藤、田中、木村、高橋の四人が、それぞれのデスクに座り、ノートパソコンを開いた。
カチャカチャ、カチャカチャ……。
秋葉原の片隅。小さなビルの中に、世界を書き換えるための「音」が響き始めた。
それは、かつての自分たちを縛っていた古い殻を脱ぎ捨て、新しい生命が胎動する時の音だ。
「佐藤さんはサーバーサイド、田中さんはDBの再構築。木村さんはUI。高橋さんはインフラの冗長化をお願いします」
凪は、メインコンソールに向かい、最後の一行を打ち込んだ。
(阿久津さん。あなたが『華やかさ』と呼んだものの裏側で、どれほどの人間が泥を啜り、支えてきたか。……その重みを、空っぽになったオフィスで、一人で噛み締めてください)
モニターの光に照らされた凪の横顔は、昨夜よりもずっと透き通っていた。
彼女が構築した『Re:Logic 2.0』が、今、静かに世界のネットワークへと流れ出していく。
それは、一人の女性が失った尊厳を取り戻すための戦いであると同時に、美学なき経営者が、自ら招いた論理の破綻へと飲み込まれていく、その幕開けでもあった。
---
**第5話予告:砂上の楼閣、最初の警告灯**
誠也の会社は、有名インフルエンサー・ルナを起用した大規模キャンペーンを開始する。しかし、凪が予測した通り、アクセスの集中に耐えられない「ハリボテのシステム」は、歴史的な大崩壊(クラッシュ)へと向かっていく。そして、凪の元には、九条からある「招待状」が届く……。
秋葉原の雑居ビルの一室。
窓の外では山手線がひっきりなしに通り過ぎ、鉄の軋む音と街の喧騒が、室内の剥き出しのコンクリートに微かな振動を伝えている。
内装はまだ何もない。だが、九条が用意した黒い光ファイバーの束が、壁を這う血管のように凪のデスクへと「命」を送り込んでいた。
「……凪さん。本当に、いいんですか」
部屋の隅で、昨日合流したベテランエンジニアの佐藤が、淹れたてのインスタントコーヒーを啜りながら、少し不安そうに声を上げた。
「私の給与、阿久津のところにいた時の1.5倍ですよね。九条という男、相当なギャンブラーに見えますが、大丈夫なのですか」
凪は、マルチモニターに流れる膨大なログから目を離さず、キーボードを叩く指を止めた。
「佐藤さん。九条さんはギャンブラーではありません。誰よりも冷徹に『勝てる論理』を買い叩く投資家です。彼が私に出資したのは、私のロジックが阿久津の虚飾よりも市場価値が高いと踏んだからです」
凪は椅子を回転させ、佐藤に向き直った。その瞳には、徹夜明けとは思えない澄んだ光が宿っている。
「それより、佐藤さん。例の『種』……彼らは、今日来ますか?」
「ええ。昨夜、深夜の緊急メンテナンスで阿久津に罵倒された直後、全員に連絡を入れました。……彼らも、もう限界だったようです」
その時、ビルの古びたインターホンが、静寂を破って鳴り響いた。
凪がロックを解除すると、現れたのは三人の若い男女だった。
いずれも、誠也の会社で「地味で目立たない」とされ、ルナが「事務員さん」と一括りにしていた現場の要。データベース構築の天才・田中、フロントエンドの職人・木村、そしてインフラの番人である高橋だ。
彼らは、ブランドロゴが刷新されたばかりの誠也のオフィスから逃げ出してきたばかりで、肩を落とし、顔色は一様に土気色をしていた。
「……氷室さん」
最年少の木村が、震える声で言った。彼女の瞳には、昨夜の徹夜作業による赤い充血と、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。
「本当に、辞めてもいいんですか。私が今抜けると、あっちのサイトの表示速度はさらに落ちます。阿久津社長は『ルナを起用してアクセスが跳ね上がるんだ、耐えられないのはお前のスキルのせいだ』って、みんなの前で……」
「木村さん」
凪は立ち上がり、彼女の冷え切った手を優しく包み込んだ。
「あなたは十分すぎるほど耐えました。サイトが遅いのは、あなたのスキルのせいではありません。阿久津さんが、システムの限界値を無視して広告費を注ぎ込み、構造を無視した派手なバナーを無理やり埋め込ませたからです。……美しくない設計図(アーキテクチャ)に、これ以上あなたの命を削る必要はありません」
「でも、あっちのローンチが……」
「心配いりません。今日、私がここから『Re:Logic 2.0』をデプロイします」
凪は、モニターの一つを三人に向けた。
そこには、かつてのシステムの面影を残しつつも、無駄な贅肉を削ぎ落とし、圧倒的な効率性で構築された新しい世界の設計図(ブループリント)が展開されていた。
「これ……」
田中の目が、驚愕に見開かれた。
「氷室さん、これ、僕がずっとやりたかった『非同期分散処理』の理想形じゃないですか。阿久津に『金にならないし理解できないからやるな』って一蹴された、あの……」
「そうです。あなたの論理は正しかった。ただ、正しく理解できる人間がいなかっただけです」
凪の声は、静かに、しかし情熱的に彼らの心へ浸透していった。
「ここでは、誰の機嫌を取る必要もありません。新しいロゴのデザインも、インフルエンサーのご機嫌取りもいらない。ただ、世界で最も『正しいコード』を書くこと。それだけが、私たちの共通言語です」
室内を流れる空気が、一瞬にして変わった。
絶望に支配されていた三人の瞳に、かつてエンジニアを目指した頃の、純粋な探究心の火が灯り始めた。
「……やらせてください」
高橋が、重いリュックサックを下ろして言った。
「阿久津に、僕たちの仕事が『誰にでも代わりが効く作業』じゃないってことを、身をもって教えてやりたい」
「いいえ、高橋さん」
凪は、冷徹な微笑を浮かべた。
「復讐のためにコードを書かないでください。それは、あなたの論理を汚すことになります。私たちは、ただ市場の真実を突きつけるだけです。……彼が捨てた『エンジン』が、どれほどの出力(パワー)を持っていたのか。それを知った時、彼は勝手に自滅します」
その時、凪のスマートフォンが、デスクの上で激しくバイブレーションを始めた。表示された名前は『阿久津 誠也』。
凪は、スピーカーフォンをタップした。
『――凪! おい、凪! 田中と木村と高橋が、出社してこないんだ! お前、何かしたのか? これは背任行為だぞ! 訴えてやる!』
スピーカーから漏れ出す声は、かつての傲慢さを失い、焦燥と怒りに濁っていた。
凪は、モニターに映る「退職届」のPDFファイルの山を眺めながら、淡々と答えた。
「阿久津社長。私は何もしていません。彼らは自らの意志で、自分の『価値』が正しく評価される場所を選んだだけです。……マニュアルなしでの運用はいかがですか? 今朝も冷え込みましたから、サーバーの同期が不安定になっているはずですが」
『うるさい! あんなもの、外部のコンサルに頼めばすぐに直せる! お前たちがいなくても、会社は回るんだ! ルナとの提携で、株価はさらに上がる。お前なんか、一生後悔させてやるからな!』
「……左様ですか。では、お仕事、頑張ってくださいね。インフルエンサーとの打ち合わせは、さぞ『華やか』で楽しいことでしょう」
凪は、誠也の絶叫が途切れる前に、迷わず通話を終了させた。
「……さあ、始めましょうか」
凪がそう言うと、佐藤、田中、木村、高橋の四人が、それぞれのデスクに座り、ノートパソコンを開いた。
カチャカチャ、カチャカチャ……。
秋葉原の片隅。小さなビルの中に、世界を書き換えるための「音」が響き始めた。
それは、かつての自分たちを縛っていた古い殻を脱ぎ捨て、新しい生命が胎動する時の音だ。
「佐藤さんはサーバーサイド、田中さんはDBの再構築。木村さんはUI。高橋さんはインフラの冗長化をお願いします」
凪は、メインコンソールに向かい、最後の一行を打ち込んだ。
(阿久津さん。あなたが『華やかさ』と呼んだものの裏側で、どれほどの人間が泥を啜り、支えてきたか。……その重みを、空っぽになったオフィスで、一人で噛み締めてください)
モニターの光に照らされた凪の横顔は、昨夜よりもずっと透き通っていた。
彼女が構築した『Re:Logic 2.0』が、今、静かに世界のネットワークへと流れ出していく。
それは、一人の女性が失った尊厳を取り戻すための戦いであると同時に、美学なき経営者が、自ら招いた論理の破綻へと飲み込まれていく、その幕開けでもあった。
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誠也の会社は、有名インフルエンサー・ルナを起用した大規模キャンペーンを開始する。しかし、凪が予測した通り、アクセスの集中に耐えられない「ハリボテのシステム」は、歴史的な大崩壊(クラッシュ)へと向かっていく。そして、凪の元には、九条からある「招待状」が届く……。
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