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第8話:市場価値の冷徹な提示
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第8話:市場価値の冷徹な提示
秋葉原の『Re:Logic』オフィス。
そこには、かつての誠也のオフィスにあったような大理石のデスクも、滝の流れるエントランスもなかった。あるのは、整然と並ぶ高性能サーバーの駆動音と、エンジニアたちが集中してキーボードを叩く、乾いた、しかし心地よいリズムだけだ。
窓の外では、夕暮れの秋葉原がネオンを灯し始めている。その光が、凪のデスクの上に置かれた白い陶器のカップに反射していた。
「……失礼します。阿久津様がお見えです」
佐藤が、かつての雇い主に対して一切の敬意を含まない、冷淡な声で告げた。
扉が開くと、そこに入ってきたのは、もはや「若きカリスマ社長」の面影など微塵もない男だった。
仕立ての良いはずのスーツは皺だらけで、ネクタイは緩み、髪は数日洗っていないかのように張り付いている。誠也の体からは、かつての高級な香水の代わりに、安酒と、追い詰められた人間特有の酸っぱい汗の匂いが漂っていた。
「……凪。……凪、頼む」
誠也は、凪のデスクまで辿り着く前に、その場に膝をついた。
ゴトッ、という鈍い音がコンクリートの床に響く。
「助けてくれ……! 顧客は全員離れた、銀行は融資を打ち切り、ルナも……あいつも、カードを限度額まで使い切ってどこかへ消えやがった! 会社が……僕が作った城が、あと数日で消えてなくなるんだ!」
凪は、キーボードを叩く手を止め、ゆっくりとコーヒーカップを口に運んだ。
温かい液体の苦味が、喉を通っていく。
「……それで? 私に何を求めているのですか。阿久津社長」
「『社長』なんて呼ぶなよ! 凪、悪かった……僕が馬鹿だったんだ! 君を解任したのも、婚約を破棄したのも、全部冗談……そう、君の才能を試すための試練だったんだよ! だから戻ってきてくれ。君さえいれば、システムは直る。また二人で、一から始めよう。愛しているんだ、凪!」
誠也が這いずり寄り、凪の靴に触れようとした。
その瞬間、凪は椅子を微かに引き、その汚れた手を拒絶した。
彼女の瞳は、燃え盛る怒りよりも恐ろしい、絶対的な「無関心」に支配されていた。
「復縁? 支援? ……あなた、まだ勘違いしてるのね」
凪は、デスクの脇に用意していた一束の書類を、誠也の目の前に放り出した。
バサリ、と書類が床に散らばる。
「私はもう、あなたの会社を救う人間じゃない。あなたの会社を『買い叩く』人間よ」
「……買い叩く?」
誠也が呆然と書類を手に取る。そこには、『Re:Logicによる吸収合併に関する合意書』というタイトルとともに、目を疑うような数字が並んでいた。
「……一円!? 譲渡価格、一円だって!? 冗談だろ、十億の価値がある会社なんだぞ!」
「いいえ。現在のあなたの会社の価値は、マイナスです」
凪は冷徹に、数字という名の刃を突き立てた。
「システムは完全停止し、復旧の目処は立っていない。顧客への損害賠償額は膨れ上がり、未払いの役員報酬と、あなたがルナさんに買い与えた贅沢品のローンだけが残っている。その泥舟を、私が『一円』で引き取ってあげるというのです。……これが、現在のあなたの『市場価値』です、阿久津さん」
「そんな……それじゃあ、僕の手元には何も残らないじゃないか!」
「残るものはありますよ。……あなたがこれまで無視し続けてきた、莫大な負債と、法的な責任という名の現実です」
誠也は、床に散らばった書類を握りしめ、獣のような声を上げて泣き始めた。
プライドも、名声も、愛も。
すべてが実体のない「虚飾」であったことを、彼は今、この無機質なオフィスで突きつけられていた。
「……九条様、お願いします」
凪がそう言うと、影のように控えていた九条が、弁護士を伴って前に出た。
「阿久津。……契約書に判を押せ。拒否すれば、君は明日、不渡りを出して刑務所への片道切符を手にすることになる。氷室君の情けを、ありがたく受け取るんだな」
九条の冷たい宣告に、誠也はガタガタと震えながら、泥だらけの指でペンを握った。
彼が最後の一文字を書き終えた瞬間、阿久津誠也という一時代を築いたはずの男は、社会的に、そして経済的に死に絶えた。
誠也が警備員に引きずり出されるように去った後、オフィスには再び、平穏なサーバーの駆動音が戻ってきた。
「……終わりましたね、凪さん」
佐藤が、感慨深げに呟いた。
凪は、窓の外に広がる、凪いだ海のような夜景を見つめた。
「いいえ、佐藤さん。これは終わりではありません」
凪は、メインコンソールに向かい、新しいコードの実行キーを指先でなぞった。
「これは、新しい世界の『デプロイ(展開)』です。……虚飾の城が崩れた跡地に、誰にも壊せない、真実の論理を築き上げる。私たちの本当の仕事は、ここから始まります」
凪の指が、エンターキーを力強く叩いた。
画面上を、無限の緑色のログが駆け抜けていく。
それは、かつての自分を縛っていた「依存」と「搾取」のプロトコルをすべて消去し、自らの足で立つ一人の女性が、世界をアップデートした瞬間だった。
オフィスの中を、清々しい風が吹き抜けた気がした。
凪の横顔は、昨夜よりも、そして三年前のあの夜よりも、ずっと誇らしく、そして透き通っていた。
(さようなら、誠也さん。……あなたの代わりは、私の組んだ一行のコードで、もう十分よ)
夜明けが、少しずつ、しかし確実に、新しい論理の地平線を照らし始めていた。
---
**第9話予告:バイアウト(買収完了)**
買収した旧オフィスの整理に訪れる凪。そこで見つけたのは、誠也が隠していた「最後の裏切り」と、かつて二人で描いた「本当の夢」の残骸だった。凪は、その場所をどう変えていくのか。
秋葉原の『Re:Logic』オフィス。
そこには、かつての誠也のオフィスにあったような大理石のデスクも、滝の流れるエントランスもなかった。あるのは、整然と並ぶ高性能サーバーの駆動音と、エンジニアたちが集中してキーボードを叩く、乾いた、しかし心地よいリズムだけだ。
窓の外では、夕暮れの秋葉原がネオンを灯し始めている。その光が、凪のデスクの上に置かれた白い陶器のカップに反射していた。
「……失礼します。阿久津様がお見えです」
佐藤が、かつての雇い主に対して一切の敬意を含まない、冷淡な声で告げた。
扉が開くと、そこに入ってきたのは、もはや「若きカリスマ社長」の面影など微塵もない男だった。
仕立ての良いはずのスーツは皺だらけで、ネクタイは緩み、髪は数日洗っていないかのように張り付いている。誠也の体からは、かつての高級な香水の代わりに、安酒と、追い詰められた人間特有の酸っぱい汗の匂いが漂っていた。
「……凪。……凪、頼む」
誠也は、凪のデスクまで辿り着く前に、その場に膝をついた。
ゴトッ、という鈍い音がコンクリートの床に響く。
「助けてくれ……! 顧客は全員離れた、銀行は融資を打ち切り、ルナも……あいつも、カードを限度額まで使い切ってどこかへ消えやがった! 会社が……僕が作った城が、あと数日で消えてなくなるんだ!」
凪は、キーボードを叩く手を止め、ゆっくりとコーヒーカップを口に運んだ。
温かい液体の苦味が、喉を通っていく。
「……それで? 私に何を求めているのですか。阿久津社長」
「『社長』なんて呼ぶなよ! 凪、悪かった……僕が馬鹿だったんだ! 君を解任したのも、婚約を破棄したのも、全部冗談……そう、君の才能を試すための試練だったんだよ! だから戻ってきてくれ。君さえいれば、システムは直る。また二人で、一から始めよう。愛しているんだ、凪!」
誠也が這いずり寄り、凪の靴に触れようとした。
その瞬間、凪は椅子を微かに引き、その汚れた手を拒絶した。
彼女の瞳は、燃え盛る怒りよりも恐ろしい、絶対的な「無関心」に支配されていた。
「復縁? 支援? ……あなた、まだ勘違いしてるのね」
凪は、デスクの脇に用意していた一束の書類を、誠也の目の前に放り出した。
バサリ、と書類が床に散らばる。
「私はもう、あなたの会社を救う人間じゃない。あなたの会社を『買い叩く』人間よ」
「……買い叩く?」
誠也が呆然と書類を手に取る。そこには、『Re:Logicによる吸収合併に関する合意書』というタイトルとともに、目を疑うような数字が並んでいた。
「……一円!? 譲渡価格、一円だって!? 冗談だろ、十億の価値がある会社なんだぞ!」
「いいえ。現在のあなたの会社の価値は、マイナスです」
凪は冷徹に、数字という名の刃を突き立てた。
「システムは完全停止し、復旧の目処は立っていない。顧客への損害賠償額は膨れ上がり、未払いの役員報酬と、あなたがルナさんに買い与えた贅沢品のローンだけが残っている。その泥舟を、私が『一円』で引き取ってあげるというのです。……これが、現在のあなたの『市場価値』です、阿久津さん」
「そんな……それじゃあ、僕の手元には何も残らないじゃないか!」
「残るものはありますよ。……あなたがこれまで無視し続けてきた、莫大な負債と、法的な責任という名の現実です」
誠也は、床に散らばった書類を握りしめ、獣のような声を上げて泣き始めた。
プライドも、名声も、愛も。
すべてが実体のない「虚飾」であったことを、彼は今、この無機質なオフィスで突きつけられていた。
「……九条様、お願いします」
凪がそう言うと、影のように控えていた九条が、弁護士を伴って前に出た。
「阿久津。……契約書に判を押せ。拒否すれば、君は明日、不渡りを出して刑務所への片道切符を手にすることになる。氷室君の情けを、ありがたく受け取るんだな」
九条の冷たい宣告に、誠也はガタガタと震えながら、泥だらけの指でペンを握った。
彼が最後の一文字を書き終えた瞬間、阿久津誠也という一時代を築いたはずの男は、社会的に、そして経済的に死に絶えた。
誠也が警備員に引きずり出されるように去った後、オフィスには再び、平穏なサーバーの駆動音が戻ってきた。
「……終わりましたね、凪さん」
佐藤が、感慨深げに呟いた。
凪は、窓の外に広がる、凪いだ海のような夜景を見つめた。
「いいえ、佐藤さん。これは終わりではありません」
凪は、メインコンソールに向かい、新しいコードの実行キーを指先でなぞった。
「これは、新しい世界の『デプロイ(展開)』です。……虚飾の城が崩れた跡地に、誰にも壊せない、真実の論理を築き上げる。私たちの本当の仕事は、ここから始まります」
凪の指が、エンターキーを力強く叩いた。
画面上を、無限の緑色のログが駆け抜けていく。
それは、かつての自分を縛っていた「依存」と「搾取」のプロトコルをすべて消去し、自らの足で立つ一人の女性が、世界をアップデートした瞬間だった。
オフィスの中を、清々しい風が吹き抜けた気がした。
凪の横顔は、昨夜よりも、そして三年前のあの夜よりも、ずっと誇らしく、そして透き通っていた。
(さようなら、誠也さん。……あなたの代わりは、私の組んだ一行のコードで、もう十分よ)
夜明けが、少しずつ、しかし確実に、新しい論理の地平線を照らし始めていた。
---
**第9話予告:バイアウト(買収完了)**
買収した旧オフィスの整理に訪れる凪。そこで見つけたのは、誠也が隠していた「最後の裏切り」と、かつて二人で描いた「本当の夢」の残骸だった。凪は、その場所をどう変えていくのか。
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