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第6話:想定外の出費、自治体からの通知
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第6話:想定外の出費、自治体からの通知
「……なんだ、これ」
健一は、ポストから抜き取った茶色い封筒を見つめた。
“板橋区”の文字が、やけにくっきりと浮かび上がっている。
夕方の風はまだ冷たい。
封筒の紙が、指先にざらりと触れる。
「また税金?」
美津子が、買い物袋を提げたまま覗き込む。
「開けるぞ」
ビリ、と封を切る音。
中から出てきたのは、白い通知書。
「……修繕に伴う助成制度のご案内」
「助成?」
「いや、違う」
健一は目を細める。
「屋根の一部補修、推奨」
「推奨ってなによ」
「つまり、放っておくとまずい」
美津子の眉が、きゅっと寄る。
「いくらかかるの」
健一は、業者の見積もりを思い出す。
数日前、雨漏りの点検を頼んだばかりだ。
「十五万」
「……は?」
美津子の声が、低く震える。
「十五万?」
「最低でな」
台所の時計が、カチ、と鳴る。
時間だけが、容赦なく進む。
「せっかく、三十万近く貯まったのに」
美津子が、ぽつりとつぶやく。
健一は、無言でテーブルに座る。
木の表面の小さな傷が、やけに目につく。
「ダナン、遠のいたな」
「まだ決まったわけじゃ」
そのとき、スマホが震えた。
ピロン。
健一が画面を見る。
「……訃報」
「誰?」
「山本」
美津子が息を呑む。
「同期の?」
「そうだ」
通夜の日程が表示される。
香典、交通費、礼服のクリーニング代。
健一は、深く息を吐いた。
「人生ってのは、うまくできてるな」
「嫌味?」
「いや。タイミングがな」
雨の匂いが、窓から流れ込む。
遠くで雷が鳴った。
数日後。
屋根の修繕工事が始まる。
トン、トン、と金槌の音が、頭上で響く。
健一は、ヘルメット姿の職人を見上げる。
「痛い出費だな」
職人が笑う。
「家は生き物ですから」
その言葉が、妙に胸に刺さる。
(生き物、か)
夜。
家計簿の数字が、赤くなる。
「十五万、出ていく」
美津子が、ペンを止める。
「冠婚葬祭で五万」
「合計二十万」
「……ほぼ、ゼロ」
健一は、通帳を閉じる。
パタン。
その音が、重い。
「なあ、美津子」
「なに」
「俺、働く」
美津子が顔を上げる。
「え?」
「シルバー人材センター」
「急に?」
「急じゃない」
健一は、静かに言う。
「十八万は変わらない。でも、増やせる」
「無理しなくていいのよ」
「無理じゃない」
健一は立ち上がる。
「現役のときは、義務だった」
「今は?」
「選択だ」
翌週。
シルバー人材センターの事務所。
畳の匂いと、コピー機のインクの匂いが混ざる。
「週三日、施設の受付どうですか」
担当者が言う。
「できます」
健一は即答する。
初日。
制服のベストを着る。
鏡に映る自分は、少し照れくさい。
「おはようございます」
自分の声が、思ったより大きい。
受付に立つと、来館者が微笑む。
「ありがとう」
その一言が、胸に温かい。
昼休み。
ベンチに座り、缶コーヒーを開ける。
プシュッ。
苦味が、喉に広がる。
(悪くない)
帰宅。
「どうだった?」
美津子が、玄関で迎える。
「疲れた」
「顔は?」
「悪くない」
健一は、封筒を差し出す。
「日当、三千円」
美津子の目が、潤む。
「三千円」
「小さいだろ」
「大きいわよ」
健一は、靴を脱ぐ。
足の裏がじんわり熱い。
「久しぶりに、ありがとうって言われた」
「会社では?」
「言われなかったな」
美津子が、笑う。
「偉い人だったもの」
健一は、ふっと笑う。
「偉くないほうが、楽だな」
夜。
通帳に、小さな入金が並ぶ。
三千円。
三千円。
三千円。
「ダナン、戻ってくるわよ」
美津子が言う。
健一は、うなずく。
「想定外は、まだ来るだろう」
「怖い?」
「いや」
健一は、静かに言う。
「働けるうちは、怖くない」
窓の外で、雨が止んだ。
濡れたアスファルトの匂いが漂う。
健一は、ベストをハンガーに掛ける。
(十八万の矜持は、守る)
想定外の出費は、確かに痛い。
だが。
そのたびに、彼は新しい自分を見つける。
「明日も行く」
「はい、受付係さん」
美津子の声が、柔らかく響く。
遠のいたはずの海外旅行。
けれど今、健一の胸の中で、また静かに地図が広がり始めていた。
「……なんだ、これ」
健一は、ポストから抜き取った茶色い封筒を見つめた。
“板橋区”の文字が、やけにくっきりと浮かび上がっている。
夕方の風はまだ冷たい。
封筒の紙が、指先にざらりと触れる。
「また税金?」
美津子が、買い物袋を提げたまま覗き込む。
「開けるぞ」
ビリ、と封を切る音。
中から出てきたのは、白い通知書。
「……修繕に伴う助成制度のご案内」
「助成?」
「いや、違う」
健一は目を細める。
「屋根の一部補修、推奨」
「推奨ってなによ」
「つまり、放っておくとまずい」
美津子の眉が、きゅっと寄る。
「いくらかかるの」
健一は、業者の見積もりを思い出す。
数日前、雨漏りの点検を頼んだばかりだ。
「十五万」
「……は?」
美津子の声が、低く震える。
「十五万?」
「最低でな」
台所の時計が、カチ、と鳴る。
時間だけが、容赦なく進む。
「せっかく、三十万近く貯まったのに」
美津子が、ぽつりとつぶやく。
健一は、無言でテーブルに座る。
木の表面の小さな傷が、やけに目につく。
「ダナン、遠のいたな」
「まだ決まったわけじゃ」
そのとき、スマホが震えた。
ピロン。
健一が画面を見る。
「……訃報」
「誰?」
「山本」
美津子が息を呑む。
「同期の?」
「そうだ」
通夜の日程が表示される。
香典、交通費、礼服のクリーニング代。
健一は、深く息を吐いた。
「人生ってのは、うまくできてるな」
「嫌味?」
「いや。タイミングがな」
雨の匂いが、窓から流れ込む。
遠くで雷が鳴った。
数日後。
屋根の修繕工事が始まる。
トン、トン、と金槌の音が、頭上で響く。
健一は、ヘルメット姿の職人を見上げる。
「痛い出費だな」
職人が笑う。
「家は生き物ですから」
その言葉が、妙に胸に刺さる。
(生き物、か)
夜。
家計簿の数字が、赤くなる。
「十五万、出ていく」
美津子が、ペンを止める。
「冠婚葬祭で五万」
「合計二十万」
「……ほぼ、ゼロ」
健一は、通帳を閉じる。
パタン。
その音が、重い。
「なあ、美津子」
「なに」
「俺、働く」
美津子が顔を上げる。
「え?」
「シルバー人材センター」
「急に?」
「急じゃない」
健一は、静かに言う。
「十八万は変わらない。でも、増やせる」
「無理しなくていいのよ」
「無理じゃない」
健一は立ち上がる。
「現役のときは、義務だった」
「今は?」
「選択だ」
翌週。
シルバー人材センターの事務所。
畳の匂いと、コピー機のインクの匂いが混ざる。
「週三日、施設の受付どうですか」
担当者が言う。
「できます」
健一は即答する。
初日。
制服のベストを着る。
鏡に映る自分は、少し照れくさい。
「おはようございます」
自分の声が、思ったより大きい。
受付に立つと、来館者が微笑む。
「ありがとう」
その一言が、胸に温かい。
昼休み。
ベンチに座り、缶コーヒーを開ける。
プシュッ。
苦味が、喉に広がる。
(悪くない)
帰宅。
「どうだった?」
美津子が、玄関で迎える。
「疲れた」
「顔は?」
「悪くない」
健一は、封筒を差し出す。
「日当、三千円」
美津子の目が、潤む。
「三千円」
「小さいだろ」
「大きいわよ」
健一は、靴を脱ぐ。
足の裏がじんわり熱い。
「久しぶりに、ありがとうって言われた」
「会社では?」
「言われなかったな」
美津子が、笑う。
「偉い人だったもの」
健一は、ふっと笑う。
「偉くないほうが、楽だな」
夜。
通帳に、小さな入金が並ぶ。
三千円。
三千円。
三千円。
「ダナン、戻ってくるわよ」
美津子が言う。
健一は、うなずく。
「想定外は、まだ来るだろう」
「怖い?」
「いや」
健一は、静かに言う。
「働けるうちは、怖くない」
窓の外で、雨が止んだ。
濡れたアスファルトの匂いが漂う。
健一は、ベストをハンガーに掛ける。
(十八万の矜持は、守る)
想定外の出費は、確かに痛い。
だが。
そのたびに、彼は新しい自分を見つける。
「明日も行く」
「はい、受付係さん」
美津子の声が、柔らかく響く。
遠のいたはずの海外旅行。
けれど今、健一の胸の中で、また静かに地図が広がり始めていた。
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